下落合1146番地に住んでいた外山五郎Click!は、1921年(大正10)より青山学院中学部に入学していたが、1学年下には大岡昇平Click!がいた。外山五郎は、1つ下の大岡とウマが合ったものか、1924年(大正13)から親しくつき合うようになった。このつき合いは、青年期の思想的に多感な一時期を除いては、外山が千葉で牧師になってからも終生つづいたようだ。
 大岡昇平は、特に外山五郎のハイカラな雰囲気に惹かれたようで、クリスマスの晩餐会などへも外山家から招待されて出かけている。青山学院中等部へ通っているとはいえ、外山家も大岡家もクリスチャンではなかったが、大正期ともなれば当時の山手に建っていたおシャレな西洋館では、キリスト教徒でなくてもクリスマスにはパーティをやるのが慣習化していた。ちょうど同じころ、外山邸から北へ300mほどのところで暮らしていた、寺の息子である佐伯祐三Click!の家へ画家仲間が集り、クリスマスツリーClick!を飾りながらパーティを開いていたのと同じ感覚だろう。
 大岡昇平は、外山五郎の家(外山脩造の長男・外山秋作夫妻邸)で初めてベートーヴェンのハ短調交響曲(No.5)のレコードを聴かせてもらい、強い衝撃を受けている。当時、大岡が渋谷の自宅から省線・山手線に乗って下落合の外山邸へと向かう様子を、1975年(昭和50)に筑摩書房から出版された、大岡昇平『少年』から引用してみよう。
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 私は最初はこういうハイカラな雰囲気に惹かれて遊びに行ったと思う。省線高田馬場で降りた。西武線はまだ通っていなかった。ここに西から流れているのは神田上水の上流の落合川だが、やがて上井草を水源とする妙正寺川と分れる。支流に沿った埃っぽい道を歩き、右側の対岸に椎名町の台地が近くなったところで橋を渡る。木の繁った台地の裾に沿って少し西へ行ったところの左側に、低い石の門がある。道から川まで約千坪の敷地を占めているのが外山の家である。
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 この中で、旧・神田上水のことを「落合川」と書いているが、これは妙正寺川のことを「落合川」Click!と呼称していた林芙美子Click!とも、また異なる呼び方だ。おそらく、林芙美子と知り合っていた大岡昇平は、「落合川」というネームを彼女から聞いて、記憶のどこかにインプットされていたのかもしれない。また、「支流」に沿って「埃っぽい道」を歩いたと書いているのは、旧・神田上水の南側を流れていた灌漑用水に沿って、もともと畦道だった土道を西へ歩いていったということだろう。この「支流」は、現在の栄通りの途中から山手卓球のある道を左折し、東京電燈目白変電所Click!をすぎるあたりから、水田の中に現れる用水路だ。


 「椎名町の台地」に近い橋を渡るという描写は、1924年(大正13)現在に旧・神田上水と妙正寺川が落ち合うエリアに架かっていた、千代久保橋Click!あるいは西ノ橋(比丘尼橋)Click!のいずれかだと思われ、台地状に見えているのはいまだ聖母病院Click!も聖母坂Click!も存在しない、青柳ヶ原Click!から西坂の徳川邸Click!あたりにかけての下落合に連なる目白崖線の丘だ。つまり、大岡は高田馬場駅で降りると、西武線Click!が存在しないため、下落合の丘陵を右手に見ながら、上戸塚地域を東西へ横断するように歩いていたのがわかる。
 「木の繁った台地の裾に沿って」とおる道は、鎌倉街道のひとつである雑司ヶ谷道Click!であり、大岡は青柳ヶ原や徳川邸のある西坂下から、やや下り坂になった道を下りて外山邸の門へとたどり着いている。「道から川まで」、つまり雑司ヶ谷道から妙正寺川まで、当時の外山家は1,000坪の敷地に建っていたのがわかる。再び、大岡昇平の同書から引用してみよう。
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 彼の家は今の西武線下落合駅の北側の、当時豊多摩郡下落合一四一〇番地(ママ)、今の新宿区中落合一丁目あたりの、川に向って傾いた平地にあった。洋風の二階家で、応接間にはピアノがあり、私と同い年の雪子さんという音楽学校へ通っている妹がいた。その名の示す通り五男だが、卯三郎という兄は『詩の形態的研究』という本を、京大美学に在学中の大正十五年に書いていた。これは私の記憶に誤りがなければ、漢字が象形文字であることに注目して、日本の近代詩が西欧の詩とは別の仕方で鑑賞される、というあまり実際的でない指摘をしたはじめての本である。後に「詩と詩論」の詩論家となった。/当時はまだ北海道大学に在学中で、ほとんど家にいなかった。後で窓の外を長髪の和服姿が通って行くのを見て、五郎が何か嘲笑するようなことをいったのを覚えている。五郎は既に油絵を描いていたから、芸術上で意見が合わないことがある、という印象を受けた。(カッコ内引用者註)
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 もちろん、「卯三郎」とは外山卯三郎Click!のことで、大岡が下落合を訪問していた時期には、1930年協会Click!の起ち上げに参画する1年半ほど前のことだ。大岡昇平も、邸内でウロウロしていた外山卯三郎を見かけているようだが、直接話したがどうかは不明だ。また、大岡は外山邸の住所を誤って記載しているが、下落合1410番地は目白通りも近い落合第一小学校Click!の前にあたる、落合町役場が建っていた敷地の一画になってしまい、現在では中落合2丁目に含まれている住所だ。外山邸は、大正末現在の正確な住所表示を書けば、豊多摩群落合町下落合1146番地ということになる。ちなみに、西隣りの屋敷は、のちの二二六事件Click!で岡田啓介首相Click!が隠れることになる、衆議院議員の佐々木久二Click!と清香夫人Click!の邸だった。
 さて、大岡昇平は外山五郎のことを、しばしば筆に取りあげている。それほど、学生時代に強烈な印象を残した友人だったのだろう。また、大岡は外山からばかりでなく、もうひとりの当事者である林芙美子からも、彼のことについてはいろいろ聞いているようだ。
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 外山五郎については私はこれまでに度々書いた。私にベートーヴェン、チャイコフスキーを教えてくれたこと、昭和七年頃、牧師の卵の黒服を着て、下北沢の私の家へ来て、キリスト教に戻ることをすすめたこと、その少し前に林芙美子がパリへ追っかけて行った人物であったこと、などなど。「シェパードみたいな男を持ったって、みんなに笑われたけど」と林さんはいった。「あの人、あたしをぶつのよ」とのろけた。これは牧師服の外山五郎からも、青山学院四年生だった頃の彼からも想像できないことだった。
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 この話は、パリで外山五郎から“やかん”を投げつけられるほどの冷たい仕打ちをうけて、キッパリと別れたと林芙美子がいっていたころから、さらに後年のこと、つまり大岡昇平がおそらく新聞記者時代に林芙美子と交流するようになり、外山も林もパリから帰国した1932年(昭和7)よりずっとあとのころの談だと思われる。腹を立ててとうに訣別した男のことを、その親しい友人の前でいまさらノロケたりするものだろうか?
 
 
 当時は、建築家の白井晟一がわざわざ下落合へ迎えにきて、連れだって待合へと出かけていた時代ではなかったか。(あっ、もちろん家には迎えに来た白井晟一サンとハチあわせした、手塚緑敏Click!サンもいた/爆!) こういう、毅然としてシャキッとしない人間関係の底知れぬだらしのなさに、わたしは林芙美子の“メメしさ”と媚態の気持ち悪さ、気味(きび)の悪さを感じてしまうのだ。
                                   <つづく>

◆写真上:外山邸跡の現状で、中央2棟の白いビルから手前に洋風母屋が建っていた。
◆写真中上:上は、1927年(昭和2)の8,000分の1落合町市街図にみる大岡昇平の散策想定コース。下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる大岡のコース。
◆写真中下:西坂をすぎて、雑司ヶ谷道から外山邸(跡)のある方角を眺めた現状。このあたりから、外山邸の門と2階建て西洋館の屋根が見えたかもしれない。
◆写真下:上左は、1948年(昭和23)現在の空中写真にみる外山邸。屋根の下では、井荻で罹災した外山卯三郎一家が生活しているはずだ。上右は、1963年(昭和38)現在の外山邸。敷地には家が建ち並び、外山邸母屋も多少改築されているようだ。下左は、1966年(昭和41)現在の外山邸跡の様子。十三間通り(新目白通り)工事の進捗で、すでに外山邸は解体され道路の下になっている。下右は、新聞記者時代と思われる大岡昇平。