大正末から昭和初期にかけ、セメント業界Click!は減産してまで余剰在庫の解消に四苦八苦している。1927年(昭和2)4月の時点で、セメント業界の総在庫は約140万樽にもおよび、この在庫量は全国における1ヶ月の総消費量に匹敵する膨大なものだ。セメント業界では、15%の生産制限を実施していたが、さらに在庫がふくらむ傾向にあったので、その制限率を拡大しようとしていた。
 だが、関東大手の秩父セメントが減産には反対で、生産制限40~50%をめざすセメント事業連合会総会では、「反対」にまわっている。それはそうだろう、多摩湖Click!(村山貯水池)の建設につづいて、関東大震災Click!による復興需要はもちろん、戸山ヶ原Click!に建設が予定されている膨大な陸軍施設の需要と、高田馬場駅から戸山ヶ原の北辺を抜け、早稲田まで貫通する地下鉄「西武線」Click!の敷設が見こめる同社では、減産どころではなく増産体制を整えたかったにちがいないからだ。
 特に、1927年(昭和2)3月に起工した巨大なコンクリート製の大久保射撃場Click!を皮切りに、山手線をはさみ戸山ヶ原の東西には、鉄筋コンクリート製のビルを前提とする数々の陸軍施設Click!が昭和10年代にかけて計画されており、秩父セメントとしては「いまが稼ぎどき」と受注を待ちかまえていたにちがいない。そんな“ひとり勝ち”する秩父セメントを牽制するために、セメント事業連合会では緊急総会まで開いて減産率のアップを議題にすえ、各メーカーの在庫を一掃できるよう協議していたように思える。1927年(昭和2)4月27日発行の、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
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 セメント減産率 更に拡張されん
 月末大阪で緊急総会開催
 セメントの在荷は現在約百四十万樽(略一ケ月の生産量)であるがモラトリアムの結果約定品の受渡しが出来ず取引は全部現金で行はれてゐるといふ有様であるので滞荷は一層増加気配にあるのでこの処分難に至つた そこでこの対策として生産制限率(現在は一割五分)の拡張によつて難局を切抜けんとしまづ大阪側が歩調を合はせ東京側に制限率を提議するところあつた これに対し東京側は二十六日工業クラブに会合し協議したが秩父セメントが賛成を保留したため、当日は最後の決定を見るに至らず月末大阪において連合会緊急総会を開き付議することになつた しかして秩父を除く外の意向としては需要期に現在の如き滞荷に遭遇しては梅雨期に一層これを増しセメント界の立直りを著るしく困難ならしむるのでこの際制限率を拡張する外なしといふ意見に一致してゐるので月末の緊急総会では多分四五割までに制限率を拡張するものと見られる。
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 工事現場を十分に遮蔽できなかった当時、梅雨どきになると工事が困難となり、セメントの需要が急減していた様子がわかる。
 「大阪側」の減産要求に対し、「東京側」の秩父セメントが「うん」といわないのは、急ピッチで進められていた関東大震災による復興事業が、東京を中心に関東各地で行われていたからであり、関西のセメントメーカーの在庫を調整するための減産要求など、むしろ「東京側」には関東のスムーズな復興事業を阻害し、セメントのコスト高(関西からの物流費上乗せ)を招来する、復興そのものを妨害するような提案行為として映っていた可能性も否定できない。「東京側」は、むしろ早期の“燃えない首都圏”復興のために、セメントの増産が一大命題だったと思われるからだ。
 もうひとつ、セメントの大量需要が見こめる計画に、1927年(昭和2)3月末に東京府が発表した、28線にものぼる大道路計画Click!がある。しかも、この中には十三間道路と呼ばれる、道幅25m(約13間3尺)の大道路が16線も含まれていた。道路表面は、もちろん先進のアスファルト舗装が想定されていたと思うのだが、歩道や側溝・排水溝、地下設備などの付随施設はコンクリート製であり、セメントの膨大な使用が前提となる。
 翌4月のセメント事業連合会総会で、「大阪側」があえて減産を提案しているのは、この東京府による一大土木計画を、関西地域のメーカー在庫を一掃する契機とみた可能性もある。以下、1927年(昭和2)4月1日発行の東京朝日新聞から引用してみよう。


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 府が十年計画で道路大改修
 郊外発展と交通の混雑に備へ二十八線の大道路
 最近東京郊外の発展はすばらしく家屋は日毎に殖える一方であるがその道路は全く無茶苦茶で自動車の出入等は全く不可能の所多く不便が甚だしいのでもしこのまゝ放置しておくと、今後の道路改修工事に非常な困難と多額の費用を要するので、先に東京府では郊外道路網の調査をし去る二月廿六日の都市計画委員会に付議されたが、東京府では委員会の決定をまつてゐては容易に着工出来ないので、府会の議決を経て工費五千三百三十一万余円で昭和二年から十ケ年計画をもつて、二十八線の道路の改修を行ふ事になつた、この道路は東京市を中心として環状線に放射線の交錯したもので、昭和二年度の予算は百万円三年度から六年まで二百万円、七年度から八百八十六万三千円である 右二十八線は二十五メートル(約十三間半)を最広とし、二十二メートル(十二間余)十八メートル(約十間)十五メートル(八間余)の四種で二十五メートルになるのは左の十六線である/▲大崎桐ケ谷環状線より池上村洗足池に至る▲下目黒環状線より碑衾村柿木坂に至る▲淀橋町放射線終点より松沢村代田橋南に至る▲中野町淀橋より井荻村中央線踏切に至る▲落合町高田町界より下練馬谷戸に至る(以下略)
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 1960年代になってようやく開通(下戸塚一帯は1970年代の開通)する、落合地域の十三間道路(新目白通り)なのだが、当初の道路計画は二転三転し、山手線ガードをくぐって高田町側へと抜けるルート計画が確定したのは戦後のことだ。
 それまでは、下落合氷川明神前にあった西武電鉄の旧・下落合駅Click!前を経由して田島橋をわたり、栄通りを拡幅して省線・高田馬場駅前から早稲田通りへと合流する計画だった。しかし、下落合駅が1930年(昭和5)7月に西へ移動してしまうと、同駅前を通る必然性がなくなり、田島橋の下流にもうひとつ大型橋を架けて高田馬場駅まで抜けるルートに変更されている。この計画が、山手線をくぐり抜けて高田町側へと再び変更されたのは、戦後の1947年(昭和22)ごろのことだ。


 セメントを秩父地方から東京市街地へスムーズに運ぶため、中央線も西武電鉄(現・西武新宿線)も、ときにセメント会社まで創業した武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)も貨物輸送に力を入れている。セメントの「減産」により、首都圏でどれだけセメントが不足して工期が遅れたか、あるいは関西のセメント在庫がどれだけ削減されたのかは不明だが、もうひとつ、河川で採れる良質な玉砂利の需要もウナギのぼりだったはずだ。

◆写真上:戸山ヶ原の陸軍軍医学校本部近くに残る、頑丈なセメントの擁壁。
◆写真中上:上は、1927年(昭和2)4月27日発行の東京朝日新聞に掲載されたセメント減産記事。中・下は、戸山ヶ原に残る陸軍防疫研究室・細菌研究室跡の構造物残滓。軍医学校とともに、河川から採取された良質な玉砂利が用いられている。
◆写真中下:上は、1927年(昭和2)4月1日発行の東京朝日新聞に掲載された東京府の大道路計画。下は、1927年(昭和2)に竣工した多摩湖(村山貯水池)の堤防断面。
◆写真下:1926年(大正15)夏に制作された、佐伯祐三の下落合風景シリーズClick!『セメントの坪(ヘイ)』Click!の塀跡。大正末の諏訪谷開発にも、大量のセメントが用いられた。