九条武子Click!が死去すると、その生活や生涯は徹底的に美化されはじめ、彼女の“おつとめ”や奉仕活動など表の顔が大きくクローズアップされる反面、飾らない素の顔や本来の性格へ覆いがかけられ、徐々に語られなくなっていく。中には、意図的に隠された美化を阻害するエピソードも多いだろう。彼女が敗血症により40歳で死去しているのも、美化に拍車をかけているのかもしれない。このシリーズでは、彼女の親しかった友人あての手紙に注目し、その装わない素の性格の一端をかいま見てみたい。
 まず、九条武子は誰も彼もが「美人」というのだけれど、わたしにはそうは見えていない。一見しておわかりのように、高麗屋が舞台で“おやま”を演じたような、女形の役者のような男っぽい風貌をしており、彫りが薄くて目がひと重で細く、のっぺり顔が好まれる近畿圏では「美人」なのかもしれないが、こちらではさっそく“おやま”のニックネームがつきそうだ。声も兄にそっくりで、女性にしては低い男っぽい声をしていたことが、佐々木信綱の証言に残されている。おそらく、彼女の言動やよそいきの立居振る舞いから、おしなべて「美人」とされていたのではないだろうか。
 こんなことを書くと、下落合のご近所なので、あの世から「悪うございましたわね!」と化けで出て(いや、化けるときは東京弁山手言葉ではなく京都弁かな?w)、わたしも「あけがらす」Click!の仲間にされてしまうのも困るが、九条武子Click!はそういう茶目っ気のある“化け方”を、飾らない手紙の中でチョロチョロとかい間見せているように思えるのだ。羽織「あけがらす」の存在を知り、従来の九条武子観が少なからず揺らいだのも、私信を仔細に見直してみる契機となったしだい。ちなみに、九条武子はよく羽織や着物をこしらえては友人や知人に贈っており、羽織「あけがらす」も彼女があつらえて宮崎白蓮Click!とお揃いにした可能性がきわめて高い。
 下落合753番地に住む九条武子Click!から、ご近所の下落合1147番地に住む佐々木清香Click!へあてた手紙が何通か残されている。佐々木清香は尾崎行雄Click!の愛娘だが、佐々木久二Click!と結婚して下落合にいた。また、妹の相馬雪香Click!も下落合310番地の相馬邸Click!におり、いずれも歩いて5分前後のご近所だった。以下、九条武子の手紙を1929年(昭和4)に実業之日本社から出版された、佐々木信綱・編『九條武子夫人書簡集』から引用してみよう。
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 1927年(昭和2)3月4日 下落合より清香夫人に
 木かげの雪いまだとけやらず、春ながらこのお寒さをいかゞ御過し遊ばされ居候や。御近くにすまひ申つゝ、御無沙汰のみかさね、御ゆるし給はりたく候。(中略) 品川の方も、昨夏頃、御母上様より御手紙いたゞきしまゝご無さたに相成、御様子もいかゞやらと御案じ申上候。何卒御序の節によろしう御申上たまはりたく候。(中略) 此くだもの、今頃のとて味のほどはいかゞかと存じ申され候へども、ふと見あたり候まゝ、御覧にいれたく持たせ上候。御主人様にも宜しく御申上いたゞき度、御無沙汰の御わびかたがた、右までかしこ。やよひ四日。武子。清香様。
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 「品川の方」とあるのは尾崎行雄邸のことで、清香夫人の実家のことをさしている。また、なんらかのフルーツを贈っているようだが、日本橋三越Click!で買い物をすることが多い九条武子は、その並びにある千疋屋Click!でなにか見繕っているのだろう。
 

 九条武子は、ことのほかカステラ好きだったようで、手紙のところどころにも登場している。当時、カステラといえば日本橋文明堂だったと思うのだが、彼女は長崎旅行へ出かけたおり、わざわざ長崎本店へ寄って大量のカステラを注文し東京へと送っている。これは、佐々木清香が開園したばかりの白百合幼稚園へ、園児全員が食べられるように大量注文したものだ。白百合幼稚園Click!について、九条武子の手紙から引用してみよう。
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 1927年(昭和2)9月16日 下落合より清香夫人に
 近頃は御健かにいらせらる候よし、何よりと存じ候。私ことも元気に暮らし居、例の、あちこちかつぎまはされ、おみこしに乗りをり候。つひ、それゆゑ、思はぬ御無沙汰ばかりいたし、御許しいたゞき度候。幼稚園は、いかばかりかはいらしき御仕事と存じあげられ、一度拝見にあがりたく思ひ居候。(中略) 御散歩かたがた御遊びに御出遊ばされたく、御まち申あげ居候。昨日御使いいたゞき候をり、買物に外出いたし居候ことゝて、たゞちに御礼もしたゝめあげられず、失礼申あげ候。
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 佐々木清香が、下落合1820番地に白百合幼稚園を開園したのは1927年(昭和2)9月の初めだったことがわかる。その後、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、焼夷弾が同幼稚園の石炭置き場を直撃しアッという間に炎上してしまう様子は、高良とみClick!の目撃情報として以前にもこちらでご紹介Click!していた。白百合幼稚園は戦後に復興し、下落合では同園を卒園された方も少なくない。
 つづけて、九条武子によるカステラの大量プレゼントの手紙を引用しよう。おそらく、彼女は自分の家にも何箱かを、旅先の長崎からわざわざ配送しているのだろう。また、ここでも彼女は、親しい友人に着物か半襟を贈っているのがわかる。
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 1927年(昭和2)10月8日 下落合より清香夫人に
 さき頃電話にて伺ひましたに、今日は御留守との御事、残念に存じました。私出ます筈で御座いますが、失礼しまして、使で御免遊ばしませ。/御めずらしからぬものながら、(カステーラを)園の御子さまの御やつにでも遊ばしていたゞきたく 御襟はあまりいゝ色がなく、かこしおじみかも知れませぬが、御不断に召していたゞきましたらば嬉しう存じます。/此頃のさだまらぬ御天気加減、実にうつたうしう御座いますが、御元気さうにて、まことに喜ばしう存じあげます。今日、お父上様の全集をいたゞきました。(中略) 先日の鮎は、ほんとに結構で、七十五日生きのびました。まづは右のみかしこ。(カッコ内引用者註)
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 長崎から贈ったカステラは、速達に指定されたとしても、傷まず無事に下落合の佐々木邸へ配達されただろうか。飛行機便や宅配便のない当時、また保存料など添加されていないカステラは汽車に揺られ、また海峡を船でわたって再び延々と汽車に揺られて新宿駅ないしは目白駅の貨物駅に着き、大急ぎで配送されたとしても、賞味期限がギリギリの状態だったと思う。園児たちが、「お腹いた~い!」になっていなければいいのだが……。なお、文中の「お父上様の全集」は、1926年(大正15)に平凡社から刊行がはじまっていた『尾崎行雄全集』(全10巻)のことだ。
 彼女は、津軽照子のアトリエ開きにも出かけている。この津軽邸のアトリエとは、六天坂Click!の上にあったギル邸Click!の敷地に近接して建てられた可能性がある。昭和に入ると、下落合1775番地の旧ギル邸敷地全体が津軽義孝邸Click!に変わっており、義孝の養母である津軽照子はそこにいたからだ。ギル夫人は、草花を栽培し研究する趣味をもっていたようだが、津軽照子の「植物の御研究室」もそれに通じる趣味だ。つづけて、九条武子の書簡を引用しよう。
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 1925年(大正14)2月12日 下落合より津軽夫人に
 先日は御つかれのなかを夕刻にうかゞひ、御迷惑なりし御ことゝ御わび申上候。まことに御立派なる御作品を拝見いたし、かねて御噂には承りをり候へども、たゞたゞ感じ入り、言の葉もこれなく候。植物の御研究室、御歌の御部屋、拝見御ねだり申あげ、あなた様ならではと、心づよくも存じあげ候ことに候。(中略) 先日鳥渡御はなし申上候私知人小野と申さるゝ方の家内の手芸品、もしその辺御序もあらば御覧給はりたく、十六日まで三越にて開きをられ候。御心づきも候はゞ御指示いたゞきたく、喜ばれ候ことと存じ候。
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 九条武子の手紙で興味深いのは、自身が華族出自の裕福な“有閑夫人”でありながら、同じ有閑夫人あての手紙には明らかな温度差のあることだ。同じ既婚の女性でもなにかしらの奉仕活動へ専念していたり、佐々木清香のように自らの意思で働いている女性に対しての手紙は、文面の温度が高くてやさしい表現なのだが、そうではない女性に対してはどこか形式的で、文面の温度も相対的に低い。
 趣味におカネをたっぷりとつかい、華族の夫人連を招いて自慢したらしい津軽照子への手紙は、どこか形式的でよそよそしい文面になっている。大正末から昭和初期の思想状況の中で、ハッキリとした階級観とまではいかないまでも、有閑夫人連への皮肉や小さなトゲのようなものが隠されているのを、勉強好きな九条武子の文面へひそかに感じるのはわたしだけではあるまい。
 

 この時期の九条武子は、関東大震災Click!の復興が遅れに遅れていた、本所や深川の窮民救済に奔走していたはずで、こののち歌舞伎役者たちとタイアップしたイベントを企画し、歌舞伎座の席をぜんぶ残らず買いきって裕福な夫人連をまとめて芝居に呼び、やや高額な席料を払わせて興行収入の何割かを復興支援資金にまわしたりしている。今日の広告代理店でも及び腰になりそうな、そのような大がかりなプロデュースをこなす彼女にしてみれば、危機的な状況を目前にしてなにもしない有閑夫人たちは、非常に歯がゆく映っていたにちがいない。さて、次回は九条武子の“ハゲ好き”について……。

◆写真上:上背もあるので、よけいに歌舞伎の女形に見えそうな九条武子。死去するわずか1ヶ月前、1928年(昭和3)1月に写真館で撮影された生涯最後の記念写真。
◆写真中上:上左は、上掲写真の全身像。上右は、1929年(昭和4)に出版された佐々木信綱・編『九條武子夫人書簡集』(実業之日本社)の表紙。下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合753番地の九条武子邸。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11/左)と1963年(昭和38/右)の空中写真にみる下落合1820番地の白百合幼稚園。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同園。
◆写真下:上は、1936年(昭和11/左)と1941年(昭和16/右)の空中写真にみる下落合1755番地の津軽邸。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された同邸。