日本で地形図が作られはじめた明治初期、参謀本部の陸軍部測量局はいまだドイツ方式ではなく、フランス方式の地図表現を採用していた。いわゆる「東京実測図」と呼ばれる、1884年(明治17)から製作がスタートする1/5,000地形図は、すでにドイツ方式が採用されているが、それ以前に東京各地を測量して作られた地図は、カラーの1/20,000地形図でフランス方式にもとづいていた。
 地形測量は、参謀本部陸軍部測量局により1876年(明治9)からはじめられ、当初のフランス式地形図はめずらしいカラー表現(彩色図式)が採用された、たいへん貴重なものだ。特に1880年(明治13)には、落合地域を含む東京西郊が測量され彩色図式による制作がなされている。
 「東京実測図」について、1985年(昭和60)に新宿区教育委員会が出版した『地図で見る新宿区の移り変わり-戸塚・落合編-』の解説編所収、「戸塚・落合の地図」から引用してみよう。ちなみに、『地図で見る新宿区の移り変わり』で落合地域の地形図が収録されているのは、1910年(明治43)にドイツ方式で作成された1/10,000地形図のみであり、明治初期のフランス式1/20,000彩色地形図は掲載されていない。
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 (註:1/5,000東京実測図は) 明治九年(一八七六)測量開始、西南の役で一時中断したが一七年完了、当初フランス式の彩色図式(地図彩式、兵要測量軌典)で測量されたが、一七年より製図、一八年より銅版彫刻、一九年完成し刊行された。刊行図は一色線号式のドイツ式の図式で表現されていた。これは、明治三年(一八七〇)普仏戦争の結果と一六年ドイツから帰朝の田坂大尉を待ち、日本の陸軍軍制にともない地図の諸様式も明治一七年ドイツ式に改めたことによっている。明治初年の国内の内乱に対する不安、地理局の地図に対する測量局の対抗的実績作りがこのような精密詳細な都市図を作らせたものと思われる。
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 明治初期に制作された1/20,000地形図が貴重なのは、カラー表現であるのに加え、各地域のポイントとなる情景や測量技師たちが気を惹かれた風景が、陸軍測量局に参画していた画家たちによってスケッチされている点にある。つまり同地形図は、地図が描かれた欄外に水彩による風景画が挿入された、イラストマップになっているということだ。
 そして同1/20,000地形図には、いまだ豊多摩郡落合村になる以前、北豊島郡上落合村/下落合村/葛ヶ谷村時代の落合地域を測量した、「東京府武蔵圀(国)南豊島郡大久保村北豊島郡長㟢(崎)村及東多摩郡中埜(野)村近傍村落図」が含まれている。現地へおもむき、地形を実際に測量したのは参謀本部陸軍測量局の、いわゆる陸地測量隊と呼ばれたプロジェクトチームに属する歩兵大尉・菊池主殿と、その助手で民間人の測量技師らしい粟屋篤蔵のふたりだ。そして、「東京府武蔵圀東多摩郡新井村」地形図の欄外には、下落合の情景をスケッチした水彩による風景イラストが挿入されている。

 
 モチーフに選ばれたのは、下落合村にある火事で焼失した水車小屋だ。タイトルは『下落合村水車焼跡』と付けられており、つづけて「図之欄外三百米突」と記載されている。同画は、先に記したように「東京府武蔵圀東多摩郡新井村」地形図の欄外に挿入されたものであり、「図之欄外」は同地形図の欄外のことで、地図の境界から「三百米突」つまり300mほど下落合村側へ突き出た位置にある風景という意味だ。同地形図には、新井村とともに中央には上高田村が描かれており、その東側(下落合村側)へ300mほど出たところにあるのは、落合分水(千川分水)Click!から妙正寺川へ注ぐ水流を利用して設置された、御霊下(のち下落合5丁目)にある「稲葉の水車」小屋Click!のことだ。
 もっとも、同地形図には妙正寺川という名称はまだ採用されておらず、「仙(千)川用水末流」などという耳馴れない川名が記載されている。これは、陸軍部測量局がいまだ妙正寺川の湧水源を確認していなかったからと思われ、落合分水(千川分水)が流入しているのは確認済みということで、そのような名称を記載しているのだろう。
 また、1880年(明治13)当時、落合地域を流れるいまだ小川状の妙正寺川には、3つの水車が存在していたのがわかる。ひとつは、のちに養魚場Click!も併設される御霊下の「稲葉の水車」で、現在の落合公園の池があるあたりだ。ふたつめは、バッケ堰Click!のすぐ下流にあった「バッケ水車」で、大正期の新しい水車小屋の北側にあった、旧・水車小屋のほうが採取されているのだろう。大正期の旧・水車小屋では、父親が病気をし青物の仲買いでは食べられなくなった小島善太郎Click!の家族が、極貧の家庭生活の中で農民相手のささやかな銭湯Click!を経営していた。そして、最下流の水車は現在の寺斉橋あたりに設置されていた。
 稲葉の水車をモチーフに、水彩画『下落合村水車焼跡』を描いた画家は不明だが、当時は参謀本部付きの画家たちが嘱託のようなかたちで何名かいたので、そのうちのひとりの「作品」だ。当時は写真技術が未発達であり、このような風景記録は画家の仕事だった。参謀本部付きの画家たちを研究しはじめると、それこそ面白い物語がたくさん見つかりそうなのだが、落合地域がメインテーマの当サイトでは深入りしないことにする。
 画面を見ると、稲葉の水車は明治初期に焼失したことがわかるが、出火原因までは不明だ。小麦の製粉作業か、あるいは明治期になってスタートした鉛筆の芯材料となる炭粉の製造作業などで生じた、摩擦熱による発火・炎上なのかもしれない。この火災による負債が原因で、同水車の権利が下落合村の稲葉家から、のちに日本閣Click!の経営をはじめる上高田村の鈴木屋(当初の屋号)=鈴木家へ移行したという、いまに残る伝承へとつながっているのかもしれないが、『下落合村水車焼跡』の画面からは1880年(明治13)の7月現在、稲葉の水車小屋が全焼しているという事実しかわからない。


 下落合の「稲葉の水車」について、1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された『ふる里上高田の昔語り』所収の、細井稔「明治・大正・昭和編」から引用してみよう。
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 現在の中野区営の野球場の裏手の御霊橋は、前述した懐かしい泳ぎ場所新堰で、このやや上手から目白の山下を道沿いに導水して、落合い(ママ)田んぼと、一部は稲葉の水車に流れていた。/稲葉の水車は今の落合公園の南側、妙正寺川に近い北側にあり、まわりは、杉や樫に囲まれ、相当広い場所を占めていた。落合公園のあたりは、鈴木屋(日本閣の前身)の釣堀用の養魚場であった。/稲葉氏は鈴木屋と姻戚関係であるが、何か失敗し、後に鈴木屋鈴木磯五郎氏に所有が移った。/水車は相当大きく幅約三尺、直径は三間以上あった様に思う。悪戯盛りが水車で遊んでいる時、水の取入口から水車の下に落ち、幅に余裕があったのでうまく輪の下を流され、妙正寺川の本流まで押し流された悪童がいた。命に別状なく怪我もせずに済んだ。
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 画面を見ると、手前には焼失した水車小屋と、かろうじて原型をとどめた水車が描かれ、背後には御霊社Click!や現在の目白学園がある、下落合西端の丘が描かれている。この丘上に、目白学園の前身である城北学園Click!が建設されるのは大正後期なので、明治初期の画面ではいまだバッケ上には鬱蒼とした森林が繁っている。その様子は、『江戸名所図会』に描かれた江戸期の風情とほとんど変わらなかっただろう。長野新一が描いた『養魚場』Click!とは、南北逆の位置からモチーフをとらえて描いたものだ。長野新一は、落合分水によって形成された養魚場の池を手前に入れ北から南を向いて制作し、陸軍部測量局の画家は焼け残った水車を中心に南から北を向いて描いている。
 落合地域の地形図に目を向けると、茶畑があちこちで確認できる。明治期から大正期にかけ、落合では茶の栽培が流行したことを裏づける記載だ。また、森や林には生えている木々の植生までが採取・記載されている点も貴重だ、竹林や杉林、楓林、松林、そして多彩な樹木が入り混じる雑木林の位置が、明確にわかるよう描写されている。ただひとつ残念なことは、のちにスタートする1/10,000地形図とは異なり、小字や地名などが採録されていないことだ。1/20,000では小さすぎて、字や地名を入れると煩雑になるので避けたのかもしれないが、非常に惜しい点ではある。


 落合地域でもっともにぎやかなのは、椎名町(現在の目白通りと山手通りの交差点界隈)と、薬王院門前の本村界隈だ。この時期、日本鉄道による品川赤羽線(のちの山手線)は敷設されておらず、金久保沢のある目白停車場の谷間地形が、そのまま手つかずの状態で採取されている。江戸期の状況とほとんど変わらない、この1/20,000カラー地形図についてはとても興味深い表現が多々あり、また稿を改めて詳しく書いてみたいテーマだ。

◆写真上:1880年(明治13)の参謀本部陸軍部測量局が作成したカラー1/20,000地形図欄外に掲載の、稲葉の水車を描いた『下落合水車焼跡』。
◆写真中上:上は、同1/20,000地形図の下落合村にみる稲葉の水車界隈。下左は、画面背後に描かれた丘上にある中井御霊社。下右は、同地形図の欄外に挿入された歩兵大尉・菊池主殿と民間の測量技師と思われる助手・粟屋篤蔵のクレジット。
◆写真中下:上は、稲葉の水車小屋が建っていた現在の落合公園内。下は、1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる稲葉の水車界隈。
◆写真下:上は、東へ向かえば稲葉の水車へと出られる昭和初期に撮影された上高田の新井薬師道(鎌倉街道)。下は、1924年(大正13)制作の長野新一『養魚場』。稲葉の水車小屋を北側から眺めたもので、焼失後に再建された建物のままかもしれない。