築地本願寺で関東大震災Click!に遭遇した九条武子Click!は、兵庫県に住む知人あてに「もうあれから半月になりますのに、まだ都は、ものものしいつけ剣の兵隊がまもつてをります」ではじまる長い手紙を書いている。彼女は1923年(大正12)9月1日の午前11時30分すぎに、女中をひとり連れ日本美術院の院展を見終えて帰宅している。
 汗をかいた着物を脱いで、浴衣に着替えた九条武子はソファに座り本を2ページほど読み進めたところで、いきなり強震が襲った。そのときの様子を、1929年(昭和4)に実業之日本社から出版された、佐々木信綱・編『九條武子夫人書簡集』から引用してみよう。
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 1923年(大正12)9月17日 青山より兵庫県魚崎海岸小西夫人に
 (前略)いつものとほりと、庭に面した柱によつて見てをりますうち、段々ひどくなり、たうとうはだしで、中庭に飛びおりましたが、瓦が落ちますので、あぶなくて、また家のうちに入つたり、さうする間に、台所に通ひます廊下と、台所の閾とが、三寸ほども開いてしまひますし、どうにも歩けませんの。でも、やつと裏の物干へ飛び出し、立木をしつかりつかまへてをりました。この時、本堂のゆれましたこと。今にもあの大きな建築が倒れるかと思はれました程。勿論、第二震で、私のすまひの屋根の瓦や壁は、大方ふりおとされ、五分間ほどの間に、あばら屋の様になりました。
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 このときの築地本願寺は、江戸期からつづく大屋根を載せた巨大な本堂のままだった。この大屋根は、安藤広重Click!が日本橋界隈をモチーフにした風景画の随所に、江戸の街並みの中から突出して描かれるほど大きかった。本堂は震災の揺れで瓦1枚落ちなかったが、このあとに発生した大火流に呑みこまれて全焼している。
 九条武子が「いつものとほり」と書いているように、関東大震災が発生する以前には、かなりの頻度で予震が発生していた可能性が高い。この大震災への予兆は、鵠沼海岸の岸田劉生Click!も日記へ記録Click!している。この当時、九条武子はいまだ夫の九条良致といっしょに暮らしていた。つづけて、彼女の手紙から引用してみよう。
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 ほんとに私どもは今から思へば馬鹿で御座いました。たゞ地震にばかりおそれて、内に入りませず、半日を暮らし、三時半頃良致帰宅いたし、これも大呑気で、本堂前の避難者など見まはりにまゐたりしてをりますうち、日も暮れかゝり、人の顔もうすうすの夕方になつて、俄然風の向きがかはり、今度は風下になり、一方は八町堀(ママ)から、一方は銀座から、どんどん焼き進んでくる有様で、もうかうしてはをられないと、表の者の注意にせき立てられ、着物を着かへましたのと、小さな手かばんに、その晩の野宿の用意にと、毛布や大ぶろしき二三枚つつこみ、少しばかり、手近にあつた貴金属のたぐひをほりこみました。(カッコ内引用者註)
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 火災が迫る築地本願寺をあとにした九条武子は、近くの海軍参考館前へと逃れている。しかし、火の手のまわるのが速く、このときはすでに歌舞伎座のあたりまで火災が迫っていた。歌舞伎座から築地までは、まだかなりの距離があるはずなのだが、すでに強風で銀座から火の粉が盛んに飛んでくるような状況だった。このとき発生していた風が、いわゆる「大火流」Click!と呼ばれる現象を起す暴風だったと思われる。
 築地の端に追い詰められた九条武子たちは、群衆にまぎれて芝方面へ脱出するが途中で海軍軍楽隊の建物で休憩し、築地の精養軒(旧・西洋館ホテル)や農商務省が焼けるのを目撃した。また、すぐに築地本願寺にも火がまわり、江戸期からの巨大な本堂建築だったため「そのあたりの炎の物すごさ」を目のあたりにしている。この直後、九条武子たちは開放された浜離宮の外苑へと避難した。
 築地の様子を見にいった者がもどり、すでに本願寺は火がまわっているということで、さらに山側へ逃げようと、九条武子たちは別院のある青山高樹町めざして出発した。彼女たちは、東京湾の海沿いをたどりながら南へ向けて避難しているが、日が暮れたあと芝公園のあたりから一気に西に向かって内陸部に入り、火災が起きてない方角をめざしている。つづけて、青山までの避難路の様子を引用してみよう。


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 私どもは徒歩にて、あちこちの焼ける爆発の音を後にして。淋しいともなんともいはれぬ心もちで、芝公園をさしてあるいてまゐりました。ときどきうしろを見ますと、一面の火の海で御座います。なんといふ怕ろしいことになつたのでせうと思ひつゝ、十一時頃、高樹町の宅に着きましたが、こゝは殆ど別世界の様に静かで、風もなく、月が秋らしう静かに澄んでをりました。うまれかはつた様な心持が致しました。翌日、別院の人達もまゐり、その後の恐ろしい有様を聞きまして、よく早く出たと思ひました。本堂は、九時四十分に棟がおちました由。私どもの逃げた芝公園附近も、やはり其あとで焼けましたり、離宮の橋も、御門も、避難の船も、皆焼けて、たうとう一萬人余の避難者は、内苑に入れていたゞいて、やうやう、被服廠あとのやうな、むごたらしいことはならずにすみました由。
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 九条武子はこのあと、1923年(大正12)10月末まで青山高樹町で避難生活をつづけ、その間に中野駅から「女の足で十分ほど」のところに仮住まいを探して決め、11月に京都へ一時的に帰省したあと、彼女が「美術村とやら異名されて」いる下落合へは、同年も押しつまった12月29日に転居してくることになる。1924年(大正13)の正月早々に、下落合から投函された佐々木信綱・雪子夫妻あての手紙には、ようやく落ち着いた彼女の様子が伝えられている。

 1923年(大正12)9月17日の手紙には、築地本願寺の大本堂に火災が迫り一部が燃えだしたとき、ふたりの老婆が本堂へ自死しにきた様子が伝えられている。ふたりは、おそらく東京じゅうが炎に包まれるのを見て絶望したのだろう、燃える本堂の中へ入っていった。翌朝、きれいな白骨になって出てきたことが書きとめられている。自死したふたりの老婆のほか、築地本願寺では逃げ遅れた焼死体が7~8体も見つかっている。おそらく、火災を防ごうと本堂へ参集した信者たちが、火災に巻きこまれたのではないだろうか。さて、次は下落合への転居をめぐる、九条武子の手紙から……。

◆写真上:下落合753番地の自邸で、庭に面した南端の座敷縁側で縫い物をする九条武子。陽射しの角度から、午前10時ごろの撮影だと思われる。
◆写真中上:左は、江戸期から変わらない明治期に撮影された築地本願寺の大屋根。右は、九条武子たちが一時的に避難した築地の海軍参考館。
◆写真中下:いずれも、九条武子が1921年(大正10)4月に鹿児島へ旅した際に投函した自筆の絵葉書。彼女は、日本画家・上村松園の門下生でもあった。
◆写真下:関東大震災時における九条武子の避難ルートを、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真に描きこんだもので、約6~7kmほどの行程になるだろうか。