関東大震災Click!の直前、郊外の恵比寿(祐天寺とする説もある)に転居して被害をまぬがれた淡谷家は、大正末から昭和初期にかけ、下落合と上落合で暮らしている。青森からやってきた家族は、淡谷のり子と母・みね、そして妹・とし子の3人暮らしだった。この時期、落合地域で暮らしていた淡谷家は、一家の支えとなっていた淡谷のり子のモデルの仕事を優先し、画家たちのアトリエ近くに住まいを移したものだろう。残念ながら下落合と上落合ともに、いまとなっては淡谷宅の住所はわからない。
 淡谷のり子は1924年(大正13)3月、学費が払えないため東洋音楽学校を一時休学し、病気の妹と困窮する家庭を助けるために、宮崎モデル紹介所Click!でモデル名「霧島のぶ子」として美術モデルの仕事をはじめた。太平洋画会研究所の画学生だった、叔父の桂井節雄の紹介だった。モデルの同僚には、上落合に住んでいた原泉Click!がいる。淡谷は上野桜木町の宮崎モデル紹介所で、5年にわたりモデルの仕事をするのだが、たった一度しか「モデル市」へは参加していない。「モデル市」とは、宮崎モデル紹介所へでかけ東京美術学校や画家たちのオーディションを受けることだ。当時、宮崎モデル紹介所を経営していた宮崎幾太郎は、彼女がオーディションを一度しか経験しなかったことについて、「こんなことは創立以来のことだ」とのちに語っている。
 彼女がモデル市に顔を出した初日、アッという間に恒常的な仕事が決まってしまった。午前中は、東京美術学校の朝倉文夫Click!教室の彫刻モデル(のち岡田三郎助Click!教室の絵画モデル)、午後は金持ちの息子である二科の田口省吾Click!の専属モデル、夜は錦町絵画研究所の専属モデルと、1日じゅうめまぐるしく仕事が入り、二度と「モデル市」へ顔を出す必要がなかったのだ。東京美術学校のギャランティーは3時間で5円80銭、錦町絵画研究所は同じく7円20銭、個人の田口省吾は3時間で10円を支払うとの契約だった。1日で20円以上も稼ぐ美術モデルは、一般のサラリーマンよりもはるかに高給とりだったが、妹の治療費などで家族の暮らしはなかなか楽にならなかった。
 淡谷のり子が落合地域に住んでいたのは、上野へ出るにも交通の便がよく、長崎1832番地に乳母とともに暮らしていた田口省吾アトリエ(父親・田口掬汀の中央美術社と同一敷地)の近くであり、また1930年協会Click!を起ち上げたばかりで長崎や下落合を転々とする、前田寛治Click!のモデルをつとめるのにも便利だったからだろう。もちろん、落合地域には画家が大勢暮らしていたので、彼女には当初から「マーケットイン」の読みもあったのかもしれない。
 さて、専属モデルをつとめた田口省吾が、彼女から執拗に離れなくなり様子がおかしくなりはじめたのは、東洋音楽学校の月謝をモデル代の一部として出してやる(もともと親からの生活費なのだが)……といいはじめた、1927年(昭和2)のころからだろうか。当時の様子を、1989年(昭和64)に文藝春秋から出版された吉武輝子『ブルースの女王 淡谷のり子』から引用してみよう。
  ▼
 「坊ちゃん育ちのせいか、サッパリとした性格で、前田寛治にたいしてもライバル意識が希薄であった」/と、木下義謙が評するように、友人の前田寛治に頼まれると、個人モデルののり子をアトリエにさしむけるような人のよすぎるところが田口省吾にはあった。だが、フランスでも艶聞のたえなかった前田寛治とさし向かいにのり子をさせておくのが心配であったのだろう。結婚の意志がポツポツ芽生えはじめたのもこの頃であった。のり子にはモデル代と称して十分すぎるお金を渡してくれていた。相変わらず、ドレスや靴やハンドバッグを次々に買い与え、コンサートやオペラには欠かさず連れて行ってくれた。
  ▲
 破局は、すぐにやってきた。1928年(昭和3)秋のある日、アトリエでポーズをとる淡谷のり子に田口省吾は突然襲いかかり強姦してしまった。この日を境に、田口のアトリエへ彼女が姿を見せることは二度となかった。

 
 翌1929年(昭和4)3月、淡谷のり子は東洋音楽学校を首席で卒業し、モデルの仕事もやめてクラシック歌手、やがてはジャズ・ブルース、そしてシャンソン歌手の道を歩みはじめている。一方、田口省吾は精神的におかしくなってしまったものか、潤沢な生活費で再び個人モデルを雇うと、周辺の友人たちに「霧島のぶ子」(淡谷のり子)だといって紹介して歩いた。田口は1943年(昭和18)に46歳で死去している。
 さて、敗戦後の1949年(昭和24)に山口県宇部市へ歌いにやってきた淡谷のり子は、宿舎に宇部市内でもっとも上等な旅館の離れをあてがわれた。彼女が横になって眠ろうとすると、誰かが縁側からスーッと室内に入ってきた気配がする。そのときの様子を、2008年(平成20)に筑摩書房から出版された『文藝怪談実話』所収の、淡谷のり子「私の幽霊ブルース」(1956年)から引用してみよう。
  ▼
 「泥坊かな」と思って目を据えて見ると、蚊帳の周りを誰かが歩いている。そして人の動く箇所だけ、蚊帳が動いている。泥坊が忍び足で歩くのとはまた違った、いかにも力なく歩く様子だ。私の目に、麻みたいな白い飛白(かすり)に黒い兵児帯を〆めた男の姿が映った。/彼はグルッと周って私の枕許へ坐り、私を見下している。私はその男の顔を見て驚いた。彼はかつて私と結婚の約束までした画家である。/苦学生時代、私はモデルをしたことがあって、そのときの画家の一人に、一方ならぬ御世話になった。勉学の意志が挫けそうになると、彼は精神的、物質的に励ましてくださった。その彼が私に求婚したのだ。あまりに心から求められるので「そうですね」と生返事ながら承諾を与えたので、彼が当てにしたのも無理もない。
  ▲
 ここでは、彼女が「結婚なんて馬鹿くさい真似はごめんだ」と、一方的に婚約を破棄したという経緯で書かれており、強姦の事実は伏せられている。1956年(昭和31)当時は、いまだ関係者が多く生存していたので配慮したものだろう。彼女が吉武輝子の取材に応じて、事実をありのままに語りだすのは、1980年代末になってからのことだ。
 淡谷のり子がアトリエに通うのを拒絶してから、田口省吾は自殺未遂事件を起こしているらしい。先述した「霧島のぶ子」と称するモデルをともなって、フランスへ留学したのはその直後のことだ。つづけて、淡谷のり子の文章を引用してみよう。
 
 
  ▼
 その彼が、今、枕許に坐って私を見つめ、そして、両手で私の首をしめようとする。しかし私には声がでない。彼は手に力を入れてグーッグーッとしめつけてくる。それが蚊帳の外からかどうかは意識にないが、蚊帳がうるさく私の顔をなでまわしていた。私は気が遠くなった。/「のりちゃん! のりちゃん! どうしたの、苦しそうにうなってるわ」/マネージャーの彼女が私をゆり起こした。/「何うなっているの?」/「私、殺されそうなの、こわいわ」/「馬鹿な! あなた夢見てるのよ」/ガタガタふるえ出した私は、どうしても寝つかれなくなってしまった。夜が明ければよい、それだけを願った。
  ▲
 彼女の枕もとには、1冊のサイン帖が置かれていた。昨夜、宿の女将が「サインをお願いします」と預けていったものだ。翌朝、何気なくサイン帖をめくって、淡谷のり子は愕然とした。田口省吾のサインがあったからだ。さっそく、宿の女将に事情を訊いてみると、この離れ座敷は田口省吾のお気に入りで、ときに1ヶ月も滞在して作品の制作をつづけることがあったという。宿にも、彼の作品が何点か残されていた。
 彼が馴染みだった旅館の離れに泊まったせいか、あるいは署名したサイン帖を枕もとに置いていたせいかは不明だが、彼女は自分のまわりをさまよう霊を慰めるために、田口省吾のサインの横へ寄り添うように「淡谷のり子」と書いている。
 その後、田口省吾が手もとで大事にしていた作品を淡谷のり子へわたしてほしいと、友人に遺言して死んだことが判明した。その作品は彼女が着衣でモデルをつとめ、その横に並んで田口の自画像が描かれている画面だった。田口の友人から絵を受けとった彼女は、自宅の座敷にその絵を架けていた。すると、事情を知らない「見える」知人が来訪したとき、「この絵には何かがあります。この絵を掛けていらっしゃると、あなたは自殺したくなりますよ」といわれ、思いあたることだらけだった彼女は、さっそく寺へ納めて供養をしてもらっている。
 淡谷のり子は戦時中、軍歌を唄わせようとする軍部へ徹底的に抵抗し、繰り返される憲兵隊の恫喝と、数えきれないほどの始末書を書かされたのは有名な話だ。軍部からカネをもらうと好きな歌が唄えなくなるため、「無料奉仕」という体裁で前線へ送られた。禁止されていたパーマやナイトドレス、アクセサリーを身にまとい、たっぷりと化粧した姿で日本兵や捕虜の欧米兵士たちを前に、当時は厭戦歌あるいは敵性音楽とみなされていた『愛の讃歌』などを唄った歌手は、淡谷のり子ひとりしかいない。彼女がくると、将兵たちの拍手がひときわ高かった様子が記録されている。ときに、憲兵から軍刀で斬られそうになるのだが、それはまた、機会があれば、別の物語……。



 余談だけれど、先日、樹上からパサッとなにかが落ちてきた。落下したものを撮ったのが上掲の写真で、どうやらケヤキの枝から足をすべらせた(足ないし)アオダイショウClick!の赤ちゃんClick!だ。なんだか、水曜スペシャル・川口隊長の「そのとき! 恐怖の猛毒ヘビが、空から隊員たち目がけて襲いかかってきたのだ!!」というような、田中信夫のナレーションを思い出してしまったのだけれど、ヘビ嫌いの人にとっては淡谷のり子の怪談などよりも、頭上からヘビが降ってくる下落合散歩のほうが、よっぽど怖いかもしれない。

◆写真上:1929年(昭和4)に、東洋音楽学校を卒業したときの淡谷のり子。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に淡谷のり子を描いた田口省吾『帽子を配せる裸婦』。下左は、1989年(昭和64)に出版された吉武輝子『ブルースの女王 淡谷のり子』(文藝春秋)。下右は、1929年(昭和4)に撮影された歌手デビュー当時の淡谷のり子。
◆写真中下:上左は、1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」にみる父親・田口掬汀が創設した中央美術社。田口省吾は長崎1832番地の同じ敷地内へ、大きなアトリエを建ててもらい乳母といっしょに暮らしていた。上右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。下左は、田中省吾が淡谷のり子を夢中で描いていた1927年(昭和2)に発刊された『中央美術』8月号。下右は、同号に掲載された前田寛治「1930年協会展評」に添えられた小島善太郎、佐伯祐三、里見勝蔵、林武の出品作。佐伯祐三は、1926年8月以前から取り組んでいた『下落合風景』Click!を出品しているのがわかる。
◆写真下:前田寛治が淡谷のり子を描いた、1926年(大正15)の『裸婦』(上)と1927年(昭和2)の『裸婦』(中)。下は、樹上から降ってきたアオダイショウの赤ちゃん。「とんでもないところを人間に見られちゃった」と、あわてて隠れようとする姿がおかしい。