敗戦間近の出来事だが、薬王院の森Click!を伐採したあとの空き地へ、空襲の犠牲者を仮埋葬Click!している記事を以前に書いている。当時、その様子を目撃されていたのは、勤労動員で国立の中島飛行機武蔵製作所Click!(1945年より第一軍需工廠)に徴用されていた、落合の緑と自然を守る会代表の堀尾慶治様Click!だ。このときの情景が、1945年(昭和20)5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!のあとである可能性が高いことが判明した。
 その様子を、堀尾様からお送りいただいた原稿から引用してみよう。
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 (前略)昨日落四小の同級生のT君と昔話をしていて薬王院の森の話になった時、現在の薬王院の新墓地は私たち小学生の頃、野鳥の森公園の坂を降りる社宅のある所から本堂裏まで深い森でした。戦況が厳しくなってきた時森の木は全部伐採されました。旧墓地と新墓地の境のコンクリート塀は当時のままで、その塀の現在の新墓地際、塀に沿って戦災犠牲者(無縁者?)が仮埋葬されました。その数30名?(のちに『東京都戦災史』により20名と判明)判然とした数は判りませんが、160~170cm×10m?程の横長の穴を掘り、そこに頭の方に番号札を付けた識別の竹、国民服、モンペ、防空頭巾姿、煤けた状態でしたが、恐らく防空壕に閉じ込められ一酸化炭素中毒で亡くなられたのでしょう、河岸のマグロの様に、並べて埋葬されました。私が下落合駅周辺で見た黒焦げ状態とは違いました。(カッコ内引用者註)
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 この目撃談を、同じ下落合にお住まいで落合第四小学校Click!の同級生だった「T君」に話されたところ、彼の早稲田にいる友人が5月25日の空襲直後に、防空壕で亡くなった大勢の人たちの遺体を、勤労動員で搬出する作業にかり出されたことが判明した。
 その遺体の一部が、下落合の薬王院墓地(旧墓地)の北側、空き地となっていた森跡に運ばれ、埋葬されたのではないかというのが堀尾様の想定だ。引きつづき、堀尾様の原稿を引用してみよう。
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 話で避難者は800名以上(ママ)となると地域の共同壕で陸軍関連の施設として造られた物? なのでしょうか。場所は馬場下、喜久井町の辺りの崖部分? その地域の古老にでも聞いて確かめてみたいと思います。その多くの方が閉じ込められた壕は入り口近くの方は黒焦げ状態、奥の方の人は綺麗だったそうです。その亡くなった方々が陸軍のトラック(当時軍関係以外の車両は無かった)に積まれ、早稲田通りを高田馬場方面へ走り去ったという話です。当時は燃料不足、その上それだけの数の犠牲者の処置は大変困難な状況です。それで遺体の処理はこの方面の各寺に分散、埋葬処理されたと考えられ、それが薬王院にも分担させられたのでしょう。また周辺の各寺院にもそういう事実があったか確かめたい思いです。(カッコ内引用者註)
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 この原稿をお送りいただいたとき、わたしは喜久井町7番地の旧・早大理工学研究所(現・理工学総合研究センター事務所)にあった、大型防空壕における悲劇をすぐに思いだした。ここには、早大職員や学生、近所の住民たちがまとめて避難できるよう、崖地に300人以上を収容できる大規模な防空壕が造られていた。ちょうど、現在の東西線・早稲田駅のすぐ前、安倍能成Click!による夏目漱石誕生之碑Click!がある裏側の丘だ。
 

 5月25日夜半に行われた空襲で、防空壕の周囲の住宅街は大火災にみまわれ、中に退避していた人たちの多くは酸欠による窒息死ではなかったかと思われる。遺体の数が300体を超えていたので、周囲の寺々に分散されて運ばれたが、とても街中の小寺で処理できる遺体数ではなかった。その空襲直後の惨状は、地元の下戸塚研究会がまとめ1976年(昭和51)に出版された、『我が町の詩・下戸塚』の中にも記録されている。同書の中の、森矢達人という方の書いた「空襲」から引用してみよう。
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 空襲が終って翌朝、戸塚町近辺は一、二丁目の一部を残して、新宿、牛込方面と周囲は見渡すかぎり焼野原です。町を歩いてみると、高田南町のお寺の焼あとの境内には逃げおくれたか、焼け死んだ人々の遺体が何十体と地面に並べて置いてあります。焼けこげてぼろぼろの木片の様な人間の形をなさないひどい人々から、列ごとに少ししか焼けていない人まで順に並べてあります。喜久井町のお寺の境内にも同じ様に焼死者が並べてあります。グランド坂下から江戸川橋にかけての大通りを歩いてゆくとまだ、そちらこちらに死んでたおれたままの人がいます。都電の焼けただれた残骸の下には手の指の骨だけ白く見えるので人間と分る真黒な焼死体が見えます。同じ通りの関口町あたりだったでしょうか。地面に赤子がたおれ、二、三歩さきに母親らしき女性が半ばうつぶせにたおれ、そのそばに五、六歳の子供がたおれて皆死んでいます。煙に巻かれただけなのか、髪の毛一本焼けておらず、まるでロウ人形のような静かな姿でした。
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 ここに記述されている証言の中で、喜久井町にある寺(正法寺だと思われる)の境内や、喜久井町の東側に隣接した高田南町の焼けた寺(宗参寺だと思われる)の境内に並べられている数多くの遺体が、喜久井町7番地の丘にあった大型防空壕の300人を超える犠牲者の一部だった可能性が高い。
 防空壕があった旧・早大理工学研究所の跡地には、1955年(昭和30)に早稲田大学や被災者の遺族、そして近隣住民によって建立された慰霊の記念観音像(彫刻家・永野隆業)がある。いまでも毎日、水や食べ物、線香などが供えられつづけているようだ。おそらく、大型の防空壕は現在のテニスコートになっている、丘上の敷地の真下あたりにあったのだろう。堀部安兵衛が立ち寄ったという伝説が残る、小倉屋酒店Click!の裏手あたり、夏目漱石が生まれた実家の屋敷があったエリアだ。

 
 もうひとつ、江戸川(現・神田川)Click!沿いの江戸川公園では、やはり同日の空襲で200名を超える人たちが一度に亡くなっている。こちらのケースも、おそらく戸山ヶ原Click!からやってきたのだろう、陸軍のトラックが動員されて、防空壕から次々と搬出される遺体をどこかへ運び去っている。江戸川公園の事例も、焼夷弾が椿山の森林に落ちて大火災を起こし、防空壕へ避難した200名を超える人たちの呼吸を、酸欠により一瞬のうちに奪ったのではなかろうか。同書から、江戸川公園の惨状を引用してみよう。
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 眼が痛い、空の青さに涙した。水道で目を洗ったが仲々とれない。昨夜から一緒の友に下瞼を返して貰ったら、マッチ棒位の太さの真黒な木片が一センチ位の長さでへばりついていた。すっきりした眼で見上げる雲一つない日本晴! しかし、早稲田大学の緑の見事な欅の姿はなく、江戸川公園を覆った樹々の緑も枯木同然の丸裸、その前の電車通りでは、その公園の横穴防空壕に逃げこんだ何百人もの遺体が焼け、トタン板に寝かされて並んだ。死臭が鼻をつく、正に無感覚でなくてはトラックの積込み作業はやり切れない。心は重く、神経は乾いた。
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 大規模な火災が起きると、焼け死ぬよりも前に空気中の酸素が急速に奪われ、窒息死してしまうケースを親たちから数多く聞いている。それは、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!でも見られたし、またそれより前の1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!でも、語り伝えられている怖い現象だ。別に、焔炎に直接さらされなくても、あるいは大火から逃れて広場や川辺に避難しても、迫る大火流によって起きる烈風とともに酸素が急速に奪われていく。「焼死」とされた遺体が、実は窒息死だったケースは決して少なくないにちがいない。



 少し前に、関東大震災のとき本所の被服廠跡地Click!へ避難して、九死に一生をえた人物の証言について記事Click!に書いたが、避難した約34,700人の人々のうち生き残れたのはわずか200人前後だった。明らかに焼け焦げている焼死体以外に、一見、寝ているように見える遺体も数多くあったというが、それらは火炎による焼死ではなく、大火流で一瞬のうちに酸素が奪われたことによる、窒息死だった可能性が高い。

◆写真上:早大理工学総合研究センター事務所の敷地にある、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で犠牲になった防空壕の300名余を記念する慰霊碑。
◆写真中上:早大理工学研究所跡(現・早大理工学総合研究センター事務所)の現状で、下の写真左手の崖地に大型の防空壕が設置されていたと思われる。
◆写真中下:上・下左は、丘上から早稲田通りへと下りる坂道。下右は、早大敷地に隣接する正法寺墓地。同寺の東側に、高田南町の宗参寺の境内がある。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)5月17日に米軍偵察機が撮影した空襲8日前の喜久井町界隈。中は、1947年(昭和22)の空中写真にみる喜久井町7番地の早大理工学研究所(焼け跡)。下は、犠牲者が並べて仮埋葬された薬王院の旧墓地北辺のコンクリート塀。