鎌田りよが、疎開していたふるさとの小樽から東京へ、すなわち下落合4丁目2015番地(現・中井2丁目)にある大日本獅子吼会Click!や、三菱銀行中井支店Click!の北側にあるアパートないしは下宿を借りてもどったのは、戦後も間もなくのころだ。空襲が激しくなり、1945年(昭和20)4月に小樽へともどったところまでしか、1950年(昭和25)に公論社から出版された彼女の自叙伝『生命ある限り』には書かれていない。
 成人した長女と次女は戦時中から働きはじめており、三女も20歳近くで手がかからなくなっていただろうから、おそらくひとり暮らしだったのではないだろうか。娘たちは、若死にした夫との間にできた子どもたちだった。小樽では、女学生時代から文学少女であり、また洋画を習いに平沢貞通の画塾「三味二」へと通っていた。妻子のある平沢と付き合いはじめたのは小樽時代からで、ふたりは心中未遂事件まで起こしている。結婚後、しばらくは絵画から離れていたが、平沢と再会してから再びはじめているようだ。
 3人の子どもたちを抱え、小樽では生活しにくかった鎌田りよは、東京へ出て働きはじめた。大塚駅近くの下宿屋で、最初は4人暮らしだったようだが、娘たちが次々と独立して働きはじめると、太平洋戦争がはじまるころは母と三女のふたり暮らしになった。平沢との交渉も、この大塚時代から復活した。鎌田りよは、娘たちと平沢との板ばさみでノイローゼとなり、この下宿で蓚酸を呑み自殺未遂事件を起こし入院している。
 戦後、東京へもどり下落合に住むようになってから、平沢貞通は頻繁に彼女のもとを訪れるようになった。平沢一家は、東中野の氷川社近くに自宅を建てて住んでおり、下落合の鎌田りよのいる家とは、直線距離で1,500mほどしか離れていない。工事中の改正道路Click!(山手通り)沿いを歩いていけば、雨や雪でも降らない限り、おそらく15~20分前後でたどり着けたと思われる。
 鎌田りよは『生命ある限り』の中で、大塚駅近くに借りていた下宿屋の次に移ったアパートの2階の描写をしているが、これが下落合の住まいと同一のアパートだったかどうかは不明だ。2階の窓外にはサクラの木があり、風があると花弁が舞いこむような部屋だったようだ。同書から蓚酸による自殺未遂直前の、アパートの描写部分を引用してみよう。灯火管制下で、部屋は真っ暗だった。
  ▼
 窓を静かに開けました。誰にも聞えない程静かに開けたのでしたが、全身が固くなりすぎて、さつと音高く開けてしまつたですの。(ママ)/月の光りと、幾枚かの花びらが、殆んど一緒に部屋へこぼり込みました。此の光りと花びらを見ていると、不思議に私の気持も落ちついたので御座居ます。/そつと、それこそ、私は布団の上に仰向けになりました。
  ▲
 
 
 さて、1988年(昭和63)に出版された和多田進の本に、『ドキュメント帝銀事件』(筑摩書房)がある。そこには、下落合に住んでいた鎌田りよの家の所在地図が掲載されている。同図は不可解な地図で、下落合の道筋を知っている方が見たら、こんな場所はありえない……と、すぐに気づかれるだろう。
 まず、道路の描き方がメチャクチャで、このような道筋は大日本獅子吼会や旧・三菱銀行中井支店の周辺にはありえない。蘭塔坂(二ノ坂)Click!が金山平三アトリエClick!をはさんで、三ノ坂と連結している。下落合にお住まいの方なら、獅子吼会南側の接道を西に歩いても、三ノ坂へは抜けられないぜ……とすぐに気づかれるだろう。
 金山アトリエの西隣りは、東京土地住宅Click!によるアビラ村計画Click!では南薫造アトリエClick!が建設される予定地の一部で、西側は三ノ坂に面する切り通しの崖地だ。現状も同様で、マンションが建つ三ノ坂に面した西側は擁壁となっており、大正期から戦前までどの地図をひっくり返しても、金山アトリエの先が三ノ坂へつづく描写は存在せず、道は「く」の字に折れて北の“上の道”Click!へとつづいている。
 さらに、獅子吼会の北側にある接道も、そのまま東へとつづいてはいない。この道を東へ進めば、正面の獅子吼会施設(事件当時は卍型屋根の同会施設)にぶつかり東へは抜けられない。そのまま東へ進むには、獅子吼会北側の接道の角、すなわち三菱銀行中井支店のあった角から北へ20mほど上がったところにある東西道を右折しなければならない。地図によれば、鎌田りよは東西道を少し入った左手(北側)、すなわち下落合4丁目2006番地(現・中井2丁目)に住んでいたことになる。また、三菱銀行中井支店の場所もおかしい。同支店は、現在の獅子吼会敷地の北東角にあったのであり、獅子吼会北側の接道と同支店との間に距離はないのだ。要するに、この地図はデタラメということになる。
 ただし、下落合で代々作成されてきた地図のうち、和多田進が起こした地図によく似ている唯一の例外は、1960年(昭和35)に作成された住宅明細図だ。この地図では、獅子吼会の南接道は西側で三ノ坂へと抜け、北の接道はカギ型に折れ曲がらず東側へと突きぬけている。しかし、この地図の描写は随所に不正確な表現が見られるため、わたしは当時の住民を確認する以外の目的で参照することはまずない。見方を変えれば、和多田進はこの1960年(昭和35)の不正確な住宅明細図をベースにして、『ドキュメント帝銀事件』用に地図を描き起こしているのではないか?……とも解釈できる。



 さて、この記事をお読みの方は、すぐにおかしなことに気づかれるだろう。帝国銀行椎名町支店の事件(通称「帝銀事件」)と同じような未遂行為が1週間前に行なわれた、下落合の三菱銀行中井支店(1948年1月19日は、たまたま同銀行高田馬場支店の支店長も同席していた)で、顔を行員たちにしっかり見られている「犯人」が、同支店に近接する鎌田りよの家へ犯行後もノコノコと通いつづけてきた……ということになる。
 換言すれば、愛人宅のすぐ目の前にあった銀行を強盗目的で、あるいは何ものかへのデモンストレーションの「人体実験場」として、陸軍科学研究所Click!が開発したアセトンシアンヒドリン(青酸ニトリール)Click!の使用場所に選んだことになるのだ。通常の感覚なら、ありえない行為だ。なにをするかわからない、検事調書の供述もメチャクチャな平沢の性格なら、別に「ありうる」といってしまえばそれまでだが、「コルサコフ症候群」の罹患経験がないわたしには、あまりにも不自然かつ不用意な行動だと感じる。
 鎌田りよは、帝銀事件のあと再び小樽へと帰り、『生命ある限り』のあとがきは2年後の冬、北海道で書かれている。平沢貞通が、帝銀事件の犯人として逮捕されたのち、彼女の想いをつづった最初で最後の文章なのだろう。同書より、再び引用してみよう。
  ▼
 此の物語りの中では、つとめて平澤さん個人に、触れないように綴りました。/世の多くの方々は、新聞や雑誌によつて、例え悪い面だけにしろ、平澤さんと云う人間を大体御存知のことゝ存じます。/私は、敢えて平澤さんのために、弁明も弁解もいたしません。帝銀事件の平澤さんが、これからどのような道をたどり、どのような姿の人にならうと、それは私の知る必要はないのです。/三十年近くの、永い間私が愛し、私が尊敬してきた、私の平澤さんは、やはりその頃の姿のまゝで私の胸奥にいらして下さいます。/今も尚、静かに燃え続けている心の炎が、私の小さな生命と共に燃えはてるまで、私の平澤さんは変りございません。/世の中で、誰にも信じられないことを、自分だけがこつそり信じきることも、私には嬉しいのでございます。
  ▲
 この文章を読むと、鎌田りよは平沢の無罪を「信じきる」といっているようにもとれるが、「帝銀事件の平澤さん」とか「悪い面」などの表現では、たぶん犯人は平沢貞通だろう……というような感触でいるようにも思える。おそらく彼女は帝銀事件の以前、銀行を舞台に詐欺事件を何度か繰り返すような平沢の裏面を、かなり詳しく知っていたと思うのだが、それについてはいっさい黙して語らない。


 
 もし、和多田進が『ドキュメント帝銀事件』で作成した地図のどこかに大きな錯誤があり、鎌田りよの家も大日本師子吼会や旧・三菱銀行中井支店の直近ではなく、下落合のもっと離れた場所にあったとするならば、話はまったくちがってくる。なお、地図に記載されている、帝銀事件になんらかの関係があったと想定されている他の人々については、和多田進の同書か、1996年(平成8)に出版された佐伯省『疑惑α―不思議な歯科医―』(講談社)、あるいは2002年(平成14)出版の佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件―』(批評社)を参照されたい。

◆写真上:和多田進『ドキュメント帝銀事件』で、平沢貞通の愛人である鎌田りよが住んでいたとされる下落合4丁目2006番地(現・中井2丁目)界隈。
◆写真中上:上左は、1950年(昭和25)に公論社から出版された『生命ある限り』。上右は、著者の鎌田りよで表紙や挿画も彼女自身が描いている。下は、鎌田宅前の東西道(左)と三菱銀行中井支店(左手)があった蘭塔坂つづきの南北道(右)。
◆写真中下:上は、『ドキュメント帝銀事件』で和多田進が作成した大日本獅子吼会周辺の地図。中は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる獅子吼会周辺の正確な道筋。下は、1960年(昭和35)に作成された住宅明細図の不正確な道筋。
◆写真下:上は、獅子吼会敷地の北東角にあたる三菱銀行中井支店跡。中は、まさに1948年(昭和23)1月19日の三菱銀行中井支店未遂事件の前日1月18日に撮影された空中写真。下左は、逮捕後の平沢貞通(大暲)。下右は、鎌田りよのスケッチで「香を焚く平沢大暲」。平沢は鎌田りよのもとで、よく香を焚いては瞑想していた。