江﨑晴城様Click!より、またまた作品画像をお送りいただいた。板に描かれた4号サイズの作品で、裏面には『落合風景』というタイトルがふられているが、作者は不明だ。この作品は、静岡の曾宮一念Click!邸から出てきたものだが、デッサンの技術といい描画タッチといい、曾宮一念の作品ではないように思われる。そもそも、基本的にデッサンを学んだ画家の作品とは思えないような、よくいえばプリミティーフな表現だ。
 曾宮夕見様によれば、お父様(曾宮一念)が出来が悪いので発表せず、奥に仕舞いこんだものではないか……とのことだが、曾宮一念が描いた画面にはちょっと思えない。デッサンの基礎を勉強した、プロの画家の仕事には見えないのだ。江崎様は、1935年(昭和10)に再婚したせつ夫人、つまり夕見様のお母様の作品ではないかと想定されているが、その可能性は高いように思う。しかも、1935年(昭和10)以前からせつ夫人とは交流があったとみられ、曾宮一念から油絵の“手ほどき”を受けていたとしてもなんら不思議ではない。この風景作品が、落合地域のどこを描いたのかも興味深いが、わたしはあえて想像を思いっきりふくらませてみたい。
 曾宮一念は、下落合623番地にアトリエを建ててしばらくすると、地元の生徒を集めて画塾「どんたくの会」を開催している。当初は、近所の下落合645番地(のち下落合804番地Click!)に住んでいた鶴田吾郎Click!とともにはじめたのだが、関東大震災Click!で「どんたくの会」は生徒が集まらなくなり解散状態になってしまう。その後、1931年(昭和6)になって第2次「どんたくの会」をスタートするのだが、そのときは仲たがいをしていた鶴田吾郎との共同経営ではなく、曾宮がひとりで主宰していた。わたしの想定は、「どんたくの会」の生徒のひとりが描いたものではないか?……というものだ。
 なぜなら、この風景画が下落合623番地に建っていた曾宮アトリエの、ごく近くを描いた風景に思えるからだ。もちろん、江崎様が想定されるように、曾宮邸のごく近くであれば1935年(昭和10)になって正式に結婚する、せつ夫人が描いた可能性も非常に高いということになる。だが、わたしはもう少し古い時代のエピソードを想像してみたい。
 

 「どんたくの会」の生徒には、別に子どもたちばかりでなく、近所に住む大人たちも絵を習いに通ってきていた。1938年(昭和13)に座右寶刊行会から出版された曾宮一念『いはの群』には、生徒だった落合に住む「味噌屋のオッサン」とか「牛乳屋のオッサン」Click!たちが登場してくる。その生徒たちのうちの誰かが、曾宮アトリエに絵を習いにきているとき、付近を写生したものではないか?……というのが、わたしの野放図な想像だ。その生徒の誰かが、落合地域から転居してしまうため「どんたくの会」をやめなければならず、曾宮が記念として作品を譲り受けたのではないか。あるいは、隠居のような身分で余暇を楽しむ近所の高齢者もいただろうから、その生徒が亡くなったときに、思い出として作品をもらい受けているのではないだろうか……。
 なぜ曾宮一念が、このプリミティーフな作品を廃棄せず、60年ほどもたいせつに仕舞いこんでいたのか、それは画面に描かれている鋭角なとんがり屋根の洋風住宅が、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!まで下落合623番地に建っていた、曾宮一念アトリエClick!そのものだからだろう。また、絵の作者が生徒たちの中でも、特別に印象深い人物だったのかもしれない。右手から射す光線の具合から、画面の右手が南側だとすると、曾宮アトリエの西側に向いた切妻を描いていることになる。しかも、軒下の緑のペンキが鮮やかに残っているので、建築後あまり時間が経過していない時代を想起させる。
 降雪のあと、曾宮アトリエの西側に通う路地からほぼ真東を向いてイーゼルを立てており、道の右手に見える煙突状の突起は、住宅の北側に配置された便所の臭い抜きClick!のように見える。この位置に建っていたのは、東京高等師範学校の教授をしていた下落合731番地の佐藤良一郎邸Click!ということになる。また、道の左手の生垣は、曾宮と同様に東京美術学校を出た日本画家の川村東陽Click!邸で、西洋画家の曾宮一念を目の敵にしてなにかと困らせていた人物だ。

 
 東西に通うこの路地の、画家のいる背後はやや下りとなり、のちに聖母病院Click!が建つ青柳ヶ原へと抜けられ、ものの数分で佐伯祐三アトリエClick!にたどり着くことができる。また、少し上り気味のこの路地を前方に歩いていくと、右へゆるやかにカーブしながら曾宮一念の『夕日の路』(1923年)、あるいは佐伯祐三の『セメントの坪(ヘイ)』Click!(1926年)に描かれている、曾宮アトリエの真ん前に出ることができ、右手には口を開けた諏訪谷Click!の情景が拡がることになる。
 下落合に建っていた西洋館の多くは、たいがい大正中期あたりからディベロッパーが開発したエリアにある住宅が多く、新たに整備された二間道路や三間道路に面しているのがふつうだ。このような、近くに細い未整備と思われる路地がある区画に建っている洋館は、かえってめずらしい存在であり、たとえば画家でいうなら佐伯祐三Click!や中村彝Click!のアトリエのように、細い路地状の道端にある西洋館のほうが、むしろ数が少ない。だから、それが風景を絞りこむうえでは大きな特徴になりうるのだ。
 曾宮アトリエへ向け、南へカーブを描きながらつづく路地は、大正末から昭和初期にかけて宅地の区画整理が進み、少なくとも1929年(昭和4)の「落合町全図」では直線状に修正されているのがわかる。1926年(大正15)の「下落合事情明細図」には、この路地を直線に修正し、突き当たりにT字路を形成しようとしている過渡的な様子が記録されている。道幅も、一間半ほどに拡げられていたのかもしれない。そのせいだろうか、曾宮アトリエの南側の道が妙な「へ」の字型に屈曲しているのがわかる。修正しようとしている道筋におかまいなく、もとの道筋へイーゼルを立てて汗をかきながら風景を描いていたのが、1926年(大正15)夏の佐伯祐三Click!だ。
 

 突き当たりが直角に曲がり、ハッキリと現在と同様のT字路が形成されるのは、曾宮邸の隣りへ新たに谷口邸が建設されてからだと思われる。この道の突き当たり左手の下落合622番地に、1933年(昭和8)ごろになると結婚したばかりで仕事を山ほど抱えた蕗谷虹児Click!が、アトリエを建てて引っ越してくることになる。
 なお、曾宮一念の「下落合風景」作品が展示される、佐野美術館の『曽宮一念と山本丘人 海山を描く、その動と静』展Click!は、2015年8月22日から9月27日まで。

◆写真上:製作者および制作年が、ともに不詳の『落合風景』。
◆写真中上:上左は、洋館切妻部分の拡大。上右は、裏面に書かれた「落合風景」の鉛筆文字で書いた人物は不明。板の裏面にも、下塗りが施されているのがわかる。下は、震災前の1923年(大正12)に作成された1/10,000地形図にみる想定描画ポイント。
◆写真中下:上は、ここ10年で道幅が大きく拡げられた描画ポイントの現状。下左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる修正中の過渡的な道筋。下右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同所で現在と基本的に変わらない。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真(左)と1947年(昭和22)の焼け跡写真(右)にみる同所。下は、この道を振り返ると青柳ヶ原(現・聖母病院)が見えていた。