落合地域には、すでに名を成した誰もが知る芸術家たちが数多くアトリエをかまえていたが、もちろん東京美術学校Click!を卒業して間もない画家の卵や、「さあ、これから!」というときに病気で夭折した画家たちも大勢暮らしている。きょうは下落合に住み、曾宮一念Click!に画道具の買い方を教えてくれた、彼より2年先輩の洋画家・近藤芳男について書いてみたい。
 近藤芳男は、美校研究科在学中から光風会展に出品し、1912年(明治45)の第1回展で今村奨励賞を受賞している。つまり、近藤芳男もまた中村彝Click!や曾宮一念Click!と同様に、成蹊学園の中村春二Click!を通じて今村繁三Click!の支援を受けていた画家のひとりだ。2007年(平成19)に東京藝術大学で開催された「自画像の証言」展図録に、近藤の自画像が収録されているが、メガネをかけ痩せぎすで神経質そうな風貌をしている。
 東京美術学校へ入学したてのころは、しばらく石膏室Click!でデッサンの実技を繰り返し勉強するので、絵の具やパレットなどの画道具を持たない学生も多かった。曾宮一念もそのひとりで、入学後しばらくしてから課題の必要に迫られて、ようやく画道具を買い揃えている。そのとき、画材の揃え方について買い物のアドバイスをしてくれたのが、2年上のクラスにいた近藤芳男だった。
 曾宮が紹介されて出かけた画材店とは、神田の文房堂か隣接する竹見屋、または丸善神田店のいずれかだったと思われるが、関東大震災Click!ののち、画材を揃えるのにもっとも便利な美校校門前の浅尾沸雲堂Click!は、いまだこの時期には開店していない。曾宮と近藤は、すでに以前から水彩画会を通じて顔なじみだったようだ。
 そのときの様子を、1985年(昭和60)に文京書房から出版された、曾宮一念『武蔵野挽歌』から引用してみよう。
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 五月第二週から半月、風景競技でデッサンは休みとなり好きな風景を描けるのは有難かった。しかし英語と体操に週四度出席は有難からず、油画の道具を持たないので、水彩画会で知り合いの近藤芳男が二年上にいたので、買い方を聞いて買いに行った。十円で、箱、絵具、筆、油、カンバス、筆洗一揃を買って帰宅し、すぐ夏蜜柑とリンゴを四号に描いた。案外油画は便利なものだと喜んだ。この処女作は今もって行方不明である。
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 曾宮一念はデッサンの授業が苦手だったらしく、早くキャンバスに向かって油絵を描きたかった様子が伝わってくる。授業の中に「英語」が出てくるが、美校の洋画を志望する学生は、ほとんどがフランス語を選択したので、英語を選んだ学生は曾宮を含め同じクラスでわずか3人しかいなかった。このとき、美校で英語の教師をしていたのが森田亀之助Click!で、教科書には彫刻家の『フランソワ・リュード伝』を用いている。佐伯祐三Click!に英語を教えたのも森田亀之助だが、彼は曾宮や佐伯がアトリエを建てて暮らしはじめるよりも、かなり早くから下落合に住みはじめている。


 美校の学生を終えた近藤芳男は、このあと研究科に残って制作をつづけていたようだが、このころから異常な様子や行動が見えはじめていたらしい。研究科の教授たちも、彼をもてあましていたようだ。同じ水彩画会に属する曾宮一念に会っても、彼を誰だか認識できなくなっていた。
 近藤芳男が、いつ家族とともに下落合で暮らすようになったのか、その経緯はまったくの不明だ。曾宮一念は、近藤の消息をのちに下落合で聞くことになる。それは、近藤がすでに「狂い死に」したあと、中村彝アトリエClick!でいっしょになることが多かった、鈴木金平Click!を通じてだった。前掲書から、つづけて引用してみよう。
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 水彩画会の先輩近藤芳男に油絵具の買い方を聞いたことは先に記した。この近藤は大正三年卒業後研究科にいたので、私と顔を合わせたが口もきかず横向いて私を逸した。身体がひどく痩せていた。光風会に裸婦の大作が出ていたのを私は感心して見ていると、彼の親しい教授小林万吾がいて「近藤には大いに困っている」とだけ漏らした。その裸婦は色も良く達筆な力作だがどこか不気味さに満ちていた。その後のある日、落合で鈴木金平に会うと、「いま近藤芳男の家の前で屑屋からこれを五円で買った」と言って絵具箱と十数点の画布を見せた。裸婦や静物が例の流動的な筆で描かれて、何か異常な匂いがあった。近藤は結核が脳に来て狂い死にしたので、家族が遺作を売り払ったことがわかった。
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 近藤芳男は、1917年(大正6)に死去しているので、このときの鈴木金平は中村彝アトリエのすぐ北側、清戸道(現・目白通り)に面した藁葺家の2階を借りて住んでいたころのことだろう。つまり、鈴木金平の文章から近藤芳男の家は、目白停車場から中村彝アトリエの近くへといたる、どこか途中にあったのではないかと想定することができる。このとき、曾宮一念はまだ下落合に住んではおらず、おそらく中村彝を訪ねて鈴木金平に出会ったと思われるのだ。
 すでに研究科にいたころから、近藤芳男は曾宮一念の顔を認識できなかった様子なので、結核菌が脳に入って炎症を起こす結核性髄膜炎により、重度の記憶障害を起こしていたことがうかがえる。症状としては、焦燥感をともなう認知症のような状態がつづき、ストレプトマイシンが存在しない当時としては手の打ちようがなく、文字どおり「狂い死に」のようなありさまだったのだろう。
 いろいろ探してはみたものの、近藤芳男の作品は東京藝大の美術館に保存されている『自画像』の1点を除き、まったく発見することができなかった。ひょっとすると鈴木金平か、あるいは家族が遺作の一部を自宅に保存しつづけ、その後、どこかへ伝わっているのかもしれないが、「何か異常な匂い」のするそれらの作品は、もはや行方不明で目にすることができない。
 
 さて、曾宮一念は妙正寺川をはさみ、下落合のすぐ西に隣接して住む、耳野卯三郎Click!のアトリエについても貴重な証言を残している。耳野は、雑司ヶ谷のアトリエから下落合を飛びこえ、大正末から上高田421番地にアトリエをかまえていたのだが、これは上高田422番地の甲斐仁代Click!と中出三也Click!が暮らしていたアトリエのすぐ隣りの地番だ。甲斐・中出アトリエClick!は、二科の洋画家・虫明柏太が34歳で死去したあと、未亡人からそのアトリエを借り受けて住んでいたものだが、その隣接する区画、つまり妙正寺川に架かる北原橋の西詰めには、ほかにもアトリエが建ち並んでいた様子がうかがえる。曾宮一念の前掲書から、引用してみよう。
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 耳野卯三郎の家の近くのこの川を私は幾度か描いた。画を描きながら泳ぎ好きの私は飛込みたくなったのに、戦後耳野を訪ねて川辺を通ると泥みぞと化し、猫の死体からボロ蒲団まで捨てられて、呼吸をとめて歩くほどに汚れていた。私は日本人慢性の悪癖を嘆いた。私が落合川と名付けた川は落合から関口の幽邃(ゆうすい)な崖下で渓谷風景をつくり、その西側には大きな筧が道の上に釣られて水車を廻していた。
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 曾宮一念が描いた妙正寺川の風景作品を、わたしはまだ一度も観たことがない。おそらく、当時の妙正寺川沿いの風景は鈴木良三Click!が描く『落合の小川』(1922年)や、林武Click!の『下落合風景(仮)』(1924年)のような風情だったので、同じような画面だと思われるのだが……。
 曾宮もまた、旧・神田上水(現・神田川)のことを「落合川」と呼んでいたのがわかる。耳野卯三郎は、大正末から戦後の1960年代まで上高田421番地に住んでいて、曾宮が訪ねたのは妙正寺川が腐臭漂うドブ川となっていた、1960年代ではないかと想定することができる。耳野アトリエの住所は、大正期の上高田421番地から昭和初期には上高田2丁目421番地、戦後の1960年代には上高田5丁目11番地と変化しているが、北原橋西詰めの位置を動いてはいない。

 
 曾宮一念が嘆いた「落合川」=神田川の汚濁だが、いまでは澄んだ川面をアユがさかのぼってくる様子を見たら、どのような感慨を書きとめるのだろうか? もう一度、神田川や妙正寺川を描きたくなり、幼いころから夏になると日本橋浜町も近い隅田川の水練場Click!で泳ぎを練習したであろう曾宮一念は、「飛込みたく」なるだろうか?

◆写真上:鈴木金平が借りていた、藁葺き2階家があったあたりの目白通りの現状。
◆写真中上:上は、1930年(昭和5)ごろに撮影されたダット乗合自動車Click!が走る目白通り。左手につづく塀は目白福音教会Click!の敷地と思われ、右手に写る「〇鳩時計店」については不明だ。下は、1933年(昭和8)に撮影された目白通り。
◆写真中下:左は、1914年(大正3)に制作された20代半ばで病没する近藤芳男『自画像』。右は、東京藝術大学美術館に保存されている明治期から現代までの自画像を集めた「自画像の証言」展図録(2007年)。
◆写真下:上は、妙正寺川の近影で中央に飛んでいるのはセキレイ。下左は、1936年(昭和11)に制作された耳野卯三郎『鞦韆(しゅうせん)』。下右は、戦後は児童書の挿画家としても活躍した耳野卯三郎の表紙絵で、1950年(昭和25)にフレーベル館から出版された佐藤義美・他による『キンダ―ブック/ぞうさん』。
★舟木力英さんが、この記事を引用されながら中村彝の書簡について、興味深い文章を書かれています。詳細はこちらClick!へ。