1954年(昭和29)の夏、落合地域の上空を低空で旋回する飛行機から撮影された空中写真が残されている。竹田助雄Click!の「落合新聞」Click!編集室がある下落合の中部、目白通りに近い目白文化村Click!の第一文化村が中心の撮影で、同じ飛行機から目白駅寄りの下落合東部や、西部のアビラ村界隈が撮影されているかどうかは不明だ。
 1962年(昭和37)8月15日、敗戦から17年めに発行された「落合新聞」には、落合第一小学校Click!あたりの上空から北西を向いて撮影された、斜めフカンの空中写真が掲載された。(冒頭写真) 目白通りの南側に拡がる、第二府営住宅Click!から目白文化村のほとんどは、二度にわたる山手空襲Click!で焼失しているが、焦土から9年が経過した1954年(昭和29)現在、戦後すぐのころのバラック住宅も散見されるが、かなりの敷地で住宅が復興している様子が見てとれる。道路に対し屋根が斜めを向いている邸が増えているが、戦後、テラスを真南に向けて敷地に住宅を設計したお宅だ。分譲敷地が広い目白文化村では、家を斜めに建設しても、まだかなり余裕のある庭を確保することができた。
 手前に見える①の敷地が、箱根土地の本社ビルClick!と前庭の不動園Click!があった跡地だ。戦時中は、改正道路(山手通り)Click!工事で敷地の東側が大きく削られ、淀橋消防署の分署が設置されていた。この写真が撮られた当時も、新宿消防署の落合出張所があったはずで、戦後の火の見櫓はいまだ建設されていない。箱根土地本社の敷地のすぐ西側、1923年(大正12)に埋め立てられた前谷戸Click!の敷地には、第一文化村の“北側テニスコート”があったが、コートの跡地には真ん中の空き地を残して、すでに2軒の住宅が東西に建てられているのが見える。
 また、箱根土地本社跡の左側(南側)②に目を移すと、濃い緑が繁った宇田川邸Click!の敷地が鳥瞰できる。強引な土地買収に反発して、第一文化村の“中央テニスコート”周辺の土地を最後まで売らずに抵抗し、秋山清Click!がその板ばさみになって文化村で“快適な生活”を送っていたエピソードは、ひとつ前の記事でご紹介Click!済みだ。宇田川邸の敷地は戦災を受けておらず、江戸期の建物(のち部分改築)をはじめ、大正期から昭和初期に建設された邸宅や、移築された「コ」の字型の西洋館(寮建築)などが並んでいる。



 秋山清のヤギClick!がいた中央テニスコートの跡地には、第一文化村では初めてのケースとみられる本格的な集合住宅③の「斉家荘」の建設が進んでいる。その左上に見えている広場状の敷地④が、戦後すぐに建設され、うちの子どもたちも通っていた下落合みどり幼稚園Click!と下落合教会Click!だ。「斉家荘」と下落合みどり幼稚園との間には、現在、十三間通り(新目白通り)が貫通していて、第一文化村から第二文化村へと抜けられるこのあたりの家並みや道路は消滅し現存していない。下落合みどり幼稚園の上に見えているのが、⑤の落合第二中学校と⑥の落合第三小学校だ。さらに、西落合地域から写真の上部へと目を向けると、⑦の井上哲学堂Click!に⑧の野方配水塔Click!がとらえられている。
 さて、第一文化村に視点をもどそう。現在と大きく異なる点は、第一文化村から宇田川邸敷地、そして第二文化村にかけての街並みに、木々の緑が圧倒的に多いことだろう。目白文化村の多くの家並みは、二度にわたる山手空襲Click!で焼け野原になったけれど、樹木は延焼の炎であぶられたにもかかわらず、戦後すぐのころから新芽をふいたことが伝わっている。これらの濃い緑は、現代に撮影された空中写真Click!と見比べてみると、そのほとんどが消滅していることがわかる。
 第一文化村の中央、ひときわ緑が濃いところが前谷戸の弁天社があるあたりだ。その左手には、戦後いち早く再建された神谷邸Click!をはじめ、こちらのサイトではお馴染みの邸Click!が改めて建設されている様子が見えている。この写真が撮られた当時、戦前からのほとんどの住民は、そのまま焼け跡の敷地へ再び邸を建設している。



 だが、安食邸Click!のあとに引っ越してきた文化村秋艸堂Click!の会津八一Click!は、邸が空襲で焼けたあと故郷の新潟へともどり、1954年(昭和29)現在は居住していない。この写真でも、会津邸があった敷地は焼け跡の空き地のままのように見える。また、会津邸の北側、弁天社から三間道路をへだてた南側斜向かいの高島邸Click!跡には、屋敷林が繁る賀陽邸(皇道派Click!で元・陸軍中将の賀陽宮)が、すでに建設されているのがわかる。
 第一文化村の西端には、空襲からも焼け残った家々が、この時期でも10軒以上は建っていた。わたしが以前にお邪魔をした、渡辺邸Click!(渡辺玉花アトリエ)や井門邸Click!をはじめ、大正末から昭和初期に建てられた、戦前の空中写真にとらえられている家々がそのまま見てとれる。ただし、延焼の炎にあおられて傷んだ家々の多くは、この写真が撮影されたあと建て替えが進み、現在は数軒を残すのみとなっている。
 また、第一文化村の西に隣接していた第三と第四の落合府営住宅Click!も、空襲の火災をまぬがれて戦前の姿を残しているが、写真の右端に写る目白通りに面した第二府営住宅は全域が焼け、戦後に建てられた家々やバラックが建ち並びはじめている。



 目白通りの向こう側には、⑨の長崎中学校(現・南長崎スポーツセンター)が見えている。その向こう側、西落合との境界は住宅がとぎれ、すでに戦時中から工事がはじまっていた新目白通りつづきの十三間道路(現・目白通り)が望見できる。なお、西落合は空襲の被害をほとんど受けていないので、戦前の風情を残した街並みが拡がっている。

◆写真上:1954年(昭和29)に撮影された、第一・第二文化村界隈の空中写真。
◆写真中上:上は、同写真へ記事に付随する番号をふったもの。つづいて敗戦直後の1947年(昭和22/中)と1957年(昭和32/下)に撮影された空中写真でみる写角。
◆写真中下:上は、箱根土地本社と不動園の跡で新宿消防署落合出張所の火の見櫓はまだ建設されていない。中は、江戸期から昭和初期までの多彩な建築が残っていた宇田川邸敷地。下は、中央テニスコート跡地に建設中の「斉家荘」と下落合みどり幼稚園界隈。
◆写真下:上は、西落合から井上哲学堂と野方配水塔の遠望。中は、第一文化村の弁天社とその周辺。下は、かろうじて空襲による延焼をまぬがれた第一文化村西端。メインストリート沿いには、現存する井門邸や渡辺邸(渡辺玉花アトリエ)が見える。