目白駅(目白停車場)Click!が、金久保沢Click!の谷間にあった駅舎および改札から橋上駅化されたのは、数多くの書籍や資料で1919年(大正8)と規定されているが、それはいったいどのような根拠にもとづいているのだろうか? 当時の工事記録や、工事が行われた当時の資料類に当たり、ちゃんと“ウラ取り”がなされた記述なのだろうか?
 このサイトでは、これまで地元の目撃証言にもとづき、1921年(大正10)前後に金久保沢の谷間にある目白駅改札を利用する人たちの様子を、繰り返し取り上げてきた。たとえば、1920年(大正9)の秋、目白駅から帰宅した岡田虎二郎Click!は、台風の影響で水びたしになった改札前を通って足もとをずぶ濡れにしながら、翌々年から「近衛町」Click!と呼ばれるエリアの自宅にたどり着いている。また、翌1921年(大正10)ごろから下落合で暮らしはじめていたと思われる鈴木誠Click!(諏訪谷Click!に建っていた“お化け屋敷”と呼ばれる借家か?)は、目白駅の改札を出たあと、高田大通り(現・目白通り)沿いに植えられたサクラ並木を、下から見あげている。
※岡田虎二郎は生前、下落合356番地に住んでいたことがわかり、近衛町の下落合404番地は彼の死後、大正末に家族が転居した住所であることが判明Click!した。
 また、佐伯祐三と相前後し1921年(大正10)にアトリエを建てた曾宮一念Click!は、目白駅へと向かう佐伯祐三の姿を自身のアトリエ前の道(諏訪谷北側の丘上道)で見かけており、当時はそれが目白駅へと向かう道筋だったと証言している。この時点で、目白駅が橋上駅化されていたなら、米子夫人Click!を俥(じんりき)に乗せて付き添う佐伯は、下落合の中を通り抜けるコースではなく、目白通りへ出たほうがはるかに効率的かつ合理的な道筋だったろう。駅舎が金久保沢の谷間にあったからこそ、下落合の中の道を通らざるをえなかったのだ。さらに、これはわたし自身が確認した資料ではなく知人から聞いた話だが、1922年(大正11)に初めて目白(上屋敷駅近くの“隠れ家”)へやってきた柳原白蓮(宮崎白蓮)Click!は、当時の改札が目白橋の下にあったことを記述の中で証言しているという。
 地元に残されたこれらの証言により、わたしは少なくとも目白駅の橋上駅化工事は、1921年(大正10)以降に行なわれたのではないかと、これまで何度も記事に書いてきた。今年(2015年)の3月末、目白駅の橋上駅化工事について、ようやく工事記録などの精密な“ウラ取り”をともなう、正確でまとまった研究論文が発表された。論文が掲載されているのは、豊島区立郷土資料館が刊行している「研究紀要」第24号で、同号に掲載されている平岡厚子氏の『目白駅駅舎の変遷に関する考察―一九二〇年代の橋上駅の問題を中心として―』がそれだ。
 同論文では、日本鉄道あるいは旧・鉄道院、旧・鉄道省が保存していたさまざまな工事記録や、中には目白駅に伝わる手書きで書き継がれた同駅業務の“忘備録”のような、『目白駅史』なども参照しながら、目白駅の橋上駅化工事の起工から、その竣工時期までを規定している。また、平岡氏は論文の執筆にあたり地元の証言を重視され、拙サイトの記事を引用して研究課題のベースのひとつとして触れられているのがうれしい。
 さて、まず私営の日本鉄道による品川赤羽線が開通したのは、1885年(明治18)3月1日だけれど、初代の地上駅だった目白停車場は、駅舎の建設が開通に間に合っていない。半月ほど遅れて、同年3月16日に開業した目白停車場だが、この地上駅にも敷地を移動しての全面建て替えによる、どうやら2代目の駅舎が存在していたことが、同論文から明らかになっている。それは、初期の日本鉄道による「目白停車場図」と、明治末から大正期に中部鉄道管理局工務課が作成した「停車場平面図」(1912年)、および1915年(大正4)に東京鉄道管理局が作成した「停車場平面図」とを比較すると、「停車場本屋」=駅舎をはじめ諸設備の位置がまったく一致しないからだ。
 つまり、目白停車場が金久保沢の地上駅だった40年近くの間に、駅舎が移動し、新たに建て直されている可能性がきわめて高い。したがって、初期の目白駅の様子として残されたイラストが存在しているが、そこに描かれた駅舎が日本鉄道による初代のものか、あるいはリニューアル後の2代目のものかは規定できない(「大正初期」というキャプションが入っているので、おそらくは2代目・地上駅)……ということになる。また、敷地を移して建て替えられた目白停車場の駅舎(地上駅時代)を2代目とするならば、このあと橋上駅化が行なわれた駅舎は3代目ということにもなるだろう。多くの鉄道本などで見られる、金久保沢にあった目白駅舎を初代とし、橋上駅化された駅舎を2代目とする記述もまた、実際の記録や図面を“ウラ取り”検証してはおらず、ただ漠然と地上駅を「初代」としているにすぎないのではないだろうか?

 
 さて、目白駅の橋上駅に関する工事記録は、旧・鉄道省の資料類にみることができる。1922年(大正11)に鉄道省より発行された『国有鉄道現況』、および1925年(大正14)に同省が発行した『山手線複複線工事概要』だ。これらの実際の工事記録には、目白駅の橋上化が1919年(大正8)とする“通説”とは、まったく異なる内容が書かれている。双方の資料に関して、研究紀要の論文『目白駅駅舎の変遷に関する考察―一九二〇年代の橋上駅の問題を中心として―』から引用してみよう。なお、文中に登場する参考文献などの小さな註釈番号は、割愛させていただいている。
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 初めての橋上駅が一九一九年に竣工した、という目白駅についての説明は、その頃近隣に暮らしていた人々の書いた文章や話を知るにつれて、違和感を覚えるものとなる。一九二〇年を過ぎても、目白通りよりも低い位置にあった地上駅を使っていたとしか、思えない記述に出あうからである。/そこで鉄道関係の資料にあたったところ、一九二二年十月末調べの『国有鉄道現況』(鉄道省発行。以下、『現況』)の「山手線々路増設工事」という項目の中に、目白駅の竣成についての「新宿目白間ノ内目白駅改築ハ既ニ竣成シ他ハ六分通リ目白大塚間ハ一分通リ」という記録が存在した。この『現況』は、一九二一年一九二二年の十月までの実績を記しながら翌年度以降の予算の組み直しを図る内容となっている。これに先立つ一九二〇年十月末調べの『現況』の「山手線品川田端間線路増設工事」の項目には、「新宿目白間ハ用地買収ヲ了シ近ク土工其他ノ工事ニ着手セントシ目白駒込間ハ用地ノ大部分買収ヲ了セリ」とある。これからは、目白駅の改築は一九二一年一月以降一九二二年十月までの間になされた、と理解できる。さらに、一九二五年四月に鉄道省が発行した『山手線複複線工事概要』(以下、『概要』)は、一九二〇年十一月一日を、第六工区(山手線複々線工事の工区の区分。新宿-新大久保間から目白-池袋間までの三キロメートル弱の部分が第六工区である)の起工日としており、『現況』と重ねて理解することができる。目白駅が橋上駅となる改築を、一九一九年とする通説とは、相容れない記録である。
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 1919年(大正8)という時期は、「線路増設工事」(山手線の複々線化工事)を実施するために用地買収のまっ最中であり、目白駅の橋上駅化計画は立案され図面もでき上がっていたのかもしれないが、どこにも竣工したなどとは書かれていない。目白駅舎の「竣成」は、1922年(大正11)10月末の『国有鉄道現況』で初めて記載される項目だ。

 
 では、なぜ1919年(大正8)などという年号が登場しているのだろうか? そこには、いちばん最初に目白駅の橋上駅化の「竣工」は「1919年(大正8)」と規定してしまった、おそらく鉄道史の分野では権威があったのであろう高名な人物の大きな勘ちがいか、あるいは資料の誤読が介在していたと思われる。目白駅は、高田馬場駅および新大久保駅とともに、1920年度(大正9)の『鉄道統計資料』(鉄道省)には山手線改良工事の「第六工区」として位置づけられている。そこには、1919年(大正8)10月に「第六工区」が着手(起工)され、その9%が1920年(大正9)3月までに終了したと書かれている。
 しかし、9%が終了し「尚施工中」なのは土工(土木工事)であり、どこにも駅舎の改修工事が終了したとは書かれていない。この記述を、目白駅の橋上駅化が結了したと読みちがえている公算が非常に高いのだ。以下、同論文からつづけて引用してみよう。
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 その一方で、鉄道省発行の一九二〇年度『鉄道統計資料』(以下、『統計』)の山手線の改良工事の項目の中にも、注目すべき記述がある。一九一九年十月に着手していた第六工区とほぼ同じ区間の「土工・橋梁・軌道・停車場・諸建物」の工程の九%が一九二〇年度中に終わり、二十万円余りを決算したというものである。第六工区にある停車場は、新大久保・高田馬場・目白の三駅で、そのぞれとも特定されていないが、目白駅の工事である可能性がある。しかし、一九一九年度の鉄道院発行の『統計』には、第六工区付近に関して、用地買収は五十五%まで進んだが、「土工・橋梁・軌道・停車場・諸建物」からなる「二線増設」工事は一九一九年に着手されたとするものの「歩通掲記ニ至ラス」とあるほか、「土工工事ハ尚施工中ナリ」とも記されている。一九二一年度に入ると、「新宿池袋間」の「通信線移転工事」が施工中となるが(一九二一年度『統計』)、「目白大塚間支障電柱移転」の工事が始まるのは一九二二年九月である(一九二二年度『統計』)。/これらの記録は、第六工区では土工工事が一九一九年十月に始まった、しかし実際には殆ど進展が無く、一九二〇年十一月一日になって起工と見做しうる工事の再開があった、とすると整合的に理解できるのではないだろうか。『概要』や『現況』には、「欧州動乱」の影響による工事費の高騰・外注工事の取り止め、経済状況の悪化による運輸成績の低迷等があった事が記されている。一九一九年に土工に着手した目白駅の橋上駅化工事が、そのような事情で中断を余儀なくされたのに、工事着手の記録を竣工の記録と取り違えた資料が作られたとするならば、一九一九年に目白駅が橋上駅になったという言説が生まれる理由となるように思われるのである。
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 いちばん最初に、目白駅の橋上駅化は「1919年(大正8)の竣工」と規定した、鉄道史の分野では影響力があったとみられる人物は、おそらくここの地元(目白・落合地域)をまったく取材してはいない。なぜなら、当のJR目白駅(1987年以前なら旧・国鉄目白駅)を一度でも訪れて取材すれば、駅職員によって代々書き継がれてきた、駅業務に関する覚え書きとでもいうべき『目白駅史』の存在を示唆され、同駅の職員から同史料を紹介されていたはずだからだ。それを参照していたなら、橋上駅としての目白駅が1922年(大正11)に完成したことが明記されているのを、すぐにも発見できていたはずなのだ。
                                   <つづく>

◆写真上:目白橋の上へ直接出られる、現在の6代目・目白駅舎。1962年(昭和37)に行なわれた、大規模な改修をカウントしなければ5代目・目白駅舎になる。
◆写真中上:上は、金久保沢の谷間にあった地上駅の目白停車場。画面の右上に「大正初期」と書かれているので、おそらく2代目・地上駅の目白停車場だと思われる。下左は、金久保沢の谷間にあった目白停車場の地上駅跡。下右は、2015年3月末に豊島区立郷土資料館(豊島区教育委員会)から刊行された「研究紀要(生活と文化)」第24号。
◆写真中下:上は、1925年(大正14)作成の「大日本職業別明細図」に掲載された3代目・目白駅(初代・橋上駅)。下左は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる目白駅。金久保沢に駅がある描写で、2代目・目白駅(地上駅)時代のもの。下右は、1922年(大正11)9月作成の1/3,000地形図にみる3代目・目白駅(初代・橋上駅)。
◆写真下:上は、日本女子大学が保存している1923年(大正12)の関東大震災直後に撮影された3代目・目白駅(初代・橋上駅)。下は、3代目・目白駅(初代・橋上駅)と同時に整備されたとみられる目白橋の欄干。現在も目白駅前に保存されており、上掲の日本女子大学に保存された写真にも目白橋西詰めに確認できる。