以前、下落合2丁目(現・下落合3~4丁目界隈)の住民互助組織である、同志会Click!についてご紹介をしている。1939年(昭和14)4月30日に、戦時体制下で新たに結成された下落合の各町会へと吸収される同会だが、同志会のエリアに隣接した地域にも、プレ町会と呼ぶべき同じような住民互助組織がいくつか存在していた。
 同志会エリアの東側に接する、下落合1丁目(現・下落合1~3丁目界隈)には「一睦会」が、同じく下落合1丁目の近衛町Click!を中心に「新田丸山協和会」と名づけられた組織が結成されている。下落合1丁目の中に、住民組織がふたつ存在するのはおかしいが、下落合地域へ正式に「丁目」表記が導入される以前、すなわち大正期から結成されていた組織なのだろう。以前の記事では、一睦会の会員だった21戸の家々が集団で同会を脱退し、隣接する同志会への入会を希望している出来事をご紹介した。
 一睦会からの集団脱会騒動は、1931年(昭和6)6月3日の同志会役員会例会(出席者20名)で報告されている。同会では対応に苦慮しているのだろう、一応受け入れはするものの同志会内での“分派活動”は許さない……というような確認をとっている様子がうかがえる。以下、1939年(昭和14)に出版された、『同志会誌』Click!(下落合同志会編)から引用してみよう。
  ▼
 二、一丁目の一睦会員二十一名入会の件、会長の報告の通り承認/同志会内に一睦会を作るのは本会の和協親睦の趣旨に背く懸念もあるから、町会発展の為一致尽力されたいと懇請したところ一睦会員もこれを諒として賛成本会に入会したのである。
  ▲
 この一文からも感じとれるが、近隣に存在する住民互助組織がお互い緊密に連絡を取り合って、連携しながら町内事業にあたり行事を実施していたというよりも、お互い同士が不干渉で、あたかも“縄張り”を設定しているかのような感覚で活動していたのではないかとみられるフシがある。それは、江戸時代からつづく(城)下町Click!の、いわゆる町内会とはだいぶ様子が異なる乃手の特質だと思われる。


 たとえば、1912年(明治45)に発足している同志会は、いまだ落合村の村落共同体や田畑の展開、地主としての所有地の拡がりを基準に、活動エリアや同会への参加呼びかけを行なっているとみられ、その後にできた新興住宅地における住民互助組織は、落合府営住宅Click!や目白文化村Click!、近衛町といったディベロッパーによる開発の経緯やエリアを基準にして結成・活動しているように思える。
 住民互助組織同士が、お互いにほとんど交流や連携がなかった事例として、1937年(昭和12)6月の出来事が挙げられる。同年6月8日の夜、下落合1丁目の新田丸山協和会が町内をあげての“お祭り騒ぎ”を演じ、そのエリア内を大規模な提灯行列Click!がめぐっているにもかかわらず、隣接する同志会では別になんの行事や活動もなされてはおらず、同会日誌にも特に記録されていない。むしろ日誌では、5月20日の理事会記録のあと、6月10日の評議委員会までの間は空白で、6月8日の項目は飛ばされて記載さえ存在しない。同じ下落合の町内なのにもかかわらず、まるで別世界のような趣きなのだ。
 1937年(昭和12)6月4日、近衛文麿Click!は林銑十郎内閣がわずか3ヶ月で瓦解したあとの首班指名を受け、第1次近衛内閣を組閣しはじめている。6月8日の夜、久しぶりに下落合436番地の近衛新邸にもどった近衛文麿を迎え、下落合1丁目の地元である新田丸山協和会では祝賀会を開催しているのだ。目白福音教会Click!の目白英語学校Click!前に集合した、新田丸山協和会のメンバーたちは、近衛町の近衛新邸まで提灯行列を実施している。
 翌6月9日発行の、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。


  ▼
 首相を別邸に迎へ/“近衛町”に歓声爆発
 ゆうべ祝賀提燈行列/人気は此処にも
 近衛首相の別邸のある地元町会――淀橋区下落合一丁目の新田丸山協和会では落合青年団第一支部、郷軍落合分会第四班と共同で八日夜町を挙げての歓びの大提燈行列を行つた、町民約一千名は午後七時同別邸近くの目白英語学校前に集合、喇叭鼓隊を先頭に手に手に提燈を掲げて祝賀行進、さすが「近衛町」で通つてゐる町だけに近衛さんの人気は大変なもの 老いも若きも町内総出の形で威勢よく同別邸へ繰込み萬歳の歓呼、この日午後五時すぎこの別邸に帰つて母堂や令弟水谷川忠麿男夫妻と夕食を共にした近衛さんは早速水谷川男、来合せた秀麿子夫人、令嬢、大山柏公令嬢たちと共に玄関にあの長身の和服姿を現し町の人達に答へたが余りの熱狂振りに近衛さんも少々面喰つた形、それでも一々会釈するなど当夜の近衛さんはなかなかの上機嫌だつた 約十五分間も同邸内はまるで提燈の渦を巻き身動きも出来ぬ位に埋め尽されたが公爵家お振舞ひの包み菓子と四斗樽を土産に八時頃引揚げた、町の誇りとばかり「近衛町」始まつて以来の賑はひだつたらう
  ▲
 ここで、近衛新邸が「別邸」とされているけれど、これは同年に近衛文麿が購入している荻窪の荻外荘Click!を「本邸」と解釈していた記者の誤認だと思われる。近衛自身の位置づけでは、下落合の近衛新邸が本邸であり、荻外荘が別邸のつもりだったようだ。
 水谷川忠麿は、水谷川家へ養子に入った近衛文麿の弟のひとりで、秀麿は近衛新邸の別棟に住んでいた近衛秀麿Click!、大山柏は文麿の妹婿のことだ。「公爵家お振舞ひの包み菓子と四斗樽」の土産とあるので、近衛の帰邸は少し前から予定され準備されていたのだろう。近衛邸出入りの和菓子屋も、にわかに“近衛景気”でわいたかもしれない。
 これだけ大騒ぎを演じている、下落合1丁目の新田丸山協和会のすぐ隣りにあたる同志会では、その様子がただの1行も記録されていないのだ。町内で祝事の催しがあれば、提灯行列のコースとともに必ず詳しく記載している『同志会誌』なのだが、東隣りで行われた大規模な祝賀行事と提灯行列は、完全に無視するかたちになっている。同じ下落合の町内であるにもかかわらず、どこか冷ややかな空気が感じられる住民互助組織同士なのだ。


 近衛町を中心とした住民が数多く参加していたのだろう、地元の新田丸山協和会をあげての祝賀行事からわずか8年もたたぬうち、1945年(昭和20)4月13日と5月25日につづけて行われた山手空襲Click!により、近衛町の大半が焦土と化し、やがて大日本帝国が破滅することなど、提灯を手に熱狂していた会員たちは想像だにしえなかったにちがいない。

◆写真上:1937年(昭和12)6月8日の夜、下落合1丁目の新田丸山協和会が主催する祝賀会で下落合436番地の近衛新邸に姿を見せた近衛文麿。
◆写真中上:上は、新田丸山協和会のメンバーたちが提灯を手に繰りこんでいった近衛新邸へとつづく門跡の現状。下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる近衛新邸。ここでも「別宅」と記載されており、すでに世間的には荻窪の「荻外荘」が本邸と認識されていた様子がうかがえる。
◆写真中下:上は、1937年(昭和12)6月9日に発行された東京朝日新聞に掲載の祝賀会記事。下は、新田丸山協和会が主催した提灯行列のコース。
◆写真下:上は、提灯行列の新田丸山協和会メンバーが集合した目白福音教会の目白英語学校。下は、旧・目白英語学校の跡地に建つ目白教会の現状。