1929年(昭和4)1月19日の深夜、東京の城北部は警視庁が敷いた非常線だらけで、住宅街の各所を密行するふたり1組の私服刑事たちは緊張していた。すでに記事でご紹介した、「説教強盗」事件Click!の捜査が大詰めを迎えていたからだ。このとき、説教強盗が犯行を繰り返していた中心と目される目白駅の東約2kmと少し、目白崖線つづきのバッケClick!がつづく小日向台地で、もうひとつ別の大事件が持ちあがっていた。
 むしろ、小日向で起きた事件のほうが、警察官ふたりをピストルで殺傷しているので、説教強盗などよりもはるかに凶悪な強盗殺人事件だった。犯人は、まず小日向台町1丁目75番地の農学博士・新渡戸稲造Click!邸へ侵入し、1階で就寝していた萬里夫人の部屋を物色したがカネが見つからず、2階に寝ていた新渡戸稲造の枕元を物色中に見つかり、博士にピストルを突きつけて居直った。物音を不審に思った夫人が2階へ上がってくると、改めて夫妻に向かって「千円出せ」と要求したが、カネがなさそうなのを感じたのか、すぐに「五百円でもいい」と値を下げている。萬里夫人が財布の40円をわたすと、「まだあるだろう」と脅したが、1階から女中を呼んで確認したところ、ほんとうにカネのなさそうなのが判明し、犯人は夫人が差しだした40円を奪ってそのまま逃走した。
 つづけて同日の午前3時40分ごろ、隣家の戸田半平邸に侵入しようとしたところを、折りから説教強盗を警戒中だった大塚署の巡査2名に発見され、そのうちのひとり細川巡査に発砲して肩に重傷を負わせた。この時点で、侵入犯が説教強盗ではなく、ピストルを所持した別の凶悪犯であることが被弾をまぬがれた横山巡査にもわかり、付近を警邏中だった警官たちの応援を求めようと、犯人を追跡しながら非常警笛を吹き鳴らした。
 この警笛を聞きつけたのが、現場近くに自宅のある大塚署の寺崎巡査だった。彼は警棒を持って玄関を飛びだすと、警笛が聞こえる方角へ走った。だが、逃走する犯人の前へ立ちはだかるように鉢合わせをしてしまい、非番だった寺崎巡査はその場で射殺された。連絡を受けた警視庁では、総動員体制で小日向から江戸川橋、目白界隈に非常線を張りめぐらしたが、犯人の姿は忽然と消え失せてしまった。そして、夜が明けてしばらくたった同日午前9時に、一帯の非常線は解除された。
 同日午前11時すぎ、犯行現場近くの小日向水道町(宅地開発後の「久世山」住宅地)に新築中だった鬼(おに)邸の建設現場で、大工のひとりが天井裏の工事にかかろうと足場から奥の間をのぞいたところ、印半纏を着て痩せた青白い顔の男が隠れているのが見えた。てっきり、雨露をしのぐために入りこんだルンペンだと思い、追いだそうと声をかけたところ、いきなり鼻先へピストルを突きつけられた。大工は、とっさの判断で足場を飛び下りると近くの交番へ走った。
 その間に、犯人は小日向台地の崖沿いを逃げ、敷地が隣接する小日向水道町108番地の元首相・浜口雄幸邸(すでに浜口は死去)へ塀を乗りこえて侵入し、敷地をそのまま突っ切ると、さらに路地を隔てた隣りにある同番地の詩人・堀口大学Click!邸の庭垣の陰に腹ばいになって隠れていた。強盗の様子を目撃していた堀口大学の陳述調書を、1935年(昭和10)出版の『防犯科学全集/第四巻』(中央公論社)から、そのまま孫引きしてみよう。
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 私ハ昭和四年一月十九日午前十一時二十分頃自分ノ書斎デ仕事ヲシテ居リマシタガ、表ノ方ガ大分騒シイノデ、其朝強盗騒ギガアリマシタ事トテ捕ヘラレルカドウカ致シタ事ト考ヘ東ノ方ノ窓ニ引イテアツタ白布ノ下部ヲ上ゲテ表ノ方ヲ見マシタ。/処ガ私ノ窓カラ二間半位ノ先ニ下テ石ヲ積ンデ其上ガ太イ木デ格子ニ成ツテ居ル塀ガアリ、其塀カラ三尺位ノ手前ニ南向ニ四ツ匍匐ニナツテ顔ヲ東ニ向ケ塀ノ隙カラ、外部ノ様子ヲ窺ツテ居タ男ガアリマシタノデ、キツキリ(ママ:テツキリ)強盗ト思ヒ、父ヤ女中ニ其旨ヲ告ゲマシタ。(中略) 私ガ東ノ窓カラ見マシタ時ハ其男ハガタガタ震ヘテ居リマシタ。/年齢ハ二十三歳位、丈ハ五尺ソコソコデ細ツテ居テ、体重ガ十二貫モアルカドウカ位デ、頬ハコケテ、色ハ蒼ク、頭髪ハ油気ノナイ、余程ノビテヰタモノデ、其模様カラ見テ、非常ニ窮迫シタ家庭ノ者ラシク、字ハ判リマセンガ、印半天ニ黒イ股引ヲハキ、尚腰ヲ何カデ締メテ居リマシタガ、腰ノ辺ガキチントシテ居リ、普通ノ紺足袋ヲ穿イテ居リマシタ。
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 堀口大学は、2階の窓から犯人を2~3分ほど観察していたので、人相風体をよくおぼえていた。書かれている印半纏は、目撃者が共通して指摘する着衣で、襟には「新宿合同運送株式会社」の文字が入っていたことが判明している。
 このあと、警戒の目をくぐって小日向水道町108番地の堀口邸の庭を脱出した犯人は、江戸川橋か目白台の方面へ逃走した様子なので、当時の目白崖線沿いの関口台、目白台、高田老松町、高田町、そして落合町地域の家々は、いつピストル強盗が飛びこんでくるか気が気ではなかっただろう。犯人の足取りをみると、目白崖線のグリーンベルト沿いに逃走しているのが透けて見える。つまり、市街地化が進み住宅が建てこんでいた江戸川橋から鶴巻町、早稲田方面へは逃げずに、崖地が多く緑が鬱蒼と繁っていた崖線沿いの丘上、あるいは斜面を西へ逃走した気配がうかがえる。
 この強盗殺人事件が起きたことで、高田地域(現・目白地域)や落合地域は震えあがっただろう。それでなくても、ここ数年間に説教強盗の被害を受けつづけていた両地域では、住宅地の警備強化が大きな課題として浮上したと思われる。下落合の住民による自治組織だった同志会Click!では、説教強盗が各地で頻発していた1927年(昭和2)、第19回総会で常設委員の中から9名も「警備係」を選出している。
 また、町内に夜警詰所を設置し、防犯・防火の警備を活発化させている。そして、ピストル強盗事件が発生した1929年(昭和4)には、同志会会員だけでなく他の住民からも夜警費を徴収することに決定した。同年当時の警備詰所は、諏訪谷Click!の大六天Click!北側に設置されており、現在の消防団倉庫や集会場となっているところ、すなわち曾宮一念アトリエClick!の向かいにあった。1939年(昭和14)に出版された『同志会誌』(下落合同志会・編)から、1929年(昭和4)の秋に開かれた定例役員会の模様を引用してみよう。
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 十一月六日 定例役員会
 十一月の例会を六日開催、夜警詰所を第六天(ママ:大六天)北地へ移転することに決した。尚夜警は十二月一日から三月末日までとした。
 十一月二十八日 役員会
 十二月例会を繰上げて十一月二十八日に開催、会員外から夜警費を徴収することゝとし、又警備員若干名を選定してホースを使用して消防に当らせることゝしたが、警備員として小日向健司、平澤峯次郎、佐久間兼吉、田中多吉、喜多川浅太郎、配島隆雄、小林松蔵、高橋力蔵、鈴木順吉、武笠徳太郎、島崎芳太郎の諸氏が選ばれた。
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 さて、犯人が所持していた拳銃は、ほどなく牛込区納戸町の商工省技師・山川元邸から盗まれた、米国S&W社製の5連発リボルバーで、実弾100発と空弾50発も持ち去られていることが判明した。この拳銃は、犯人が浜口雄幸邸の敷地を突っ切る際に棄てていったが、山川邸から盗まれた拳銃にはもう1挺、当時の陸軍が採用していた南部式8連発拳銃と実弾16発があることもわかった。したがって、ピストルを棄てて逃亡したにもかかわらず、いまだに拳銃1挺を所持する危険な犯人であることに変わりはなかった。
 犯人の目撃証言にあった、「新宿合同運送株式会社」の文字入り印半纏は有力な証拠と見られたが、印半纏の配布先があまりにも多く、また盗まれたものも少なくないので、まったく犯人の手がかりにはならなかった。盗みに入るときに用いたノミやヤットコ、キリ、出刃包丁などの遺留品は、市内の金物店がシラミつぶしに捜査され、それぞれ野方町、四谷伝馬町、中野町で販売していることがわかった。だが、これらの“商売道具”からも、犯人につながる有力な情報は得られない。犯行から2ヶ月がすぎても、警視庁では犯人の居住地域すら絞りこめず、新聞の見出しには早くも「迷宮入り」という活字が見られはじめていた。
 犯人逮捕の突破口となったのは、大工が夜仕事などで使うことが多い、遺留品のひとつ亜鉛板(ブリキ)製の安全燈(カンテラ)だった。市販されているカンテラとは異なり、特注らしい独特な形状をしていた。犯人が邸内へ侵入する際、ガラス戸や窓をカンテラで焼ききる手口が見られ、遺留品のカンテラが用いられたと推定された。燈火の周囲をすべてブリキで囲い、一方の細い穴から強い火力が出るような仕掛けに変造されている。素人にしては出来がいいので、専門のブリキ職人が製造したものと判断され、今度は市街地のブリキ職人が片っ端から捜査された。
 すると、犯人と思われる人相の男が特注のカンテラ製造を依頼し、断られているブリキ職が何店か見つかった。その店筋を時系列でたどると、どうやら犯人は中野駅周辺に居住しているらしいことがわかってきた。最後に立ち寄ったブリキ職は、中野区打越にある店舗だった。この店のブリキ職の目撃情報から、犯人の福田諭吉は1929年(昭和4)3月30日に、中野の自宅近くの路上でついに逮捕された。

 
 中野区打越952番地の福田の自宅からは、山川邸で盗まれた南部式8連発拳銃と実弾や、盗品とみられる貴重品の山が発見された。同時に、女性の写真や恋文が数通発見されたけれど、いずれも犯人が女装した写真であり、またラブレターも彼が自分で書いたものであることが判明すると、この事件は凶悪犯が起こしたピストル強盗殺人事件から、変質者が起こした異常な強盗殺人事件として、再びマスコミの注目を集めることになる。

◆写真上:いまでも樹林がつづく、小日向崖線の濃いグリーンベルト。
◆写真中上:上左は、1929年(昭和4)に警視庁の捜査本部が作成した現場見取図の一部。上右は、小日向水道町108番地に住み犯人を目撃した堀口大学。下は、明治末の市街図に犯人の逃走経路(想定)を描き入れたもの。
◆写真中下:上は、小日向水道町108番地から江戸川橋・目白坂方面へと下る坂道。下は、1935年(昭和10)に撮影された椿山の麓にある関口芭蕉庵。
◆写真下:上は、1935年(昭和10)撮影の江戸川橋。下左は、犯人が着ていた「新宿合同運送」の印半纏。下右は、犯人逮捕のきっかけとなった特注のカンテラ。