1935年(昭和10)前後、寺斉橋の北詰めにあった喫茶店「ワゴン」Click!の、北側に通う路地の突き当たり右手、すなわち下落合4丁目1909番地(現・中落合1丁目)に辻山医院は開業していた。医師の辻山義光は、いま風にいえば脳神経内科が専門であり、晩年の慶應義塾大学Click!医学部では神経病理学を研究していた医学者だ。また、妻の辻山春子は、長谷川時雨Click!の「女人藝術」Click!へ作品を発表する新進の劇作家だった。
 当時、開業医だった辻山義光は、落合地域のあらゆる患者を診ており、内科や神経科、婦人科、小児科などあらゆる病気の治療を行う町医者だった。辻山は、大脳生理学者で当時は「新青年」へ作品を発表していた作家の林髞(木々高太郎)の弟子で、また妻が「女人藝術」の劇作家だったこともあり、自然、落合地域に住む作家たちの主治医のような存在になっていった。辻山医院は、貧乏な作家たちとその家族の病気を治す、「融通」がきく医院として知られ、その待合室はまるで文学サロンのような趣きとなった。同医院へ出かけると、ウィスキー入りの紅茶がタダでふるまわれたのも、貧乏な作家たちを集める大きな要因となったのだろう。
 当時は、下落合5丁目2069番地(現・中井1丁目)の「もぐら横丁」Click!に住んでいた尾崎一雄Click!も、「なめくぢ横丁」Click!時代に近所の古谷綱武Click!から辻山医院を紹介されている。1952年(昭和27)に池田書店から出版された『もぐら横丁』から、辻山医院について引用してみよう。
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 中井駅の踏切りを南へ越したところに、『ワゴン』といふ喫茶店があつた。体格の立派な三十位の婦人が経営していた。(萩原朔太郎氏の別れた夫人だといふことを、あとで聞き知つた。) 『ワゴン』の側の横丁を入ると、行止まりの右手に、辻山医院があつた。主人は辻山義光氏、夫人は春子さんと云つて、戯曲を書いたりするが、しかし、淑かな家庭夫人らしい人だつた。この辻山医院には、なめくぢ横丁時代、古谷綱武君の紹介で世話になり、当時二歳の長女が時時厄介になつた。この医院には、一人前、半人前の文学者たちが、何の彼のと集まつてよく雑談をしてゐた。辻山義光氏が、お医者としては林髞博士の弟子であり、夫人が劇作家でもあるから、自然と一種のサロンを形づくつたものと云へよう。常連としては、芹澤光治良Click!、片岡鉄兵Click!、林芙美子Click!、古谷綱武、檀一雄Click!、大江賢次、荒木巍、その他の諸氏が居た。私は、単に話をしに行くといふことは無かつたが、長女が病気勝ちだつたため、自然にこれらの人と落ち合ふ機会が多かつた。
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 辻山医院には、「もぐら横丁」にいた尾崎宅の隣りに住んでいた、怪しい自称アドライターの「S君」も通ってきていた。彼は尾崎一雄へ、落合地域に不眠症が多く身体を壊す住民が多いのは、「家の直ぐ向うを通つてゐる西武線の高圧線」のせいだと話していた。
 
 雨が降ると、高圧線鉄塔のほうから「ビシビシビシビシ」と、放電する音が「もぐら横丁」までよく聞こえていたようだ。尾崎は「西武線の高圧線」と書いているが、これは西武鉄道が設置した鉄道用の高圧線鉄塔ではなく、それ以前から妙正寺川に沿って建てられていた、山梨県谷村から目白変電所Click!へと引かれた東京電燈谷村線Click!のことだ。1927年(昭和2)に西武電鉄Click!が開通すると、東京電燈谷村線は線路を跨ぐような「Π」字型の鉄塔Click!へと建て替えられていた。
 また、もぐらがたくさん棲息し、台所の土まで持ち上げるようになると身体に悪い……といったようなことまで尾崎に話したらしいが、彼が相手にしないでいると、そのうちS君は夜逃げをして行方不明になってしまった。
 ほどなく、尾崎一雄が辻山医院を訪れると、林芙美子も来院していて、とんでもないことを聞かされることになる。つづけて、同書より少し長いが引用してみよう。
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 それから間もなく、辻山さんへ行つたら、丁度林さんも居て、いろいろ話の末、S君のことが出た。私が、あの人についてはいろんな面白いことがあるから、そのうち一つ書かうと思つてゐると、云ふと、辻山さん夫妻が一度に笑ひ出して、/「駄目ですよ尾崎さん。向うの方が一枚上手ですよ。あなた書かれてゐるのを知らないんですか」さう云つたので驚いた。/「へえ!」と目をぱちぱちやつてゐると、散々笑はれ、林さんにまで、/「駄目だなア、尾崎さんは」と云はれてしまつた。/聞くと、こんなわけだつた。ある日S君が辻山さんへやつて来て、神経衰弱の薬と、その広告文案とを出して見せた。――これは大変よく効く薬で、隣に居る青年文士の尾崎一雄君にも一ビン上げたら、非常に良いからもう一ビン呉れとのことだつたが、さうただでも上げられないから、あとは直接製造元へ云つてくれと上げるのを断わつた――広告文にはそんなことが書いてあつたさうだ。さう話して、みんなはまた大笑ひをした。私は呆れて、応へやうが無かつた。/S君は、自分でつくつた薬と、自分で書いた広告文とを、一緒にどこかへ売り込まうとしてゐたのである。彼は、どんな薬でもつくることが出来たらしい。いつもポケットに五、六種類の薬を入れてゐたさうである。そして喫茶店などで、話を病気の方へ持つて行つては、誰かに売りつけようとしてゐたのだ。『ワゴン』でもこの伝をやつたが、余り売れなかつたさうである。
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 詐欺師S君は、話に真実味を持たせるためか、尾崎一雄の家へは不要だというのに薬箱を無理やり置いていっている。尾崎は気味悪がって、その桐箱に入った「痔の薬」をうっちゃっといたらしいが、それが落合地域では「神経衰弱の薬」に化けて売られていたようだ。さらに、「花柳病の薬」も「ワゴン」で売っていたらしいが、萩原稲子の証言では尾崎一雄がよく効くといっていた……というセールスはしていない。
 大脳生理学あるいは脳神経内科が専門の辻山義光のもとへ、「神経衰弱の薬」を売りにやってきた詐欺師S君は、いい度胸をしているといえばいえるだろう。化学的な成分や、その効能を訊かれたりしたらどのような対応をしたものか、そこまでの記録がないので不明だが、S君をモデルにどこかで春子夫人が作品へ取り入れてやしないだろうか。
 辻山医師の姉は、九州の大都市で産婆会の会長をつとめるほど熟練した助産婦で、尾崎夫人が「もぐら横丁」で二子を出産する際、たまたま辻山医院に滞在していて取りあげてもらっている。つまり、辻山義光の姉が辻山家にいる間、同院は内科から産婦人科まで、外科を除きあらゆる病気の相談を持ちこめる総合医院のような存在となっており、日々の生活費に事欠く作家たちには頼もしい施設となっていたのだろう。
 松枝夫人が第二子を出産したとき、尾崎一雄は作家たちの会合に出席していて留守だった。すっかり酔っぱらいご機嫌で帰宅した尾崎を、辻山義光の姉である助産婦は「もぐら横丁」の家でキセルをふかしながら待っていた。
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 はるばる下落合の家に着いた時、私は未だ好い気持に酔つてゐた。「犬が西向きや尾は東」などと出鱈目に唄ひながら、がらりと玄関を開け、「御帰館(ママ)だぞ」と上ると、そこに女物のコートと、黒革の小さいカバンが置いてあつた。客かな、しかしこの夜更に、と思つてゐると、リゾールの臭ひが鼻に来た。私は少し慌てて奥の方へ入つて行つた。/押出しの堂々とした辻山さんの姉さんが、坐つて煙管で煙草をのんでゐたが、私の方をゆつくり見上げるやうにして、/「お帰りですね」と云つた。/「どうも。――今日はのつぴきならぬ会合がありまして。どうもいろいろ……」/私は坐つて、深く頭を下げた。妻の床のわきに、新しい小さなのが眠つてゐるのを発見した。「生まれたわけですね。」/「大変御安産で」/「有難うございました。酔つぱらつたりして、どうも済みません」また頭を下げた。/今まで黙つてゐた妻が大声で笑ひ出した。産婆も微笑した。/「男か女か」と妻の方から云つた。/「どつちでも結構だ」/「お坊ちやんですよ」と産婆さんが当り前の顔で云つた。/「さうですか。どうも有難うございました」/産婆に向つて、お叩頭をした。
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 落合地域の作家たちの生活を題材に、辻山春子はどこかの戯曲へ書いているかもしれない。戦後に岡田八千代Click!の「アカンサスの会」や、「女流劇作家五人の会」に所属した辻山春子だが、その作品群のテーマについては、またもうひとつ、別の物語……。

◆写真上:下落合4丁目1909番地の、路地の突き当たりにあった辻山医院跡の現状。正面に見える灰色の建物が、辻山義光・辻山春子邸が建っていた敷地跡に重なる。
◆写真中上:左は、戦後の慶應義塾大学医学部時代の辻山義光。右は、1952年(昭和27)に出版された尾崎一雄『もぐら横丁』(池田書店)の内扉で挿画は中川一政。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる辻山義光・春子邸とその周辺。下は、戦後に小田原で撮影された尾崎一雄(右)と松枝夫人(左)。
◆写真下:上は、辻山医院のあった路地から寺斉橋北詰めの通り(工事中の中井駅方面)を眺めたところ。下左は、早稲田文学会で発言する尾崎一雄。下右は、岡田三郎助Click!のアトリエで撮影されたとみられる岡田八千代(左)と長谷川時雨(右)。