やはり、下落合4丁目1982番地にあった矢田邸は、改正道路(環6=山手通り)Click!の工事計画にひっかかり、住宅自体を敷地の西隣りへと引っぱっていた。改正道路工事にひっかかったのは、矢田邸が建っていた敷地の大半で、現在は山手通りの8m歩道から見上げる、切り立った一ノ坂の崖上になってしまった位置にあたる。
 矢田津世子Click!が下落合1986番地の家から、南へと下る同じ坂沿いのすぐ下にある下落合1982番地の借家へと引っ越したとき、吉屋信子Click!は転居祝いに彼女へ麻の白いスーツを贈っている。でも、新たな家へ移ってから、わずか1年足らずのうちに改正道路工事が本格化し、自邸の位置を西へ20mほど移動させるために、仮住まいをしなければならなくなってしまった。
 矢田邸が移動したすぐ西隣りの土地は、矢田家へ借家を貸していた添川家が建っていた敷地で、大家の添川共吉が自邸を解体してよそへ引っ越し、矢田家へ敷地をゆずって便宜をはかったかたちだ。改正道路の工事がスタートする前まで、添川邸があった敷地は下落合1985番地で、矢田邸のあった位置が下落合1982番地だったが、工事によって矢田邸の敷地が消滅すると、すぐに行われた地番変更で矢田邸が移動した西隣りの敷地が、新たに下落合1982番地へと変更された……という入り組んだ経緯だ。
 つまり、矢田家は工事がスタートした1940年(昭和15)6月に下落合(4丁目)1982番地から、仮住まいのあった下落合(4丁目)2015番地へと一時的に転居し、1941年(昭和16)3月に西隣りへ移動した自邸のある下落合1985番地へ帰ったことになる。しかし、ほどなく実施された地番変更で、矢田邸は再びなじみのある元の地番=下落合1982番地へともどった……ということになる。ちなみに、母や兄とともに転居した仮住まいの下落合2015番地は、金山平三アトリエClick!の真下(南側)にあたる位置で、二ノ坂と三ノ坂にはさまれて、大正末にひな壇状に開発Click!された急斜面の住宅地だ。現在でも、周囲には昭和初期に建設された邸をあちこちで見ることができる。
 また、敷地をひとつ西へと移動するだけなのに、年をまたがって9ヶ月もの工期を要したのは、旧・添川邸の敷地が矢田邸よりも、数メートル高い位置にあったからだ。だから、厳密にいえば家を浮かせて下にコロをかい、西へと単純に引っぱっているのではなく、家の一部は重さを軽減するために解体されて、西の高い敷地へ移築されているのかもしれない。
 改正道路(山手通り)の工事により、斜面の南東や南側へと下る陽当たりのいい斜面に建てられたはずの家々が、今日、大通りに面した断崖上の敷地になってしまったお宅も多い。矢田家も、そんな邸のひとつだった。一ノ坂からやや東側に引っこんだ、現在では山手通りのためにほとんどすべてが消滅してしまった、途中に独特な屈曲やカーブのある細い路地状の坂道に面していた矢田邸は、戦後、山手通りの開通による交通量の急増とともに、クルマの騒音に悩まされただろう。もっとも、矢田津世子Click!は改正道路の工事は知っていたものの、それが山手通りと名づけられ交通量が激増する戦後を知らない。
 ここに、1枚の写真が残されている。滑らないようコンクリートで階段状に舗装された、一間ほどの細い坂道を歩く着物姿の矢田津世子をとらえた、めずらしい貴重な写真だ。1939年(昭和14)ごろ、自邸の近くで撮影されているので、下落合1982番地に引っ越したばかりのころの1枚だ。坂の両側は緑が濃く、敷地が広そうな家々が建っており、坂下へいくにしたがって濃い樹木が繁っているのがわかる。矢田の背後には、枝を伐ったケヤキと思われる大樹が生えているが、右端に葉のない枝がみえているので、矢田津世子の装いも勘案すると、晩秋か初冬のように思える。下落合1982番地への転居は1939年(昭和14)7月なので、この写真は同年の秋に撮影されているのではないか。はたして、この坂道は下落合のどこなのかが、きょうのテーマだ。
 

 ちょっと横道にそれるけれど、モノクロでわかりにくいが矢田津世子の装いが渋くて美しそうだ。華やかな彼女には、ぴったりの着物だっただろう。彼女は洋装が多かったけれど、着物も多く持っていたらしい。そのあたりの好みを、1978年(昭和53)に講談社から出版された、近藤富枝『花蔭の人 矢田津世子の生涯』から引用してみよう。
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 (帯の)一本は金茶つづれ地に刀の鍔の刺繍である。この鍔のなかには、牡丹に唐獅子、さやがたのなかに桜、亀甲に宝づくし、松にもみじなどの柄がはめこまれてある。これが刺繍かと驚ろくほど、緻密な針のあとに、私は感動した。帯のたれの部分に友豊と署名があり、稲葉の印がおしてある。/もう一本は、あずき色繻子地に、松に千鳥のおとなしい柄が、品よく刺繍してあるもの。なお刺繍の色調はすべて、うす茶、ねずみ、ひき茶など落ちついた渋さで統一されている。/どちらの帯も、津世子遺愛の品で、彼女が生前愛したという地味な織りの着物に、よく似合ったと思う。大島などには金茶地を、津世子好みの琉球絣やお召などには、あずき色の帯がふさわしかったにちがいない。(カッコ内引用者註)
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 この一文で、矢田津世子が徹底した江戸東京の美意識や色彩趣味、すなわち日本橋の“すずめ色”Click!を踏襲し体現していた様子がうかがえる。しかも、遺愛の帯には日本橋室町(駿河町Click!)の後藤家などが武家の道具に多用した、金工細工の絵柄刺繍がほどこされているという徹底した凝りようだ。わたしの祖父母の前に彼女が立ったら、目を細めて「イキだ、美しい!」と絶賛したことだろう。矢田津世子の江戸趣味に、メロメロになった地元の男たちも少なからずいたにちがいない。
 さて、矢田津世子が琉球絣と思われる着物姿で立つ、このようなカーブを描き階段状に舗装された細い坂道を、わたしは下落合でかつて一度も見たことがない。坂道を舗装して、コンクリートの階段状にしなければならないほど、傾斜がかなり急な崖状のバッケ坂Click!だ。雨でも降れば、滑らずに通行するのが困難だったので、当時としては珍しく階段状にコンクリート舗装をしたものだろう。
 矢田邸が接していた門のある東側には、先述のように現在では山手通りの貫通によってほとんど消滅してしまった、いまでは名前さえ不明な細い坂道が急斜面に通っていた。また、矢田邸の西側には、大家の添川邸をはさんで、一ノ坂が中ノ道(現・中井通り)へと下っている。ただし、改正道路工事のために1941年(昭和16)3月からは、西隣りの旧・添川邸の敷地へ家ごと引っぱっているので、矢田邸は一ノ坂に面した家となっている。
 


 つまり、矢田津世子が立っている坂道は、矢田邸の東側に接した細いバッケ坂か、1本西側に通っていた一ノ坂の、とちらかの可能性が高いということになる。ちなみに、矢田家が下落合1982番地へ引っ越してくる前に住んでいた下落合1986番地の家もまた、この改正道路の工事で消滅した名もない細いバッケ坂筋に面していた。だから、いまでは南半分がすっかり山手通りに削られて存在しない、下部がかなり急な傾斜だったと思われる一ノ坂の可能性も残るが、いまだ矢田邸が一ノ坂に面していなかった時期に撮影された写真ということから、南側の大半の道筋が消えてしまった、矢田邸東側の接道=細いバッケ坂のように思えるのだ。
 その根拠は、一ノ坂の中腹から下は早くから宅地開発され、1936年(昭和11)や1941年(昭和16)の空中写真をみても、ほぼすべての森林が伐採され造成された宅地に家々が建てこんでいること、また一ノ坂は三間道路の延長であり写真ほど道幅が狭くなかったこと、さらに、一ノ坂の下がコンクリートの階段状になっていたとは一度も聞いたことがないこと……などから勘案すると、この坂道はわたしがかつて一度も見たことのない、1944年(昭和19)までに大半の道筋が改正道路の掘削工事で消滅してしまう、一ノ坂と振り子坂Click!にはさまれた細い坂道、すなわち途中に特徴的な屈曲部のある、緑の濃い急斜面に通っていた細いバッケ坂ではなかったか。
 この坂道は、1941年(昭和16)の空中写真では確認できるが、1944年(昭和19)にはすでに消滅している。したがって、おそらく戦争がそれほど激しくならず、いまだ工具や作業員などが不足せずに工事がつづけられた、1942~43年(昭和17~18)あたりに斜面ごと崩されていると思われるのだ。
 矢田津世子の写真を観察すると、坂が下っていくにしたがい右手へカーブしているのがわかる。「火保図」が作成された1938年(昭和13)、すなわちこの写真が撮影される前年の住居表示にしたがえば、右手に見えている家が中田邸の東隣りにあたる下落合1925番地の住宅であり、この家に隠れた坂を曲りなりに下った右手には、宮崎邸が建っているはずだ。また、矢田津世子の左側に見えている住宅の入り口は、下落合(3丁目)1778番地の家の1棟であり、この坂道は丁目の境界に設定されており、彼女の右手が下落合4丁目、また彼女の左手が下落合3丁目ということになる。カメラマンは、矢田邸を出て津世子とともに坂を20mほど下り、坂を上ってくる彼女の姿をとらえたかったのだろう。下落合1982番地の矢田邸は、カメラマンの背後、10mほどの坂上にあると思われる。



 さて、この坂道に名前がないのが、これから記事を書くうえでは非常に不便だ。したがって、下落合の南斜面に通う振り子坂と一ノ坂にはさまれた、山手通りでほとんど全的に消滅してしまったこの坂道のことを、これからは矢田津世子にちなんで、便宜上「矢田坂」と仮称することにしたい。彼女が下落合に住むようになってから、彼女のもとへ求愛に訪れた男たちは、先の近藤富枝の表現によればあまりに多すぎて「数え切れない」。よほど魅力的な男でないかぎり恋愛はせず、静かで上品だがキッパリと「やだ! や~だ!」と断りつづけ、37歳で死去するまで生涯独身のまま文学に精進しつづけた、秋田女性の一本気で真摯な彼女は、あの世で「やだ!坂」に微苦笑してくれるだろうか。

◆写真上:改正道路(山手通り)工事で、崖上になってしまった矢田邸跡の現状。
◆写真中上:上は、一ノ坂の下から(左)と上から(右)見た矢田邸跡。下は、1939年(昭和14)の晩秋に撮影されたとみられる下落合の矢田津世子。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合1982番地の矢田邸予定地(左)と、1941年(昭和16)に大家の添川邸跡へ移動後の矢田邸(右)。中は、1947年(昭和22)の空中写真にみる矢田邸とその周辺域。改正道路(山手通り)工事は戦時中に進み、敗戦時はすでに「矢田坂」は存在せず谷状に深く掘削されていた。下は、1960年(昭和35)ごろに山手通りの「中井駅」バス停から撮影された矢田邸。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合1982番地に採取された矢田邸と、矢田坂で撮影された矢田津世子の想定位置。中と下は、現在の山手通りの上空へ消滅してしまった「矢田坂」の位置を描き入れたもの。