竹田助雄Click!の「落合新聞」Click!(1962年5月3日~1967年10月26日/全50号)には、松下春雄Click!の作品が繰り返し取り上げられている。たとえば、1962年(昭和37)5月19日号には、松下春雄が1925年(大正14)に制作した『下落合文化村入口』Click!が紹介されている。松下春雄は、作品のタイトルで常に「下落合文化村」と表現しているが、これはもちろん目白文化村Click!のことで、同作は第一文化村の西端に建っていた箱根土地本社ビルClick!の庭(不動園Click!)から、ほぼ真北を向いて描いた風景画だ。
 『下落合文化村入口』Click!の記事が掲載されたのは、「落合新聞」が発行されていた当時、西落合1丁目303番地(旧・落合町葛ヶ谷306番地Click!)の松下春雄アトリエClick!で健在だった淑子夫人Click!が、「落合新聞」の編集部へ同作品を寄贈したためだ。同作は現在、新宿歴史博物館に収蔵されており、のちに竹田助雄から新宿区へ寄贈されたものだろう。わたしは、淑子夫人には残念ながらお逢いできなかったが、長女でご健在の彩子様Click!と、先年10月に亡くなられたご主人の山本和男様Click!からは、いろいろなお話を聞くことができた。
 『下落合文化村入口』が紹介された、同号の記事から引用してみよう。
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 故・松下春雄と落合風景/下落合時代の遺品から
 このほど、西落合四ノ二二、松下淑(ママ)さん(61)から、何かのお役にたてばと、左の絵を頂戴した。/この絵は、大正から昭和初期にかけて華々しい活躍を示し、数々の逸品を残している、故松下春雄の下落合風景の一点で、描かれた絵の場所は、今は全くその面影を残していない。/絵は一九二五年(大正十四年)作、水彩画、画名は「下落合文化村入口」となっている。六八センチ×五〇センチ、場所に記憶のある方は、当時を思い浮かべることができるでしょう。/絵の中央に交番、ここには今、落合消防出張所の鉄塔の火の見やぐらが建つ。右の建物は煉瓦造りの箱根土地本社で、左の道は落一小学校に通ずる一方交通路。(松下春雄の略歴/中略) 下落合付近の風景画も多く、「落合風景」「下落合の雪」「文化村」「文化村の冬」のほかに「下落合男爵別邸」や「薔薇の園」などがある。/松下春雄は下落合三ノ一三八五番地時代から、晩年は西落合に移り、昭和八年十二月三十一日、三十一才で亡くなられた。
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 この記事中には、いくつかの誤りが見られるので訂正しておきたい。松下春雄が下落合生活をスタートしたのは、1925年(大正14)に住んだ下落合1445番地の鎌田邸の下宿Click!が最初であり、下落合1385番地は淑子夫人と結婚して新婚生活を送るため、1928年(昭和3)の春に転居した第一文化村北側の借家Click!だ。
 また、『下落合文化村入口』に描かれた、箱根土地本社の敷地に沿って通う「左の道は落一小学校に通ずる一方交通路」ではなく、第一文化村を南南西へ向けて下る二間道路で、落一小学校へと通う道は交番の手前、見えにくいが画面を左右に横切っている二間道路だ。交番の左側に見えている立て看板と樹木は、1923年(大正12)に埋め立てられたばかりの前谷戸Click!の一部で、のちに長谷川邸が建設される敷地(下落合1340番地)だ。記事では同作の画角を、ちょうど東へ90度誤って解説されている。


 「落合新聞」の取材を受けて、当時は松下春雄アトリエや鬼頭鍋三郎アトリエClick!から江古田方面へ500mほど、江原町2丁目29番地に住んでいた大澤海蔵Click!は、次のように語っている。
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 はじめは、落合小学校の前に火の見やぐらがあって、天理教の建物があって、そのそばの小さな家に松下さんは二年ぐらいいた。/それから、箱根土地の入口の交番の近くに新しい家が建ったので移った。上が一間、下が一間で、私はそこで松下さんと一緒に暮らした。近くには、つい最近まで健在だった有岡一郎、これも亡くなられた橘作次郎、それから女子美術を出た人やそのほかに二、三人たむろしておった。毎日集まっていた。画描きばっかりなもんだから話が毎日はずんだ。/他に近くには、佐伯祐三Click!、曽宮一念Click!、青柳優美、吉田博Click!がいた。丘をおりた処がぼたん園だった。箱根土地には金山平三さん、作家の吉屋信子さんもいた。/松下さんは水彩をやって非常に評判がよくて、それから油もやり出した。最も堅実な写実から入ったかただった。水彩が評判がよかったから、油も次から次に特選になった。
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 天理教の建物そばの「小さな家」が、下落合1445番地の鎌田家下宿であり、文化村の交番近くの「新しい家」が、下落合1385番地の結婚したあとの借家だ。大澤海蔵は、松下春雄・淑子夫妻の新婚家庭へ居候していた“お邪魔虫”ということになる。w また、下落合1385番地近くで「女子美術出た人」とは、もちろん吉屋信子Click!がときおり立ち寄っていた、中出三也Click!と暮らす甲斐仁代Click!のことだろう。
 丘を下りたところの「ぼたん園」は、西坂の徳川邸Click!にあった「静観園」Click!のことであり、「箱根土地」と書かれている金山平三Click!と吉屋信子Click!は、東京土地住宅Click!が開発したアビラ村(芸術村)Click!の誤りだ。大澤海蔵は、アビラ村も箱根土地が開発した目白文化村の延長だと勘ちがいしていたフシが見える。また、想像したとおり松下春雄と下落合800番地Click!に住んでいた有岡一郎とは親しい間がらで、連れだって西坂の徳川邸を描いていた様子がうかがえる。


 さて、つづく「落合新聞」1962年(昭和37)6月25日号にも、松下春雄の作品『下落合男爵別邸』が紹介されている。(冒頭写真) ここの記事をお読みの方なら、すぐにどこを描いた画面かがおわかりだろう。西坂の徳川邸の庭、やや東寄りに造成されていたバラ園の入口を描いたものだ。これとそっくりな構図の作品である松下春雄の『徳川別邸内』(1926年)も、すでにこちらでご紹介していた。
 新たに見つけた『下落合男爵別邸』は、『徳川別邸内』に比べて視点がやや低いように感じるが、見えているモチーフはほぼ同じだ。手前には屋根の低い温室、正面にはバラ園への入口である、おそらくモッコウバラをはわせたアーチが描かれている。また、バラ園の向う側には諏訪谷Click!や不動谷(西ノ谷)Click!をはさみ、対岸の崖地に建つ家や、斜面のコンクリート擁壁が見えている。異なっているのは、『徳川別邸内』ではバラのアーチの奥にふたりの少女がたたずんでいるのに対し、「落合新聞」に紹介されている『下落合男爵別邸』では、少女がバラのアーチの下で椅子に腰かけている。
 この作品が、現在どこに収蔵されているのかは不明だが、竹田助雄が撮影した当時は、西落合の松下家の壁に架けられていたのかもしれない。ぜひ、実物の画面を一度見てみたいものだ。西坂の徳川様によれば、当初の「静観園」(ボタン園)は邸の北側にあったが、その後、昭和初期の新邸建設にともない、『下落合男爵別邸』に描かれたバラ園の向う側、谷間に沿った東側の斜面へ移されている。つまり、松下春雄が『下落合男爵別邸』や『徳川別邸内』を描いた10数年ほどのち、このバラ園を通り抜けて東側の斜面を眺めると、一面のボタン園だった時代があった。


 さて、1932年(昭和7)4月に松下春雄・淑子夫妻は、杉並町阿佐ヶ谷520番地から落合町葛ヶ谷306番地(のち西落合1丁目303番地)へアトリエを新築してもどってくるが、そのとき玄関先にモッコウバラのアーチをこしらえている。ひょっとすると、西坂の徳川邸でスケッチしたバラ園のアーチが、強く印象に残っていたからかもしれない。

◆写真上:「落合新聞」の1962年(昭和37)6月25日号に掲載の、1926年(大正15)に西坂・徳川邸で制作された松下春雄『下落合男爵別邸』。以前にこちらでご紹介している松下春雄『徳川別邸内』(1926年)のバリエーション作品だ。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)に制作された松下春雄『下落合文化村入口』。下は、1926年(大正25)に描かれた同『徳川別邸内』。
◆写真中下:上は、やはり徳川邸のバラ園を描いた1926年(大正15)制作の松下春雄『下落合徳川男爵別邸』。下は、1925年(大正14)に制作された同『五月野茨を摘む』Click!で、奥に見えているのは第一文化村の水道タンク。
◆写真下:上は、松下邸に架けられていた松下春雄が描く長女・彩子様のスケッチ。下は、玄関先にバラのアーチが設置された西落合の松下春雄アトリエ。