1964年(昭和39)7月12日、下落合2丁目702番地の元東京大学総長・南原繁Click!らを中心に、ひとつの研究会が発足した。警視庁が自他殺の判定を放棄した下山事件について、改めて当時の資料や新たな証言、より進んだ科学的な分析技術などを集め、改めて同事件について考察する「下山事件研究会」だ。下山事件(1947年7月5日発生)の時効が成立した、わずか7日後のことだった。
 同事件は、東京地検と捜査二課が他殺を確信して捜査をつづけ、捜査一課が自殺を前提に傍証を集めるという異例の展開となっていたが、警視庁の上層部が捜査一課の方向に傾き「自殺」を発表する直前に、GHQからの圧力で発表が無理やり抑えられた。また、他殺説をとっていた捜査二課の捜査員や東京地検の担当検事が、次々と「栄転」あるいは異動させられて捜査本部が瓦解し、自他殺不明のまま今日にいたっている。
 内村鑑三Click!の弟子でもあった南原繁が代表幹事をつとめる「下山事件研究会」は、参加メンバーに作家の広津和郎Click!や劇作家の木下順二、作家の開高健、京都大学の仏文学者・桑原武夫、作家の松本清張Click!などをはじめ、都立大学(塩田庄兵衛・沼田稲次郎)や東京大学(団藤重光)、立命館大学(佐伯千仭)など当時日本の主だった法学関連教授、さらには弁護士など法律のエキスパートたちも参集して検証が行なわれている。事件の時効成立後に同研究会が旗揚げしているのは、事件にかかわる新たな証言を期待してのことであり、事実、事件当時に米軍の諜報要員だった人物(元CIA要員)の証言が得られている。
 下山事件研究会の設立趣意は、同事件が国民に与えた異常な衝撃ははかり知れないものであり、この衝撃を利用して行なわれた占領下の諸政策は、その後の日本の進路を決定したといっても過言ではないとし、わたしたちの想像を超える“なにか”が実行された可能性があるとしている。また、つづいて起きた三鷹事件や松川事件Click!に大きな影響を与え、日本の国際的な位置づけや政治の潮流を決定づけた、戦後民主主義の流れに位置する“起点”であり一大転機だったと規定している。
 そして、治安当局が時効成立とともに、永久に真相を究明することができなくなったいま、有志を結集して事実と真相の究明につとめ、「私たちは、これ以上、時日が経過しない間に下山事件についての関係者の証言や知識を集め、科学的・実証的に、事実の一つ一つを歴史の中にきざみこんでゆきたいと思います」と宣言している。同研究会へ証人として参加したのは、下落合1丁目473番地の東大法医学教室教授・古畑種基Click!(鑑定医)をはじめ、下山常夫(下山定則実弟)、加賀山之雄(国鉄副総裁)、桑島直樹(解剖執刀医)、矢田喜美雄(朝日新聞記者)、GHQの元・諜報機関員たちなどだった。(カッコ内の役職は事件当時)
 
 
 1969年(昭和44)8月にみすず書房から出版された、下山事件研究会編『資料・下山事件』より南原繁の言葉を引用してみよう。
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 死体の解剖と死因の鑑定は、直ちに東大医学部の「法医学教室」に、ついで着衣の附着物質については、同「裁判化学教室」に、検察当局から依頼があった。これは、たまたま私が東大に在職していたときのことである。解剖の結果や、それに伴う各種試験の経過は検察当局に随時報告されたが、鑑定書の最後の完成までには、あるものは数ヵ月、あるものは一年半を要した。それほど徹底的にあらゆる疑点にわたって、関係教室の教授・助教授・講師・助手、一体となって、時に昼夜にわたる試験研究の結果であった。/古畑教授(法医学主任)と秋谷教授(裁判化学主任)は、しばしば総長室に見えて、その経過を語られたが、東大医学部の結論は「死後轢断」、すなわち他殺を意味するものであった。
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 発足から5年後、1969年(昭和44)7月5日に下山事件研究会は、日比谷公園の一画にあった松本楼で記者会見し、下山事件20周年に当たっての声明「国民のみなさんへ」を発表している。この5年間の活動を報告するとともに、結論として「下山国鉄総裁はなにものかによって殺害されたものであるという疑いを、到底払底することはできない」という結論を発表した。また、同研究会が発足した当時の日本政府も、初めて「他殺」の可能性がきわめて高いという姿勢(1964年6月26日衆議院法務委員会)を表明し、一部の鑑定資料などの情報公開をはじめていたが、同研究会では捜査資料の全面情報開示をするよう改めて強く要請している。

 
 これらの膨大な研究成果は、上掲の下山事件研究会編『資料・下山事件』として刊行され、その後に同書は下山事件を追及する重要な基礎資料の役割りを果たすことになった。同書の「あとがき」から、再び引用してみよう。
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 (前略)当会の目的は、ただ単に下山元国鉄総裁の死が、自殺であるか他殺であるかの論争を、追求するだけのものだけではないということである。法医学、裁判化学によって明らかにされた真実をまもり、政治学、歴史学、その他あらゆる社会科学がさし示す真実を記録し、占領下日本の政府がうやむやにしたこの事件の真相を総合的に明確にして後世に残すことが、当会に結集したわれわれの希求するところである。(中略) だから「自他殺論争」として読者が本資料を読まれる場合は、本書の資料が主として、一九四九年の事件発生直後に活字になったものが多いことに注意をはらっていただきたい。これらはいずれも、まだ東大鑑定書が公表される以前のものであり、また、プレス・コードおよび政令三二五号(占領目的阻害禁止令)によって、憲法上の言論の自由が侵害されていた当時の物である。
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 さて、それからさらに40年以上の年月が流れた今日、さまざまな捜査書類の開示や発見、新たな証言者の登場や告白などにより、下山事件の実行部隊はG2と太いパイプをもち、日本橋室町のライカビルで亜細亜産業を経営していた矢板機関とその関係筋である可能性が高いことが、柴田哲孝『下山事件 最後の証言』(祥伝社/2005年)に収録された、当の機関総帥・矢板玄(くろし)の「最後の証言」などによって濃厚になっている。

 
 自殺説を補強するために、捜査一課が集めた「目撃情報」(特に五反野を徘徊していた人物の人相風体)の大半は刑事たちの“創作”であり、調書を取られた目撃者たちが抗議していた様子も判明している。また、もっとも重要かつ「詳細すぎる」目撃証言の提供者、五反野駅近くにあった末広旅館の女将の夫が、元・特高警察の刑事であり、いずれか米軍機関のG2ないしはCICとのつながりが想定されるなど、現代にいたるまでいまだに事件の追及がつづいている。一方、事件直前に五反野駅や常磐線ガード付近をウロウロ歩いていた、「下山総裁」の替え玉の人物特定さえ、すでに示唆される段階になっている。

◆写真上:1949年(昭和24)7月5日に起きた下山事件の、常磐線の轢断現場検証。
◆写真中上:上は、下落合2丁目702番地に住んだ南原繁(左)と南原邸界隈の現状(右)。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる南原邸(左)と古畑種基邸(右)。
◆写真中下:上は、東大の死体検案書にみる下山総裁の遺体損傷状況。下左は、解剖所見資料にみる左腕の生前傷痕と死後傷痕の様子。下右は、同解剖資料の顕微鏡写真にみる生前の打撲によって生じたと思われる陰茎部の③皮下出血。
◆写真下:上は、下山事件研究会が作成した手描きの現場検証図版。下左は、1964年(昭和49)に出版された下山事件研究会編『資料・下山事件』(みすず書房)。研究白書ないしは資料集の体裁をしており、装丁はなく真っ白だ。下右は、2005年(平成17)出版の柴田哲孝『下山事件 最後の証言』(祥伝社)。