上落合八幡耕地206番地に住んだ芹沢光治良Click!は、1939年(昭和14)に実業之日本社から出版された矢田津世子Click!『花蔭』に、わざわざ手紙を書いて好意的な批評を寄せている。芹沢光治良が批評を寄せたのは、上落合からではなく、階段に佐伯祐三Click!のセーヌ河畔の街並みを描いた50号のタブローが架かる、戦災で焼失した上落合に隣接する東中野の家からだった。
 当時の矢田津世子Click!は、ほとんど毎年のようにベストセラーを出しつづける、売れっ子の女性作家に成長していた。1936年(昭和11)の『神楽坂』(改造社)を皮切りに、1939年(昭和14)の『花蔭』(実業之日本社)、1940年(昭和15)の『家庭教師』(同)、1941年(昭和16)の『茶粥の記』(同)と、出版する短編集がすぐに20版を超える流行作家の仲間入りをはたしている。また、松竹では彼女の小説を原作に、次々と映画化のプロジェクトが進行中だった。
 特に、雑誌「改造」に執筆した『茶粥の記』で、矢田津世子は女流文学のトップに踊りでてきた。だが、彼女が絶頂期を迎えようとしていたとき、太平洋戦争がはじまって執筆の機会を次々と奪われ、同時に結核の進行を止められなくなっていく。では、芹沢光治良の手紙を、1978年(昭和53)に講談社から出版された近藤富枝『花蔭の人 矢田津世子の生涯』から孫引きしてみよう。
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 この書物(花蔭)のなかであなたを発見したやうな喜びを感じました。精神を深くをさめてゐない人には、このやうに澄んで暖な小説は書けないと思ひます。全部読んでから後記を読みますと、胸にしみるほど作者が耐へて来た不幸----と申しますか、人生体験が私にも響くやうな気がしました。
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 ちょうど同じころ、矢田津世子は北海道の「北海タイムス」に長編小説『巣燕』を連載している。『巣燕』は、1939年(昭和14)8月15日から翌1940年(昭和15)1月9日まで、「北海タイムス」の夕刊に連載された。このときの「北海タイムス」文芸部の担当記者が、のちに下落合4丁目1982番地(現・中井2丁目)の矢田邸Click!から西へ400mほどの、下落合4丁目2107番地に住むことになる、作家の船山馨Click!だった。船山馨は、おそらく「北海タイムス」の東京支社に詰めていたのだろう、矢田邸へ毎日のように原稿を受け取りに通ってきていた。
 船山馨Click!と矢田津世子は気が合ったものか、彼女が1944年(昭和19)に死去するまで交流があったらしく、1942年(昭和17)に豊国社から出版された『鴻ノ巣女房』は、船山が装丁を引き受けている。このとき、矢田津世子を担当した豊国社側の記者が編集者名「佐々木翠」、つまりのちに船山馨と結婚して春子夫人となる坂本春子だった。ちなみに、豊国社の社長・高田俊郎の自宅も下落合にあり、矢田と高田とは近所同士で知り合いだった可能性が高い。戦後、疎開先からもどった船山夫妻が寄宿したのも、下落合の高田邸だった。のち、高田俊郎の所有地だった下落合4丁目2107番地の宅地へ、船山夫妻は自邸を建設することになる。

 
 では、船山馨と佐々木翠(春子夫人)の証言を、前掲書から引用してみよう。
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 「若いころの志賀直哉を女にしたような端正な人で、私も心惹かれていました。津世子さんは長生きできないと覚悟していたせいか、一期一会の思いがつよかったのだと思います。会っているときは相手に誠意をつくすだけつくして非常にやさしかった人です。しかもそこに匂うような女らしさがあり楽しかった。私に川端さんを紹介してくれたのは矢田さんです」/と船山氏は津世子賛美の思いを述べた。病中でも、人に会うときは、髪を調え、着替えをしてからでなければ会わず、晩年は和服ばかりで朱がところどころ灯のようにともった大島を着ていた姿が多かったと、これは船山夫人の記憶である。/そのころ肌は蚕(かいこ)が上蔟(じょうぞく)するときのように溶明な白さとなり、またからだはやせつづけ、眼ばかりいよいよ大きかった。大体津世子は日ごろからクリームをつけ、ちょっと粉をはたく程度の化粧よりしたことがなかった。粉はいつもコテイを使っていた。/「叔母さまの晩年は神々しいほどりっぱだった」と言うのは姪の百合子さんである。
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 矢田津世子へ原稿を依頼にやってきたご近所に住む編集者は、豊国社の高田社長ばかりではなかった。ときに、エッセイ誌「雑記帳」Click!を発行していた下落合4丁目2096番地の松本竣介邸Click!の綜合工房Click!から、おそらく禎子夫人が原稿を依頼に訪れている。四ノ坂の松本竣介アトリエから、下落合4丁目1986番地(「雑記帳」への執筆当時)の矢田邸までは、わずか250mほどしか離れていない。
 1936年(昭和11)10月に発行された「雑記帳」第2号(11月号)に、矢田津世子は『書について』と題する随筆を寄せている。その一部を、同誌から引用してみよう。
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 富本一枝さんの字は、をかしがたい気品のうちに稿れた味ひがあつて、こゝまでくれば「筆蹟」といふよりは、一種の香り高い「芸術」の感を抱かせられる。眼をつむれば、今でもありありとあの素晴らしい筆勢が浮び出てきて、私は、自分の貧しい手習ひなど犬にでも食はれろと打遣りたくなる。/若いかたでは、大谷藤子さんも風格のある好もしい字をかゝれる方である。/林芙美子さんの字も優しい、いかにも女性にふさはしい素直な字をかゝれる。仲町貞子さんの筆の字は、まだ拝見してゐないが、いつか頂いたペンのおたよりで、急にお目にかゝりたいと思つたほど、心惹かれた幽雅な筆蹟だつた。
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 くしくも、その前のページには、「雑記帳」創刊号の藤川栄子Click!につづき、女性画家としてはふたりめの三岸節子Click!が、美しい女友だちがくると顔ばかり見ていて話の内容を忘れてしまう……という趣旨の、『女の顔』という面白いエッセイと絵を寄せている。(ご紹介できないのが残念)
 

 だが、新聞社の担当記者や文芸雑誌の編集者は、矢田津世子のもとを訪れると徐々に気が重くなっていくのを感じている。別に、矢田津世子に会うのは気持ちがよいのだが、気が重くなるのは矢田家を辞したあとの帰り道だった。矢田へ原稿を依頼すると、林芙美子Click!からなにをいわれるか、知れたもんではなかったからだ。矢田津世子へ原稿を依頼したあと、下落合4丁目2096番地の林芙美子邸Click!のもとを訪ねても訪ねなくても、さんざんイヤミや文句をいわれるのが目に見えていた。当時の記者や編集者たちへ実際に取材した、近藤富枝の前掲書から引用してみよう。
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 一時新聞や雑誌の編集者すべてが、矢田家へ訪問したあと、いやな気持に襲われたという。それはこのまま帰ってしまうと、いつの間にかかぎつけた林芙美子が、/「矢田さんのところへ寄りながら、私のところへこなかった」/とイヤミをいい、行けば行くで、/「矢田さんとこの帰りでしょう」/と言ったからであった。矢田津世子が美女だからという説と、ライバル視していたからという説とあるが、おそらくその両方の理由だったのにちがいない。(中略) もと『改造』の編集者で、いつも両家に顔を出すために、気を使うことの多かった一人、青山銊治氏は、/「林さんは個人的な悪口を矢田さんについて言うことがよくあった」/と回想している。
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 林芙美子は、矢田津世子から感想を求められる原稿を預かりながら、一度も目を通さずに押し入れに突っこんで、そのまま「行方不明」にした。よほど、矢田津世子のことを憎んでいたのだろう。(『放浪記』を「女人藝術」に掲載してくれた長谷川時雨Click!も、矢田津世子と同じぐらい憎悪していたフシを感じるのだが……) 原稿は、作家にとっては生命と同じぐらいたいせつなものだと、もちろん林芙美子も知っていただろう。まことに残念ながら、林芙美子はこの地方=江戸東京地域(特に旧・市街地)では、もっとも嫌われ忌避されるべき人間像を、下落合で演じつづけてしまっているようだ。
 

 1936年(昭和11)9月に発行された「雑記帳」創刊号(10月号)には、林芙美子のエッセイ『良人へ送る手紙』が掲載されている。もし順序が逆で、松本竣介・禎子夫妻が創刊号でたまたま矢田津世子へ原稿を依頼し、2号めに林芙美子のもとへ原稿を頼みにノコノコ出かけていったとしたら、松本夫妻は彼女からなにをいわれたか知れたものではない。

◆写真上:下落合4丁目1982番地の、一ノ坂に面した矢田津世子邸跡(左手)。
◆写真中上:上は、山手通りが開通した直後の1950年(昭和25)ごろに撮影された写真で、一ノ坂に面して戦災を受けなかった矢田邸がとらえられている。『おちあいよろず写真館』(コミュニティ「おちあいあれこれ」より) 下左は、自身も結核だったせいか矢田津世子の作品へ好意的な批評を寄せつづけた芹沢光治良。下右は、「北海タイムス」の記者時代に矢田津世子と交流した船山馨。同時に矢田の本を介して、豊国社の記者・佐々木翠(坂本春子)と知り合い結婚することになる。
◆写真中下:上左は、1978年(昭和53)に講談社から出版された近藤富枝『花蔭の人 矢田津世子の生涯』。上右は、めずらしくリラックスした様子の矢田津世子。下は、松本竣介の「雑記帳」へ寄稿したころ住んでいた下落合4丁目1986番地の矢田邸跡(右手)。現在は山手通りの絶壁に近く、新宿の高層ビル群が一望できる。
◆写真下:上左は、矢田津世子が寄稿した1936年(昭和11)発刊の「雑記帳」11月号(第2号)。上右は、下落合4丁目2096番地のアトリエで撮影された松本竣介。下は、「雑記帳」の同号に掲載の矢田津世子『書にふれて』。