吉川英治が『宮本武蔵』Click!で描いたのは、物語の前半と後半で武蔵がたどる「剣術」と「剣道」のちがいによって生じた、人としての思想や死生観にもとづく実存の相違なのだろう。「剣道」とは、もちろん今日的なスポーツとしての剣道ではなく、剣術の奥義を踏まえたうえで、どこか農本主義的な匂いも混じる武蔵の「剣の道」のことだと思われる。ちなみに、剣術ではなく竹刀を叩きつけるスポーツとしての剣道に、いくら上達しても日本刀Click!は扱えない。
 小説『宮本武蔵』では、武蔵は決闘を終えるとさっさと現場から離れる(逃亡)することが多いが、これは決闘相手の門人や係累たちの追撃あるいは意趣返しを避けるためだ。生命のやり取りをした現場で、感慨にひたることが少ない小説の武蔵だが、上落合553番地(現・上落合2丁目)に自宅を建てて暮らしていた吉川英治は、「逃げるが勝ち」を実践したことで“有名”だ。もちろん、吉川英治が逃げだしたのは決闘相手の武芸者などではなく、ヒステリーと浪費癖が止まない、生活観のまったく異なる連れ合いのやす夫人からだった。その逃亡生活は徐々に頻繁で深刻となり、1930年(昭和5)にはついに1年近くも上落合を抜けだし、逃避行をつづけて自宅に寄りつかなくなってしまった。
 吉川英治が上落合553番地に自宅を新築したのは、1926年(大正15)に大阪毎日新聞へ連載した『鳴門秘帖』が、平凡社の『現代大衆文学全集・第9巻/吉川英治集』(1928年)に収録され40万部も売れたからだ。また、同全集の『第37巻/吉川英治集』(1930年)には、『鉄砲巴』『邯鄲片手双紙』『剣侠百花鳥』『蜘蛛売紅太郎』『増長天王』などが収録されて、この時期、彼の手もとには膨大な印税が転がりこんだ。だが、吉川英治はにわかの大金で贅沢な暮らしをしようとはせず、質素な生活をつづけようとした。彼は満ち足りた生活をすれば、作品が書けなくなるのを本能的に察知していたのだろう。
 吉川英治は、上落合553番地に自宅を新築する以前、大正末には下落合に住んでいるのだが、その住所がどこだかハッキリしない。おそらく、関東大震災Click!で日本橋の水天宮近くにあった青物屋(八百屋)2階の借間が被害を受け、一時的に乃手の下落合へ引っ越してきたのではないかと思われるのだが、落合地域では上落合の自宅が圧倒的に目立つ存在であり、下落合の住居(おそらく借家)は影が薄い。
 吉川英治は、少年時代を極貧生活の環境ですごしている。高等小学校を中退し、一家の稼ぎ手として働かなければならないほど、吉川家の家計はひっ迫していた。18歳のとき、横浜船渠株式会社の乾ドックでいろいろな雑役をこなす「かんかん虫」にもなった。船底に付着した牡蠣殻やフジツボ、サビなどを大きなハンマーでカンカン叩き落とすのでそう呼ばれる労働だが、当時、欧米航路に就航していた日本郵船「信濃丸」の船腹を塗装する作業中に、操作係が吊るした足場の移動のタイミングを誤り、英治は12m落下して船台に叩きつけられ死にそこなっている。足場の板といっしょに落ちたため、頭蓋骨がコンクリートに叩きつけられて潰れずにすんだ、奇跡的な生還だった。

 
 1ヶ月ほどで退院した英治は、事故をきっかけに横浜船渠を辞めて東京へやってきた。当初は蒔絵師の弟子として働いたが、大正川柳に興味をおぼえて投稿をはじめている。川柳仲間の親戚が経営する待合へ英治が遊びに寄ったとき、芸者になりたての“いく松”(赤沢やす)と出会った。当時21歳の赤松やすは、牛込(現・新宿区の一部)の畳屋の娘で、華やかな芸者にあこがれて座敷に出はじめていた。その後、ふたりは一時中国の大連にわたるなど、さまざまな経緯や同棲生活をへて1923年(大正12)8月に結婚している。ふたりは貧乏で困難な生活を耐えつづけ、気心が知れた間がらのはずだった。
 だが、英治の小説が売れ印税の大金が手もとに入ると、やす夫人の生活態度は一変した。やす夫人は、売れない小説家・吉川英治を陰に陽に支えつづけた、彼にしてみればかけがえのない妻のはずだったが、彼女はそのまま質素な生活をつづけることに我慢がならず、カネがあればあるだけ思う存分につかって、贅沢な暮らしを求める女になっていた。彼女は、夫が作家であることになんの興味も抱かず、大金があるのになぜ地味な生活をつづけなければならないのかが理解できなかった。また、学校へ満足に通わず文字が読めない妻のために、英治が手習いや教養を身につけさせようとすると、露骨に嫌悪感をあらわすような性格だったようだ。
 そんな生活態度を改めさせようと、吉川英治は子どものいない家に養女(園子)を迎えるが、やす夫人の浪費家ぶりやヒステリーは変わらなかった。なまじ大金があるからいけないのだと、英治は手もとにあるカネをほとんど費やして浜田という建築家に依頼し、1929年(昭和4)に上落合553番地へ建設したのが初めての自邸だった。だが、せっかく新築した自邸で英治とやす夫人との生活をめぐる感覚のズレは埋まらず、彼はだんだん家にはいづらくなっていく。どこか地方を旅しながら、執筆する機会が増えていった。
 そのころの様子を、2012年(平成24)に岩波書店から出版された『新・日本文壇史―大衆文学の巨匠たち―』第9巻から引用してみよう。
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 「神州天馬狭」と「続鳴門秘帖」を連載中の英治は、体調を崩したことと、やすとの間で繰り返される日々の摩擦が理屈では解きほぐせないストレスとなり、休養を欲した。そのため英治は三年九月二十四日、ついに家を出て、東北本線に乗って仙台へ行き、塩釜、女川、石巻、金華山、平泉をへて奥入瀬に入り、蔦温泉に一泊した。次に十和田湖を渡り、滝ノ沢峠を越え、温川温泉に着いた。温川の渓谷を見下ろしながら進むのは絶景であった。英治はそのまま温川山荘に滞在した。/やすとの溝が深まるとともに、英治は津の守の芸者一郎との交渉が深まった。東京市四谷区荒木町の一帯は昔、美濃高須藩松平摂津守Click!の上屋敷跡で、その花街は一流ではなかったが、客筋がよかったことで知られた。一郎の本名は菊池慶子で、妹ののぶ子とともに桃の家という芸妓屋をやっていた。
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 おそらく、吉川英治は上落合への転居後、少しでもチャンスがあれば自宅から逃げだす算段ばかりしていたのではないだろうか。家には帰らず、帰ってもやす夫人とはケンカばかりで、すぐにいたたまれずに抜けだしてくるという生活がつづいている。芸者の一郎とは、その後も交渉をもちつづけ「逃避行」を繰り返すようになった。
 
 
 当時の様子を、『新・日本文壇史―大衆文学の巨匠たち―』第9巻に掲載された吉川英治の『自筆年譜』、1935年(昭和10)の項目から孫引きしてみよう。
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 徹夜仕事、飲み歩きなど、不摂生つづく。家事また顧みず、内事複雑、この頃、恐妻家の名をはくす。一夜、万年筆を袂に、ふらふらと女中の下駄をはいたまま家庭を出奔、以後、遠隔の温泉地を転々として家妻の眼を避く。オール読物のため旅先にて短編「梅颸の杖」など書いては送る。多くは上林、上山田温泉にとどまる。四谷の一妓、おなじく東京を出奔して尋ねて来、ずるずるべったりに一しょに居る。上山田警察の刑事が来て、両名、つぶさなる取調べを受く。
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 特高Click!と思われる刑事がやってきたのは、偽名と思われる怪しいふたり連れが長期逗留しているので、旅館側が怪しみ警察へ通報したものだろう。地元の警察では、東京から潜行してやってきた共産党関連の活動家を疑ったかもしれない。彼の自宅が落合町上落合というのも、ますます警察の疑いを濃くして、取り調べが長期にわたる要因となったように思われる。
 やす夫人は、吉川英治の留守が長期間におよぶと友人や出版社などのつてを頼って、彼を探しに逗留先の温泉などへやってくるようになった。英治はそれを察知すると、尻をはしょって別の温泉地へ逃げだすなど、ふたりは反発力が生じる磁石の同極のような、わけのわからない夫婦関係になっていく。
 せっかく上落合に建てた新居だが、ふたりの性格のミゾを埋め気持ちを近づけるどころか、かえって拡げる結果となってしまった。英治は1935年(昭和10)6月、ついに上落合の家を処分すると赤坂区赤坂表町3丁目24番地へ転居して妻とは別居し、まもなく1937年(昭和12)にはやす夫人と離婚している。
 吉川英治が暮らした当時の上落合は、あちこちにプロレタリア文学Click!の作家たちが住んでいたはずだが、小学校を中退し10代からさまざまな苦労を重ね、労働者として暮らしてきた叩き上げの英治は、彼らとの交流をほとんど持たなかったようだ。もっとも、当時は「大衆文学」分野の小説家といえば、「純文学」をめざす作家たちからは一段も二段も低く見られていた時代なので、下落合や上落合に住んだ作家たちのほうから、あえて吉川英治に近づこうとはしなかったのかもしれない。


 吉川英治が上落合にいた最後の年、1935年(昭和10)8月から東京朝日新聞に『宮本武蔵』の連載がスタートしている。新聞の連載小説としては、空前の大ヒットを記録する同作だが、やす夫人との離婚が成立して間もなく、1937年(昭和12)の暮れに英治は“お通”のモデルといわれている、同年夏に知り合った池戸文子と再婚している。

◆写真上:上落合1丁目553番地(現・上落合2丁目)の、吉川英治邸跡の現状。
◆写真中上:上は、1929年(昭和4)に作成された「落合町市街図」にみる上落合553番地。下は、上落合553番地周辺にみる現在の風情。
◆写真中下:上左は、1925年(大正14)に撮影された下落合時代の吉川英治。上右は、上落合時代の吉川一家で左から右へ吉川英治と養女・園子、やす夫人。下左は、1927年(昭和2)に大日本雄弁会講談社から出版された吉川英治『神州天馬侠』第2巻。下右は、1934年(昭和9)に中央公論社から刊行された吉川英治『女人曼荼羅』。
◆写真下:上は、吉川一家の転居直後に撮影された空中写真にみる吉川英治邸と思われる上落合1丁目553番地の住宅。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同邸跡。すでに住宅が解体され、大きめの有馬アパートが建設されている。