1945年(昭和20)5月25日(水)の夜、東部軍管区がラジオを通じて流していた警戒警報は、午後10時すぎには空襲警報へと変わった。落合地域には、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴りわたり、前日につづいてあたりは騒然とした雰囲気に包まれた。河川沿いの工場や鉄道駅を中心に爆撃した、4月13日夜半の第1次山手空襲Click!のあと、米軍の空襲は(城)下町Click!の焼け残り地域や、地方都市の爆撃へと順次推移しており、山手への空襲はもうないと安心していた人たちも少なからずいた。しかし、5月23~24日夜に再び大規模な爆撃が東京市街地を中心に行われ、ひと昔前までは東京郊外だった地域に住む人たちの、はかない望みは断たれた。
 5月23~24日夜に行われた、562機のB29による空襲で燃える東京市街地を、遠く落合地域の丘から眺めていた人々は、「明日はわが身」だと感じていただろう。しかし、ほんとうに翌日の5月25日の午後11時ごろに、502機ものB29が山手を再び絨毯爆撃しにくると予想していた人は、それほど多くなかったにちがいない。この当時、サイパンやグァムに展開していた第21爆撃軍は、B29本体や搭載用の爆弾・焼夷弾の供給過剰により、その格納や保管にも困るほどだったという。少しでも早く、それらを「消費」する必要性に迫られていたのが、のちに公開された米軍資料から明らかになっている。2日(足かけ3日)連続の大規模な東京空襲は、それまでかろうじて焼け残っていた街角を焦土に変えた。
 5月25日の昼間、下落合4丁目2257番地のアトリエにいた伴敏子Click!は、横須賀の親戚の家へ出かけた隣家の娘をあずかっていた。隣りの主婦は、頻繁に艦載機の機銃掃射をあびせられる横須賀線で、なんとか無事に下落合へ帰宅している。その夜、ラジオからまたしても東部軍管区情報が流れ、B29の大編隊が東京へ来襲しつつあることを告げた。彼女の耳には、すでに夜空から刻々と近づいてくる大編隊の爆音が聞こえていただろう。彼女は、隣家に駆けこんだ。1977年(昭和52)に冥草舎から出版された、伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』から引用してみよう。
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 「奥さん、お客様よ。今夜はどっさりよ」/と戸を叩いてもなかなか起きない。やっと起き出しても、平常は柄のわりに臆病な人が、/「もうどうでもいいわ、私、寝かしといて」/と坐り込んでしまう。無理もないとは思いながらも、「そんなことでどうするのよ。後で慌てても知らないことよ。早く子供達を起こしてよ」/と憤った声で云って、いつものように真暗やみの中を、一人を背負い一人の手を引いて林の壕に退避させると、ほとんど同時のようにバリバリッ、ドスンドスンと激しい空襲が始まった。/どうでもよかった香(隣家の主婦)も、すっかり目を覚まして、荷物を運び出したり大騒ぎとなった。右から左から前から後から、もうどちらということもなく四方火の海となって、その照り映えに機体の腹を真赤に染めて繰り返し敵襲があった。熱風が焼け残った家々を巻き揚げるかと思うように吹きまくった。いつも二階から掛け声だけで誤魔化して、なかなか防空服装にならない(中村)忠二も、さすがにこの時ばかりは鉄兜をきちんと被って群長らしく役目を果たしていた。四方が焼けているので壕は隣組のも、自家のものも、他からの避難民ですっかり占領された形になってしまった。その中には家族を引き連れた制服の職業軍人さえ居て、/「ここは我々個人の壕です。家族や子供が入れないから、この先の都(1943年より東京都)の共同壕に行って下さい」と頼んでも、恐ろしい顔をして睨みつけるばかりでなかなか引きあげてはくれなかった。(カッコ内引用者註)
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 下町でも見られた情景だが、ここでも軍人が真っ先に防空壕へ退避し、民間人を締めだすという現象が見られる。しかも、町内で掘った共同壕の話ではなく、個人宅の防空壕へ家族とともに居すわっているのだから、恥知らずでより悪質なケースだ。この防空壕は、伴敏子と隣家の主婦とが毎日少しずつ掘り進め、数ヶ月かけてようやく完成させた3畳大のものだったが、空襲がはじまってからしばらく、中村忠二・伴敏子夫妻と2階に寄宿していた老婆、隣家の主婦や幼い子供たちは、防空壕に退避できず爆撃の危険に直接さらされることになった。
 さて、ここに書かれている「林の壕」とは、どこに掘ったものだろう。敗戦後の1947年(昭和22)に、米軍が爆撃効果測定用に撮影した空中写真を見ると、中村忠二・伴敏子アトリエClick!の東側にも西側にも、また南側にも林が見えている。林の中には、物置きかなにかの藁屋が建てられていて、それが直撃弾を受けて炎上している描写があるので、樹木の密度が比較的濃い、アトリエや隣家から細い道をはさんで南側に拡がっていた林ではないか。1941年(昭和16)に陸軍が撮影した空中写真を見ると、西側の林には人家らしい建物が見えて個人邸の敷地らしく見えるし、また東側の林は樹木の背が低く、まばらに生えているように見えている。つづけて、空襲の様子を引用してみよう。

 
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 もう少し……もう少し! と下から声援しても、貧弱な高射砲弾はなかなか低空の敵機にさえ当らない。弾道が赤い条となって見えるだけに歯がゆかった。それでも二度程命中して火をふきながら落ちてゆく機影を見た時には皆、手を叩いて喜んだ。シュルシュルッという音を聞いてから慌てて壕に飛び込むなり、皆一緒に爆風にあおられて尻餅をつくやら、めらめらと道路に落ちて燃えあがる油性の爆弾を壕から飛び出して叩き消すやら、何がどうなっているのか皆夢中のように動き廻っているうち、とうとう林の中の藁屋が直撃弾を受けて燃え上がってしまった。もう燈火管制も何も役には立たない。辺りは照明燈を点けたように照らし出されてしまった。カラカラカラと音を立てて落下する焼夷弾に<もう駄目だ、もう駄目だ>と観念しながらも壕に飛び込む。こわごわ首を出した時には、また方々めらめらと炎の舌が揺らいでいた。幸いなことに陽子(伴敏子)の家の辺りは建物をみんなそれていたので力を合わせて消すことが出来た。もしそれらが最後の襲来でなかったら、炎を目標に後から落とされてとても無事ではいられなかったろうと思うと、ぽつんとこの辺だけが残されたことが夢のようであった。
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 アビラ村(芸術村)Click!の一帯は、住宅と住宅との間隔が下落合の東部に比べて相対的に広く、また屋敷林に囲まれている家屋が多かったため、空襲による大規模な延焼Click!はまぬがれた。ところどころで、大正末から昭和初期にかけて建てられた住宅を、現在でも目にすることができる。
 同年8月6日、広島に「新型爆弾」が落とされたことが報道されると、伴敏子と隣家の主婦は相談して、庭先から防空壕までつづくトンネルを掘りはじめている。中村忠二は防護団の「群長」を引き受けたことを理由に、防空壕づくりを当初からまったく手伝わず、ふたりの女たちが家事の合い間にする仕事になっていた。1週間けんめいに掘りつづけ、ようやくトンネルが壕に通じた8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏をした。
 伴敏子は、中村忠二と戦争をめぐって日々、ケンカをしているような状況だった。彼女が情勢を理性的に分析し、筋道を立てて必然的に「敗ける」と説明しようとすると、中村忠二はそれを遮って感情的に「勝つ!」といいつづけてきたようだ。敗戦の日からしばらくすると、下落合の上空には毎日、B29やグラマンの少数機編隊が超低空で、威嚇飛行を繰り返すようになった。



 米軍機が低空で威嚇飛行をする様子は、近くの下落合4丁目2096番地にアトリエをかまえていた松本竣介Click!が、中井駅のホームからスケッチした子どもあての絵手紙にも残されている。「ニッポンワ アメリカニマケタ/カンボー シッカリシテ 大キクナッテ アメリカニカッテクレ」、松本竣介は絵手紙の冒頭にそう書き添えている。

◆写真上:下落合2257番地の現状で、白い家の裏側が伴敏子・中村忠二アトリエ跡。
◆写真中上:上左は、制作年不詳の伴敏子『自画像』。上右は、焼夷弾を投下するB29の編隊。下は、1941年(昭和16)の空中写真にみるアトリエとその周辺。
◆写真中下:伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』(冥草舎)に掲載された、中村忠二のスケッチ類。下右は、戦前の中井駅踏切りだろうか。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)5月25日夜半に撮影された新宿駅周辺への爆撃。新宿駅西口や淀橋浄水場が見えているが、同日午後11時ごろに西口広場で柳瀬正夢Click!(享年45歳)が爆撃で死亡している。中は、上記写真の部分拡大で焼夷弾が落ちていく新宿駅と西口・東口広場。このうちの1発が、下に見える西口にいた柳瀬正夢を直撃したかもしれない。下は、松本竣介が敗戦直後に子どもあてに書いた絵手紙。