きょうは、長いわりに面白くない話なので、時間のない方はどんどん読み飛ばしていただきたい。わたしも、“地域の記録”としてのみ記述しているにすぎず、この記事が存在しないと今後の記事展開における説明がわずらわしく、引用リンクなどがしにくくなりそうだから、あえて書きとめているにすぎない。
 1913年(大正2)に結成された、豊多摩郡落合村の「帝国在郷軍人会落合村分会規約」原本を、ある方からお譲りいただいた。在郷軍人会の落合村分会は当時、麻布区(現・港区の一部で第1師団司令部があった)に置かれた在郷軍人会麻布支部の管轄下にあったことがわかる。また、在郷軍人会落合村分会の会務所は、下落合1422番地に建っていた落合村役場内に置かれていた。
 さて、当時の帝国在郷軍人会総裁は陸軍大将の貞愛親王であり、会長は同じく陸軍大将の寺内正毅、また会老として元帥陸軍大将・山県有朋Click!が就任している。在郷軍人会の「規約」には、巻頭に貞愛親王の令旨、寺内の宣言、山県の式辞が掲載されており、つづいて18条にわたる「規約(会則)」が収録されている。会長・寺内正毅の宣言文を、引用してみよう。
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 帝国臣民ノ武士的精神ニ富ムハ一国ノ精華トシテ宇内ノ称揚措カサル所ナリ 最近戦役ノ大捷亦首トシテ之ニ因由スルヤ論ヲ候タス 而シテ国軍ノ要素タル在郷軍人ニ在リテハ一層此ノ精神ヲ発揚シ軍事ノ知識ヲ増進シ砥励淬磨以テ皇室ノ屏翰タリ国家ノ千城タル負荷ニ堪フルコトヲ期スルハ蓋シ当然ノ義務ナリ 近時各地ニ勃興セル在郷軍人ノ団体ハ概しシテ上述ノ目的ヲ有スト雖統一指導其ノ機関ヲ欠キ随テ其ノ効果顕著ナルヲ得ス 時ニ或ハ其ノ行動正鵠ヲ失フノ処ナキ能ハズ 仍テ本官等相図リテ帝国在郷軍人会ヲ設立シ総裁貞愛親王殿下ノ旨ヲ奉シテ之カ糾合指導ノ任ニ当ラントス (中略) 本会会員ハ一億専心此ノ趣旨ヲ尊奉シ規約ノ定ムル所ニ従ヒ至誠以テ本会ノ発達ヲ期セサル可カラス 万一本会々員ニシテ此ノ団結力ヲ利用シ政治ニ干与スルカ如キコトアラン乎 啻ニ軍人会設立ノ本旨ニ乖戻スルノミナラス弊害ノ及フ所実ニ測ルヘカラサルモノアラントス 是レ最モ慎戒ヲ要スル一事ナリ 茲ニ本部ノ発会ニ臨ミ各員ノ努力ヲ前途ニ切望スト云爾
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 この中で、違和感をおぼえる文章があるのにお気づきだろう。在郷軍人会の団結力を利用して「政治ニ干与スルカ如キコト」は「慎戒ヲ要スル一事」、すなわち退役軍人たちはその組織を利用して政治的な活動をしてはならない……と、わざわざ宣言文で厳禁していることだ。これは、のちの在郷軍人会を動員して地域の津々浦々まで、ファシズム的な「大政翼賛」あるいは「軍国主義」をベースとする、国家主義的な思想や政治体制を浸透させていった、昭和期の情勢とはまさに正反対の矛盾する表現だ。
 寺内正毅の危惧は、帝国在郷軍人会が設立された1910年(明治43)の直後からあったと思われるのだが、大正期に入るとその危惧が次々に現実化してくることになる。徴兵制によって兵役に就き、退役したあと帰郷した退役軍人たちは、例外なく地元の在郷軍人会に帰属することになるのだが、彼らは「軍隊ト人民トノ親昵シアルコト」あるいは「国民ノ衣食住ハ兵営生活ノ状態ト略ボ同一ナルコト」以前に、元・軍人たちは地域の「人民」であり社会人であり、生活者そのものだったのだ。
 
 だから、軍隊生活で経験・獲得した規範よりも、地域の社会観や生活思想のほうがはるかに優先されることになる。また、そうしなければ地域では生きてはいけなかったのだ。したがって、大正期に入ると早々に米騒動に代表される農民運動や小作争議、あるいは工場における労働争議の先頭に、「此ノ団結力ヲ利用シ政治ニ干与」する在郷軍人会の姿が、立ち現われてくることになる。軍の上層部にとっては、まさに「飼い犬に手を咬まれた」あるいは「獅子身中の虫」のような状況に映っていただろう。
 つづけて、落合村分会規約の冒頭「第一 総則」の4ヶ条を引用してみよう。
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 第一条 本会ハ帝国在郷軍人会落合村分会ト称ス
 第二条 本会ハ会務所ヲ落合村役場内ニ置ク
 第三条 本会ハ帝国在郷軍人会麻布支部ノ管轄ニ属ス
 第四条 本規約ノ改正ヲ要スルトキハ評議員会ニ於テ之ヲ議決シ所属支部長ニ
              報告スルモノトス
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 「軍人勅諭」によって、天皇中心主義を推進するための「国家ノ千城」であり、滅私奉公の精神を理想とする「国民ノ最良規範」であるはずの退役軍人たちが、故郷へ帰ると同時に現実の社会的な矛盾や問題意識に直面し、「近代人の自我」にめざめて社会運動や政治運動に参加していく状況は、軍当局にとってみれば“悪夢”的な展開だったと思われる。
 この軍当局の組織や集団から機械的に与えられ、植えつけられた思想や価値観によって演繹的に眺めていた世界が、現実の社会へ直面するとともに次々と崩壊し、個々人あるいは地域の視座から帰納的に世の中を眺められるような、複眼的な視点の獲得へと転回したとき、在郷軍人会は上層部が危惧した方向へと、その「団結力」を発揮しはじめたといえるだろう。封建時代の社会ならともかく、20世紀に生きる彼らとすればまさに必然的な道筋であり帰結だった。
 だが、1923年(大正12)に関東大震災Click!が起き、東京に戒厳令が敷かれた時点から、在郷軍人会の役割りや様相は徐々に変貌しはじめているようだ。政府の決定に対し、軍隊の役割りや行動が優先されるような状況を生んでいるのは、きわめて鋭敏な吉屋信子Click!の感じた空気感にも表れている。
 さらに、二二六事件により再び東京に戒厳令が敷かれるころになると、政治のヘゲモニーは完全に軍当局(陸軍)がにぎるようになった。テロルを背景とした陸軍の脅威から、政党政治は限りなく萎縮と妥協をつづけていくことになる。在郷軍人会もこれらの現象に応じて、その性質も徐々に変化していったように見える。


 1932年(昭和7)に刊行された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の時代になると、在郷軍人会落合分会はすでに陸海軍の出先機関のようになっている。ただし、在郷軍人会のメンバー全員が国家主義的な軍国主義者だったかというと、どうもそうとは思えない。なぜなら、戸山ヶ原の陸軍射撃場による流弾被害Click!に関連し、陸軍施設の郊外移転や近衛連隊そのものの“追い出し”運動に、少なからず近隣町村の在郷軍人会が関与していると思われるのは、すでに記事Click!に書いたとおりだ。昭和初期において、彼らは元・軍人であるよりも前に、地元のことを優先する共同体(社会)の一員、すなわち個として自から獲得した価値観や社会観の視座をもつ傾向が、より強かったと思われる。
 『落合町誌』から、在郷軍人会の地域活動を引用してみよう。なお、当時はすでに町制が敷かれていたので、在郷軍人会落合町分会となっている。
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 毎年一回総会を開催して会員相互間に意思の疎通を謀り、軍事に関する講演等に依りて軍事能力の増進に努め、此の際戦病死者の招魂祭を営むことに慣例されてゐる、国家の為めに一身を鴻毛の軽きに比したる、忠烈なる勇士の英霊を弔ひ、永久に朽ちざる名誉と高き勲功とを忍ぶことは、洵に分会の事業として相応しい、其他徴兵検査、簡閲点呼の指導竝に補助、又入営兵の予備教習及入退兵の送迎に、或は青年訓練所入所生の勧誘等に尽力する外、非常事変に当りて集合団結の下に、公安の維持に努むる訓練も概ね完備しあり。要するに落合分会が、昭和六年以来の支那動乱事件に於て、真に在郷軍人たるの本分を自覚し、出征軍人の行を盛んならしめ、或は留守宅の慰問に努めたる如きは近き事例として、皇国を護る赤誠の充溢に外ならない。
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 1940年(昭和15)の北部仏印進駐で退役した義父は、在郷軍人会麻布支部に所属していた。もし義父がこの文章を読んだとしたら、「バカヤロー、皇国を護るどころか亡国だ。とんでもねえ犠牲を払って、大日本帝国自体が滅んじまったじゃねえか」と、“六本木のキン坊”Click!は麻雀牌を持つ手を震わせながら憤るかもしれない。

 同規約には、「第六条十四 軍隊ノ通過又ハ宿営等ニ際シ成ルヘク其便宜ヲ図ルコト」という項目がある。この規約にもとづき、1932年(昭和7)3月4日の夜、赤羽方面から新宿方面へ通過する特別編成の軍用列車を警備するために、落合町の在郷軍人会の退役軍人たちは山手線の線路土手に動員されている。だが、軍用列車はそのまま通過したものの、その列車を見送っていた下落合側の観衆へ、品川方面から貨物列車783号Click!が急接近してくるのを、警備していた彼らもまた気づかなかった。

◆写真上:在郷軍人会落合村分会会務所が置かれた、落合村役場跡の現状。
◆写真中上:左は、1913年(大正2)に発行された「帝国在郷軍人会落合村分会規約」。右は、規約の冒頭「第一 総則」と「第二 目的及事業」。
◆写真中下:上は、帝国在郷軍人会会長・寺内正毅の宣言文。下は、1932年(昭和7)作成の1/3,000地形図にみる落合町役場。町役場の真ん前にある落合第一小学校が、「第一落合小学校」と妙な名称で記録されている。
◆写真下:1932年(昭和7)に撮影された、在郷軍人会会務所を兼ねる落合町役場。