かなり以前に書いた記事でも取り上げたが、中原悌二郎Click!が1919年(大正8)8月、下落合の中村彝アトリエClick!で『若きカフカス人』を制作中に撮影されたとみられるニンツァーの写真Click!が残っている。モデルになったニンツァーが写る背後の壁面には、中村彝が死ぬまでアトリエに架けていたレンブラント風の『帽子を被る自画像』(1910年)がとらえられている。このとき、アトリエの主である中村彝は7月3日から9月13日まで、夏の間じゅう茨城県の平磯海岸へ転地療養をしていて留守だった。
 さて、きょうのテーマは、『帽子を被る自画像』の上に架けられた、おそらく仏像彫刻とみられる2体(右端の一部を入れれば3体)の、まるでモチーフの石膏像のようにみえる“物体”だ。前の記事にも書いたが、この表情は仏を守護する四天王や十二神将、金剛力士(阿形)、さらには風神雷神の表情以外には考えにくい。なぜ、彝アトリエの壁面に、仏像のモチーフが架けられているのだろうか? 中村彝は神道の家柄であり、若いころ野田半三Click!を通じてキリスト教へ惹かれた時期もあったようだが、仏教に興味を抱いたというエピソードは聞かない。また、彝アトリエの壁面に仏像のモチーフが、いくつか架けられていたという証言も見つけることができない。だとすれば、これは中村彝が自ら入手したものではなく、誰かが外部から持ちこんだと考えるのが自然だろう。
 そこには、どのような可能性が考えられるのだろうか? 1919年(大正8)の夏、彝アトリエに関係している人物たち、たとえばアトリエの留守番を頼まれた、美術誌『木星』Click!を発行している下落合1443番地の木星社社主・福田久道Click!、ニンツァーをモデルに『若きカフカス人』を制作した中原悌二郎、ニンツァーを中原に紹介した相馬愛蔵・黒光夫妻Click!……。これらの人々は、時期が少しずつズレているとはいえ、みな奈良の古い仏像に興味をもっていた人物ばかりだ。
 しかも、彫刻という表現分野を考えるのであれば、奈良の仏像に強く惹かれ相馬夫妻とも親しかった荻原守衛(碌山)Click!も含めて、考慮しなければならないテーマだろう。荻原守衛は1910年(明治43年)に死去しているが、中原悌二郎は荻原からの感化で画家から彫刻家へと転じている。以下、荻原守衛の仏像好きについて、1966年(昭和41)に碌山美術館から出版された相馬黒光『碌山のことなど』から引用してみよう。
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 碌山はとにかく希臘(ギリシャ)の彫刻は嫌ひで、片寄つた処はありましたが、これを軽蔑してゐました。底力といふことをよく云ひました。そして戒壇院の四天王とか新薬師寺のものとか、仏を護る荒神に目をつけてゐました。私はその後、法隆寺へいつて四天王を見ましたが、このぼやあつとしたやうな四天王、併しこの人が動いたらどうな力を現はすかといふやうなあの作については碌山は何も云はなかつた。わからなかつたのでせうか。(カッコ内引用者註)
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 また、中原悌二郎は彝アトリエで『若きカフカス人』を制作する前年、1918年(大正7)10月に初めて奈良を訪れている。このとき、彫刻家仲間の石井鶴三、平櫛田中、堀進二が同行していた。石井鶴三の証言を、1981年(昭和56)に出版された中原信『中原悌二郎の想出』(日動出版)所収の、石井鶴三「中原君と私」から引用してみよう。
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 君(中原悌二郎)ははじめて奈良を見た。長年君が憧れてゐた奈良の古藝術と自然とはどんなに君を喜ばしたか、君は至る處で子供のやうに喜んで居た。最初の日は堀(進二)さんと君と私(石井鶴三)の三人だつた。其日は新薬師寺と博物館を見て、三笠山下の宿に泊つた。君は鎌倉時代以下のものには全く見向きもしなかつた。(中略) 二日目からは平櫛さんが加はつて、再び博物館を見、午後三月堂から戒壇院へ行つた。三日目には法華寺から西の京の唐招提寺と薬師寺を廻つた。君は古藝術を熱愛してゐたが、決して執拗でなく、淡々として見て廻つた。(カッコ内引用者註)
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 ここで興味深いのは、相馬黒光の荻原守衛に関する証言と、石井鶴三の中原悌二郎に関する証言に、共通する同一の寺院名が登場していることだ。東大寺の戒壇院と新薬師寺の薬師堂で、いずれも仏を守護する“荒神”の彫刻で有名な寺々ということになる。
 以上のような前提を考慮したうえで、中村彝アトリエの壁に架けられていた仏像とみられるモチーフには、以下のような可能性を想定することができる。
 ①中村彝が碌山の習作を遺品として譲り受けた。(中村屋から持ちだした)
 ②中原悌二郎が碌山の遺品として譲り受け、彝アトリエへ制作期間中に架けた。
 ③中原悌二郎が奈良旅行後に印象深い記念として作り、制作期間中に架けた。
 ④中原悌二郎が奈良旅行の記念にレプリカ土産を入手して、制作期間中に架けた。
 ⑤福田久道が奈良土産として、レプリカを中村彝にプレゼントした。
 この時期、やはり奈良とゆかりの深い会津八一Click!は、いまだ彝アトリエを訪問していないし、相馬黒光『黙移』(法政大学出版局/1977年)の記述によれば、福田久道の案内で相馬夫妻が初めて奈良をめぐったのは、彝の死後しばらくたった昭和に入ってからのことだ。したがって、考えられる可能性としては、彝アトリエとの関連も含めて上記の5つぐらいだろうか。
 さて、①と⑤はちょっと考えにくい。中村彝は、確かに中原悌二郎とともに荻原守衛のアトリエを訪問してはいるが、あえて習作(碌山がこのような習作を制作したとすればの前提だが)を持ちだすほど、彫刻に興味を持っていたかどうかは不明だ。また、彝アトリエの壁面に、このような像が架かっていたとすれば、おそらく彝の周囲にいた誰かが証言を残しているはずだが、そのような証言は存在していない。
 また、木星社の福田久道が奈良の土産に、仏像のレプリカを彝アトリエへ持参したというのも考えにくい。当時、このようなレプリカClick!が奈良土産として売られていたかどうかという課題もあるが(わたしは高価だったろうが売られていたと思う)、画家の中村彝のもとへ福田久道が仏像のレプリカをあえて土産にするとは思えない。そうなると、中原悌二郎がニンツァーをモデルにして、彝アトリエで『若きカフカス人』を制作中に持ちこんだと考える②③④が自然だろう。
 ただひとつだけ、気になることがある。1919年(大正8)の夏、兵庫県西ノ宮町に滞在していた曾宮一念Click!から平磯海岸で療養中の中村彝あてに、奈良の仏像彫刻の写真類が送られていることだ。それは、同年7月18日の彝から曾宮一念あての手紙に書かれているのだが、1926年(大正15)に岩波書店から出版された、中村彝『芸術の無限感』から引用してみよう。
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 兎に角僕は君の貴い芸術と感情とが、つまらない事情の為めに傷つけられない様に心をこめて祈る事にしよう。天平の彫刻写真を有り難う。臥ながら見ていると迚もいゝ気持がする。
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 平磯にいる彝に送られたのは写真であり、下落合の写真にとらえられた立体のレプリカないしは石膏像とは異なるが、中村彝が天平の仏教美術を同年夏に見知っていたのは事実だ。ただし、曾宮一念がなぜ天平仏の写真を送ったのか、前後の事情は不明だ。
 

 もうひとつの課題として、荻原守衛が奈良の仏像を習作として制作したかどうかがある。わたしは、寡聞にしてそのような事例を知らないし、また残された碌山アトリエの写真にも、そのような作品を見つけることができない。また、彫刻家である中原悌二郎が、わざわざ④の土産品としてできの悪いレプリカを入手するだろうか?……という大きな疑問も残る。したがって、もっとも可能性が高いのは③であり、中原自身が奈良旅行から帰った直後に、印象深い仏像を記憶が薄れないうちに自ら習作し、彝アトリエを借り受けた期間だけ壁面に架けておいた……と考えるのが自然だろう。
 では、いずれの寺院に安置された、どの仏像を模倣し習作したのだろうか? 以前にも書いているが、中央に架けられた像は、その表情、首の角度、首まわりの甲冑意匠などを勘案すれば新薬師寺の十二神将の1体、伐折羅大将Click!にまちがいないだろう。レプリカClick!なら、塑像の顔に黒い剥落痕が表現されそうだが、それが見られないのは中原悌二郎の習作だからであり、おそらく石膏ないしは粘土でできていると思われる。ただし、中原悌二郎には悪いが、伐折羅大将の表情は実物にあまり似てはいない。
 左側に架かる仏像は、ややうつむき加減で表情が見えにくいが、可能性としてはふたつあるように思われる。ひとつは、石井鶴三の証言にも登場している戒壇院の四天王のうち、唯一口を開けて怒りの形相をする増長天だ。実際の像は、ほぼ正面を向いているのだが、その頭部(顔面側)だけを習作して壁に紐で吊るしたら、おそらくこのようなうつむき加減になるだろう。下から見上げれば、正面顔にも見える。
 余談だけれど、子どものころ親父が買ってきて大切にしていた増長天の大きめなレプリカ(胸から上)が家にあったのだが、わたしはスーパーボールの標的にして、頭にぶつけて倒し破壊した。あまりのヤバさに、その直後から熱を出して寝こんだ憶えがある。
 増長天にしては、やはり顔がうつむきすぎで表情も目がかなり吊り上がっており、眉間から額の憤怒皺も鋭角すぎる点に留意するとすれば、もうひとつの可能性は興福寺にある阿形の金剛力士像だろうか。顎の線が、増長天よりもやや華奢で細めなところも、そのような印象をおぼえるのだ。中原悌二郎は、奈良の国立博物館を繰り返し訪れているが、ちょうどその時期に金剛力士像が興福寺から博物館へ貸し出されていたのかもしれず、彼は繰り返し同像を眺めたのかもしれない。
 
 
 さて、③のケースだとすれば、彝アトリエから中原悌二郎が引きあげたあと、体調が思わしくないまま平磯海岸からもどった不機嫌な中村彝は、壁龕のあるアトリエ西壁のあちこちに穴がボコボコ開いているのを見て、「穴ボコだらけだべ、なんじゃこりゃ~!?」とカンシャクを起こし、留守番の福田久道を問い詰めなかっただろうか? それとも、中原か福田のどちらかが彝の身体を気づかい、怒りださないように壁の穴を目立たぬよう粘土でふさいでおいたものだろうか。
 中村彝が下落合へ帰着直後のアトリエの様子は、『芸術の無限感』の書簡類では欠落している時期であり、また彝関連の資料にも見あたらず、下落合から平磯海岸へ彝を案内しいつもそばにいた鈴木良三Click!でさえも、帰着時の彝アトリエには立ち会っていないため“空白”の時間なのだ。

★その後、舟木力英さんより、中村彝から高橋吉雄(箒庵)へ十二神将像の模像1体が贈られていることをご教示いただいた。したがって、アトリエ壁面に見える3体と思われる模像は、中村彝自身がどこかから入手したか、あるいはオーダーして造らせた像である可能性が高い。詳細は、コメント欄を参照。

◆写真上:復元された、中村彝アトリエの壁龕のある西側の壁。
◆写真中上:上左は、1919年(大正8)8月に中村彝アトリエでポーズをとるニンツァー。上右は、旧来の大正ガラスがそのまま生かされている彝アトリエのテラスドア。下は、ニンツァー写真にとらえられた西壁の上部に架かる仏像彫刻と思われる顔面像。
◆写真中下:上左は、新薬師寺の十二神将のうち伐折羅大将。上右は、東大寺戒壇院の四天王のうち増長天。下は、興福寺の金剛力士像(阿形)。
◆写真下:上左は、大正期のドアがそのまま生かされた彝アトリエの入り口。上右は、同アトリエの屋根上に立つフィニアル。下左は、中原悌二郎(奥)と中村彝(手前)。下右は、わたしが小学生のときから家の壁面に架けられている伐折羅大将の実物大レプリカ。