下落合からは目白通りをはさんで、すぐ北側にあたる雑司谷旭出43番地Click!(現・目白4丁目)に華族出身の東坊城英子こと、女優の入江たか子Click!が住んでいた。彼女は戦前、吉屋信子Click!のもとを二度ほど訪問している。目白の入江邸から南西へ直線距離で2,000mほどのところ、下落合2108番地Click!の吉屋邸Click!を最初に訪れたのは、吉屋信子が講談社の女性誌「婦人倶楽部」へ『女の友情』Click!を執筆しているさなかの、1934年(昭和9)ごろのことだ。
 もちろん、『女の友情』を映画化するにあたり、ヒロイン役をやらせてもらえるよう入江たか子側からの“売りこみ”だった。吉屋信子は、すでに松竹から映画化のオファーがあったにもかかわらず、入江たか子(入江プロダクション)が所属している新興キネマへ、映画撮影の権利を譲ってしまう。そのときの様子を、1969年(昭和44)に読売新聞社から出版された、吉屋信子『随筆私の見た美人たち』から引用してみよう。
  ▼
 田村道美氏同伴で入江たか子さんが私の家に鶴の舞い込むごとく現れた。彼女はいかにも名門出のおひいさまらしく上品な洋装に楚々として、付き添う美男のマネージャー田村氏が「入江がぜひお作の女主人公をやらせて戴きたいと申しますので、ぜひとも」と弁ずる傍に、いとつつましく控えた彼女は、ときどき「ハイ」とか「ホホ」とか微笑するだけだった。/私の処女作からいつも映画に取り上げてくれた松竹からも、すでに申し込みがあって義理は悪かったが、私はつい、入江たか子主演で当時新進気鋭の田坂具隆監督という魅力にふらふらとして、承諾してしまった。
  ▲
 このあと、映画『女の友情』の脚本も完成に近づき、クランクインも間近になったところで突然、入江プロダクションは新興キネマとの提携を急に打ち切り、さっさと新しい契約を日活と結んでしまう。つまり、『女の友情』のヒロインが原作者了解のもとで決定していたのに、それを無視しての制作現場からの“逃亡”だった。同作の監督だった田坂具隆と、原作者の吉屋信子は登ったハシゴを外されたかたちで、裏切られたと感じただろう。
 田坂監督は、吉屋邸を訪れて入江たか子への怒りをあらわにしながら、信子へ一連の経緯を説明している。この報告に、吉屋信子はさすがに怒り、本人の記述によれば「私も若かったから、彼女の背信にかんむりを曲げて『入江さんなんかに出て貰わないでいいわ、顔だけ綺麗な女優なんて仕方ありませんよ』などと口走ったりカンカン」だったらしい。
 ところが、それから2年ほどたった1937年(昭和12)ごろ、再び入江たか子は吉屋邸を訪れている。このときの自宅は、下落合ではなく鍋島屋敷跡の分譲地に建設された、牛込区市谷砂土原町3丁目18番地の大豪邸のほうだ。今度は、執筆中だった『良人の貞操』のヒロインに入江たか子をよろしく……という“売りこみ”だった。その様子を、再び同書から引用してみよう。
 
  ▼
 その頃の昭和十二年に私の新聞連載小説『良人の貞操』掲載中に、入江たか子と田村氏は同伴でまたも私を訪れて、「こんどのお作を入江がやらせて戴きたい」と例の如く始まった。「いつぞやはまったく残念にも……」とかなんとか弁明につとめる。その美男プロデューサーに私はけっして負けたのではなかった。その傍で消えも入りたげに嫋々とした風情を示す入江たか子の匂いやかな美しさにだった。/戦前刊行の『東宝映画十年史抄』のなかに「『良人の貞操』全国的に大ヒット、東宝系へ転向館続出す」とある。入江、田村御両人は「良人の貞操記念」と裏に彫った腕時計を御持参でお礼に見えた……そうしたおかしな思い出の名女優入江たか子は、現在は銀座の酒場「いりえ」のマダムである。
  ▲
 その銀座「いりえ」のマダムになっていた入江たか子に、吉屋信子Click!は戦後になって出版社の仕事を契機に再会している。東京オリンピックが開かれた年、1964年(昭和39)の夏ごろのことだ。このとき、入江たか子はすでに夫の田村道美とは離婚しており、戦前とは異なり自分の意志や想いをシャキシャキと話し、自由に伝えられる女性に変身していた。
 銀座「いりえ」の収入で子どもたちを育て、再び晩年の映画への連続出演を控えた、ちょうど狭間の時期に吉屋信子は彼女に再会したことになる。
  ▼
 わたくしは今になってしみじみ考えますの、田村は私を映画の生きた商品として高く有利に売り付けることだけに専念して居りましたが、そうではなく、私を女優として完成させるために演技を叩き上げる人が傍にいてくれたら……と、それはほんとに残念でございます。
  ▲
 華族といっても、彼女の育ちはそれほど贅沢なものではなかったようだ。文化学院へ通っていたころ、家族が京都へ転居してしまい、東京に残された入江たか子は宮中の女官になっていた、姉の家へ預けられている。だが、この家は女中頭がすべてを取りしきっており、居候への風当たりはいろいろと強かったようだ。特に、食事の貧弱さはかなりつらかったらしい。

 
 中でも、通学中の文化学院へ持っていく弁当はひどかったらしく、クラスメートの間では弁当のフタを開けられず、廃墟のニコライ堂まで出かけてはひとりで食べていた。戦後に問題となり、給食制度のきっかけとなった欠食児童や、貧困家庭から登校する児童の弁当エピソードのような話だ。
  ▼
 だんなさま(主人の女官)の食客の私に持たせるアルミニュームのお弁当箱のおかずは、御飯の上にいつも小さなお芋を切った煮付けを二切か三切のせるだけなのでございますよ。あんまりお粗末なので学校でみなさまといっしょにはお弁当が開けられず、こっそり出て――近くのニコライ堂、関東大震災で廃墟になって崩れたお堂の陰でひとりでお弁当戴いて……(中略) 文化学院の月謝も滞りがちで……国文の河崎なつ先生(戦後婦人議員にもなった)が、『あなた女優になったらいい』とおっしゃっても、けっしてそんな気になれませんで、絵を描くのが好きで好きで、学校では中川紀元先生にお習いしました。その頃の文化学院には夏川静江さんもいらっしゃいました。
  ▲
 さて、その夏川静江Click!で気にかかることがある。それは、昭和初期に目白文化村Click!でロケが行われた、夏川静江が主演している映画のことだ。1928年(昭和3)に、前編と後編の2回にわたって封切られた、菊池寛Click!原作の『結婚二重奏』(日活)が気になっている。好きあっている男女が、意に染まない結婚をして新生活をはじめるが、やがては満たされないままお互いの気持ちに気づき……という典型的なメロドラマで、のちにタイトルへ「二重奏」とつけられるシリーズ作品のきっかけになった映画だ。監督は、吉屋信子とも親しかった先述の田坂具隆で、ヒロインの「芙美子」に夏川静江が、「立花」役には岡田時彦が出演している。
 それぞれ、別れわかれになってしまった夫婦のうち、どちらかの家庭が下落合の目白文化村(東京郊外の文化住宅)に設定されてやしなかっただろうか。1928年(昭和3)といえば、第一文化村の販売からすでに6年が経過し、建物のたたずまいや樹木・庭木などの風情も、かなり落ち着いてきていたころだ。残念ながら、東京国立近代美術館フィルムセンターに同作は収蔵されていないため、戦災でフィルムが滅失してしまっている可能性が高そうだ。


 
  ▼
 日活で岡田時彦さんと初めて共演した頃、岡田さんからも愛情を示されたことがございますが、おとなしい内向性の美男で紳士的な方でした。『滝の白糸』では名コンビと評判になって、まだこれから幾つも共演を望まれているうちに、肺でお亡くなりになって……わたくしがお悔みにあがった時、いまの岡田茉莉子さんが生後まもない赤ちゃんで、あや子さん(時彦夫人)に抱かれていらっしたのですよ
  ▲
 入江たか子は、『結婚二重奏』へ出演した岡田時彦とは、1933年(昭和8)に『滝の白糸』(日活)で共演しており、これからの映画界をになうゴールデンコンビとして期待されていた。彼女が下落合の吉屋信子邸を訪問して、やや強引に『女の友情』のヒロイン役を渇望したのは、溝口健二監督の『滝の白糸』が大ヒットしていた明くる年のことになる。

◆写真上:めずらしいアングルで、ニコライ堂を上から見ると……。
◆写真中上:左は、1935年(昭和10)前後に撮影された全盛期の入江たか子。右は、1969年(昭和44)出版の吉屋信子『随筆私の見た美人たち』(読売新聞社)。
◆写真中下:上は、1923年(大正12)に撮影された震災直後のニコライ堂。下左は、下落合2133番地の近所に住む林唯一Click!の挿画で1928年(昭和3)に「主婦之友」へ連載された吉屋信子『空の彼方へ』。描かれているのは、廃墟になったニコライ堂だ。下右は、同年「主婦之友」2月号に掲載された菊池寛原作の映画『結婚二重奏』(日活)の紹介記事。
◆写真下:上は、『結婚二重奏』の記者発表用スチール。中は、当時の雑誌に掲載された『結婚二重奏』の媒体広告。下は、いずれも全盛時の夏川静江。温和なおばあちゃん役しか知らないわたしには、2葉ともまぶしい写真だ。