通称アビラ村(芸術村)と呼ばれた下落合の西部、下落合4丁目2257番地(現・中落合4丁目)にアトリエを建てた洋画家・伴敏子Click!は、1942年(昭和17)4月18日(土)の12時20分ごろ、自宅のある丘上から中ノ道(現・中井通り)Click!が通う南へ下りようとしていた。坂道の上まできたとき、目の前をカーキ色に塗られた双発の軍用機が猛スピードで、ほとんど目の高さの低空を飛びながら通りすぎた。飛行機の胴体には、米軍の星マークがハッキリと見えた。
 彼女は最初、なにが起きているのか理解できず、そのまま坂道を下りはじめたようだ。すると、坂下から学生が駆け上ってきた。そのときの様子を、1977年(昭和52)に冥草舎より出版された伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』から引用してみよう。
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 本土初空襲は土曜日であった。彼女がいつものように家庭教師に出かけるため家を出て、中井におりる坂の上まで来たその時、殆んど目の高さ程の低空の間近かに爆音をバリバリ響かせて、アメリカの星を着けた飛行機が飛んでいる。大学生が一人坂の下から上って来て陽子に云った。/「ありゃ、奥さん大変だ。アメリカんだ」/「空襲!」/二人は夢中で駆け出した。彼女は途中、何事かと往来に出てぽかんとしている町の人達に、/「敵機が来たんですよ、本当の空襲ですよ」/と背を押して壕にゆかせて、ようやく自分の隣組のあたりに帰りついたときに、驚く程近い処で急にサイレンが鳴り出した。あわてふためいたようなその音は、もうどこからも爆音が聞こえなくなっても気が狂ったように鳴り響いてなかなか止まなかった。
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 ここに登場している「陽子」が、中村忠二の妻である伴敏子だ。第3の視点で書いている小説風の「自伝」なので、彼女は主人公「陽子」と表記されている。
 きょうは、外出先で空襲に遭い自転車の荷台に乗せてもらいながら千登世橋をわたって、子どもが通う落合第一小学校Click!へ駆けもどった高田敏子Click!や、入院先の早稲田の岡崎病院で遭遇した堀尾慶治様Click!の体験談につづき、1942年(昭和17)4月18日(土)のドーリットル隊による東京初空襲について書いてみたい。
 ドーリットル隊の1機が、下落合の妙正寺川が流れる谷間上空で目撃されたことは、先に米国が公開しているドーリットル隊の爆撃コースとは、まったく一致していない。また、鷺宮の真上でも低空で南西へ向けて飛ぶ同隊の1機が目撃されており、これも米軍の飛行コースとは合致しない。そもそも、米軍が立案し実施した作戦飛行のコースが、大きくまちがっている可能性があるのだ。
 伴敏子が目撃したドーリットル隊の1機は、おそらく神田川や妙正寺川の川筋を眼下に確認しながら、武蔵野台地の谷間を縫って飛んでいたと思われる。下落合の坂上から目の高さということは、おそらく地表から15~20mほどの超低空飛行だったのだろう。地表スレスレの低空飛行をしているのは、もちろん日本側からできるだけ発見されにくいよう飛行し、対空砲火や迎撃戦闘機を避けるためだ。伴敏子・中村忠二のアトリエは、目白崖線でももっとも標高が高い37m超の城北学園(現・目白学園)のすぐ東側に建っている。記述されている「中井におりる坂の上」が、どの坂道なのかは不明だが、彼女のアトリエからいちばん近い五ノ坂ないしは六ノ坂だとすると、坂上の地点が36mほどだから、妙正寺川の流れる地表からは約16~17mほどの高度になる。
 

 さて、入院中の堀尾様が遭遇した早稲田の空襲は、ドーリットル隊の1番機「2344機」(作戦図の飛行コースはすべて機体番号によって表現される)によるものであることは、おそらくまちがいないだろう。本来は、水道橋の神田川沿いにある陸軍造兵工廠を爆撃する予定だったが、なぜか同河川沿いの早稲田中学校を攻撃目標として爆撃した。これにより、同校とその周辺にいた2名が死亡し19名が重軽傷を負って、50戸あまりの住宅が被害を受けている。2344機は、米軍が発表した爆撃コースによれば、そのまま西南西へ飛び山手線の新大久保駅上空を飛んで、中央線の中野駅南側を抜けていったことになっている。
 一方、尾久周辺を爆撃した2番機(機体番号2292機)は、池袋駅の西側を南南西に飛び、新井薬師前駅の西側から阿佐ヶ谷駅上空を通って南へと飛行している……ことになっている。だが、そもそも米軍が公開した爆撃コースの記録図がおかしい。東京の鉄道各線の駅名が、大きく西へズレているからだ。たとえば、中央線の高円寺駅が「中野駅」とされており、「吉祥寺駅」が三鷹駅の2~3駅先(西)に記載されている。つまり、目標となっている鉄道駅(ないしは地名)が、全体的に大きく西側へスライドして記載されている。日米開戦から間もない時期なので、東京市街地についての米軍情報も、また作戦計画も不正確なものだったのだろう。
 これが、爆撃計画コースと実際の爆撃コースとに、どのような影響(錯誤)を及ぼしているかは詳細に詰めてみないと不明だが、鷺宮を超低空で南西へ向けて飛行したB25は2292機(フーバー中尉の2番機)であり、落合地域の谷間を縫うように飛行したB25は、早稲田中学校を爆撃した2344機の可能性が高い。すなわち、伴敏子が目の高さに星マークを視認した機は、西ないしは西南西へ向けて飛んでいたドーリットル中佐が乗る1番機(2344機)だったと思われる。
 東部軍司令部は、12時28分に空襲警報を発令しているが、ドーリットル隊は東京上空をあらたか飛行・爆撃し終えたあとだった。下落合で目撃されたとみられる1番機(2344機)は、その後、9機の戦闘機による迎撃や激しい対空砲火を受けているが、なんとか中国大陸へと脱出していった。また、南南西へ向けて退避した2292機は、戦闘機による迎撃も対空砲火もまったく受けていない。


 以下、東部軍司令部が13時15分に発表した「戦果」を引用しておこう。
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 午前零時30分頃、敵機数方向ヨリ京浜地方ニ来襲セルモ我ガ空地両防空部隊ノ反撃ヲ受ケ、逐次退散中ナリ。現在マデ判明セル撃墜9機ニシテ、ワガ方ノ損害ハ軽微ナル模様ナリ。皇室ハ御安泰ニアラセラル。
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 東京の市街地では、撃墜されたB25を誰も目撃していないので、さっそく「撃墜9機」は「撃墜クウキ(空気)」と揶揄され、軍の発表がマユツバであることを早くも多くの人々に印象づけている。東京初空襲の「クウキ撃墜」は、この出来事が話題になるたびに、うちの親父もたびたび口にしていた。
 伴敏子の夫・中村忠二は、ラジオから流れる勇ましい大本営発表をそのまま信じていたのに対し、理性的でクールな彼女は、日本の敗戦まで見とおして疑いつづけた。以下、『黒点』から引用してみよう。
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 しかし景気のよい軍の発表にもかかわらず、事実は段々食い違って、心細いことばかりであった。何だか目隠しをされながら、とんでもない犠牲や背負いきれないような義務を負わされてゆく気がして、/「戦争を始めたのはほんの一握りの人達でしょう。東条さんだけじゃあ戦争出来やしないんだから、なぜもっと本当のことを云わないのかしら。今に、こんなではお砂糖もなくなってお菓子なんか食べられなくなってよ。お米だって足りなくなるでしょうよ」/と(陽子は)悲しい見通しをしていたが、新聞やラジオニュースを鵜呑みに信じていた(中村)忠二は、/「馬鹿野郎、そんな馬鹿な世の中が来てたまるか」/と軍を信頼し、政府に協調し、戦勝を固く信じて疑わなかった。(カッコ内引用者註)
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 中村忠二は、男たちが少なくなる一方の状況で、池袋の武井武雄Click!と同様に、下落合の防空団役員の「群長」をかってでていた。伴敏子が状況を冷静に分析し、米国との戦争には「敗ける」というと、そのたびに中村忠二は激怒して「勝つ!」といいつづけたようだ。だが、彼女の予測は次々に的中していくことになる。


 伴敏子・中村忠二アトリエは、二度にわたる山手空襲にも焼けずに戦後まで建っていた。同書には、より徹底したB29による山手空襲の絨毯爆撃も記録されている。1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲Click!は、下落合の西部にまで被害を及ぼす大規模なものだった。東京初空襲からわずか3年後、ふたりのアトリエ周辺では山手空襲による大混乱が起きるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:四ノ坂のバッケ(崖)上から見た、妙正寺川に沿って落合地域の谷間を超低空で飛行するドーリットル中佐のB25(1番機2344)のCGイメージ。下に見えている屋根は、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の手塚緑敏・林芙美子邸。
◆写真中上:上は、空母「ホーネット」の飛行甲板に並ぶドーリットル隊のB25(左)と、ホーネットから発艦するB25(右)。下は、米軍が公表したドーリットル隊による東京初空襲の爆撃コース。東京における実際の目撃情報とは、かなり異なっているコースがある。
◆写真中下:ドーリットル隊の13番機=マックエロイ中尉が搭乗する2247機が撮影した、横須賀新港の周辺(上)とやや南側の安浦町周辺(下)。横須賀新港から画角を少し左手に向けていたら、巨大なガントリークレーン下で建造中の「信濃」Click!がとらえられていただろう。また、安浦町の海辺は戦後に大規模な埋め立てが行われ、現在は当時の海岸線から一変している。
◆写真下:上は、第2次山手空襲直前の1945年(昭和20)5月17日に撮影された早稲田界隈。下は、同空襲後の5月26日以降に撮影された同所。