1928年(昭和3)2月に東京市役所まとめた、『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』という報告資料が残されている。その中で、西武鉄道と武蔵野鉄道などが紹介されているのだが、交通網の整備の視点から郊外に展開する町々が紹介されているのが面白い。その中から、落合地域に関連が深い西武電鉄Click!と、当時の落合町の様子を取りあげてみたい。
 同報告資料は、1927年(昭和2)の後半から翌年の早い時期にかけてまとめられたと思われ、西武電鉄の終点は相変わらず高田馬場仮駅Click!のままだった。この仮駅で降りた人々(実際には仮駅は短期間しか運用されず、実質は“折り返しの場”=操車場を備えた下落合駅Click!が終点だったとする地元の証言がある)は、旧・神田上水(現・神田川)に架けられたおそらく木製の「桟橋」(歩道橋)Click!をわたり、早稲田通りへと抜ける山手線の線路土手沿いにつづく仮設道をたどって、省線・高田馬場駅まで歩いていた。
※その後の取材で、高田馬場仮駅は山手線土手の東側にももうひとつ設置されていることが判明した。地元の住民は、「高田馬場駅の三段跳び」Click!として記憶している。
 この時期、戸山ヶ原Click!に展開する陸軍施設建設Click!のために、膨大なセメントや砂利など建築資材を運んでいた同線の貨物輸送Click!は、高田馬場仮駅で貨物の積み替え作業を行なっていたのではなく、ひとつ手前の氷川明神社Click!前にあった旧・下落合駅で行なっていたのだろう。高田馬場仮駅に設置された乗客用の「桟橋」(歩道橋)では、重量のあるセメントや砂利を効率よく積み替えて運搬することができないからだ。

 以下、『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』に掲載された、西武鉄道株式会社の企業概況から引用してみよう。
  ▼
 西武鉄道(昭和二年五月末日現在)
  創 立 大正十一年八月
  開 業 同十一年十一月
  資本金 公称:一千三百万円 払込:五百五十万円
  営業線亘長 総長:四十七哩十一鎖 都市計画区域内:十二哩十九鎖
  軌 間 三呎六吋
  車 輌 ボギー車:四十二輌 単車:三十四輌 電気機関車:五輌
       貨車:七十七輌 計:百五十八輌
  運輸従業員 七百五十四名
  兼 業 コンクリート採取及製造販売、砂利、砂、玉石、砕石
  ▲
 下落合駅前で、おそらく陸軍のトラックに積み替えられたセメントや砂利は、十三間道路計画Click!のため大正末には鉄筋コンクリート橋に架け替えられていた田島橋Click!を通り、栄通り→早稲田通り→諏訪町と一気に南下して、戸山ヶ原まで搬入されていたと思われる。
 東京市が同報告書を作成したとき、大久保射撃場Click!の巨大なコンクリートドーム工事はかなり進捗していたと思われ、同年7月の竣工予定に向けて大量のセメントや砂利が消費されていただろう。西武電鉄による建築資材のピストン輸送が、この時期から昭和10年代にかけ多忙をきわめる端緒となった工事だ。このあと、戸山ヶ原には次々と陸軍の大規模なコンクリート施設が建設されることになる。
 西武鉄道(株)は、1922年(大正11)に設立された法人だが、西武軌道(株)自体は1907年(明治40)11月に資本金35万円で創立されている。その後、西武軌道は武蔵水電(株)に合併吸収され、武蔵水電が今度は帝国電燈(株)に合併吸収され、同時に鉄道事業を分離して西武鉄道が誕生するという、かなり複雑な沿革をへて誕生している。
 
 さて、西武高田馬場駅が竣工する前後を見はからって、西武鉄道は高田馬場駅から早稲田を結ぶ地下鉄「西武線」Click!の計画を進めていた。東京市の同報告書によれば、1928年度末すなわち1929年(昭和4)3月末までに竣工予定となっている。つまり、西武鉄道が東京市へと提出した工事計画書では、1年後には早稲田への地下鉄による西武線の乗り入れが完成するとしているのだ。つづけて、同報告書から引用してみよう。
  ▼
 次に当社(西武鉄道)の計画線は村山線の未成区間たる高田馬場より早稲田市電終点附近に至る一哩五十五鎖及ひ大宮線と川越線を結ふ川越市内線一哩二十鎖、新宿駅前より大体当社の新宿線に併行して一直線に立川に至る十六哩四十鎖等かあるか、早稲田延長線は昭和三年度末迄に完成の見込てあると云ふ。(カッコ内引用者註)
  ▲
 この時点で、西武線の「未成区間」Click!の中には下落合駅から山手線のガード下をくぐり、省線・高田馬場駅へと乗り入れる区間のことも含めているのだろう。早稲田までの地下鉄形式による乗り入れが、同報告書が発行された翌年の3月末までということは、すでに地下の掘削工事が進んでいた可能性が高い。地下鉄「西武線」は、陸軍の戸山ヶ原の北辺地下を通過するため、西武鉄道は特に陸軍からの面倒な許諾および鉄道省の地下鉄免許と、双方から難しい認可を受ける必要があった。
 しかし、西武鉄道は戸山ヶ原に計画されている陸軍施設の建設へ全面的に協力しているため、陸軍の認可は「陸軍省送達(陸普第二〇六六号)」として、また鉄道省からの地下鉄免許は「監第一〇〇号/免許状」として、いずれも1926年(大正15)5月の時点で、申請から1ヶ月半の審議をへてスムーズに取得済みだった。おそらく、その直後から工事がスタートしていると思われるのだが、工事の中止にともない地下鉄用に掘削されていたトンネルClick!が、その後どうなっているのかは判然としない。


 また、東京市の同報告書には、交通機関の観点から当時の落合町の様子について次のように記している。引きつづき、同報告書から引用してみよう。
  ▼
 従来当町(落合町)内には鉄道、軌道は無かつたか、昭和二年四月に至り漸く西武鉄道の村山線か開通した。但し四隣の町村に於ける交通施設は相当に整つて居たのて、間接に之れ等の交通機関に依つて当町の発展を余程促進された様てある。即ち地理的に見て当町の交通は南は中野町(東中野駅)を通して中央線に頼り東は戸塚町(高田馬場駅)及西巣鴨町(目白駅)を経て山手線に頼る外、北は長崎町(椎名町駅)に武蔵野線の利便かある。又目白、下練馬間のダツト乗合自動車(大正一四、七開通)か当町の北域内外に沿ふて走つてゐる。当町の発展乃至人口の増加は北隣の長崎町等と相似て大正十一年以降に於、特に顕著である。(カッコ内引用者註)
  ▲
 文中で、山手線・目白駅の設置場所を「西巣鴨町」としているようだが、西巣鴨町代地は目白通りの北側に位置する区画なので、「高田町金久保沢」の誤りだろう。
 また、箱根土地Click!が目白文化村Click!の宣伝用として、1923年(大正12)春に大量にばらまいたDMClick!のコピーに、「駅より文化村迄乗合自動車の便があります」は、現実に存在しているバス路線ではなく、同年時点では予定路線であった可能性がある。いかにも不動産広告らしい表現だが、1925年(大正14)7月と2年後に開通するバス路線を「便があります」と書くのは、今日では明らかに違法コピーだ。それとも、「バスなんて走ってないじゃないか!」と顧客に怒られたら、箱根土地本社Click!から目白駅までを往復する、現地見学の弊社送迎用バスClick!のことです……などと逃げるつもりだったのだろうか。ただし、1922年(大正11)の第一文化村が販売された時点で、すでに定期バスが運行されていたという資料も存在している。


 東京市がまとめた『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』は、当時の東京郊外を走る鉄道やバスの状況を概観し、1928年(昭和3)初頭の報告書として貴重な存在だ。東京市役所が、あえて東京市外の交通インフラについてレポーティングを実施したのは、もちろん5年後に予定されている市街区域の拡大、すなわち東京35区編成を見すえた大東京市Click!時代を予想してのことだろう。


◆写真上:西武新宿線の西武新宿行きが到着する下落合駅のホーム。
◆写真中上:左は、東京市役所が1928年(昭和3)2月に発行した『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』の表紙。右は、同報告書の奥付。
◆写真中下:上は、井荻駅に停車する西武新宿線。下は、敷設当初の鉄道連隊を含むレールClick!がホーム屋根の支柱に数多く残されている上井草駅。
◆写真下:上は、『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』に掲載された西武線の高田馬場駅周辺。すでに、高田馬場駅から早稲田駅への地下鉄予定線が描きこまれている。下は、休日の早朝で人が誰もいない地下鉄東西線のめずらしい早稲田駅。