下落合の第二文化村Click!にアトリエをかまえていた、宮本恒平Click!の風景画『画兄のアトリエ』を手に入れた。1945年(昭和45)1月に描かれたもので、上高田の丘から西落合や下落合方面を入れて描いたものだ。おそらく、戦争末期に描かれているのでキャンバスが手に入れにくかったのだろう、画面は古い3号サイズの板材に描かれている。ひょっとすると、第二文化村にClick!を建設した際に余った部材を物置にでも保管していて、それに描いているのかもしれない。
 板の裏面には、「呈耳野画伯/“画兄のアトリエ”/昭和二十年一月スケツチ/宮本恒平」と書かれた紙が貼付されている。この記載により、描画ポイントは妙正寺川にかかる北原橋の西側、中野区上高田421番地の急斜面……というか崖地であることが判然としている。宮本恒平は、画面右寄りに描かれている耳野卯三郎アトリエClick!を入れ、さらにその背後(西北側)の丘に上って、アトリエを見下ろしながらスケッチをしている。このアトリエには戦後もしばらくの間、曾宮一念Click!が東京へ来るたびに立ち寄っている。画面左隅には、「K.Miyamoto 2605」とサインが入れられており、描いた直後には西暦ではなく、戦時中らしく大日本帝国の紀元2605年の年号が記入されている。おそらく、裏面に貼られた紙は、戦後になって耳野卯三郎へ本作をプレゼントする際、改めて画題とともに貼付されたものだろう。
 急斜面に建つ耳野アトリエの下、北原橋のたもと近くには、死去した二科の虫明柏太の夫人からアトリエを借りて、1928年(昭和3)ごろより住んでいた甲斐仁代Click!と中出三也Click!のアトリエ(野方町上高田422番地)があったが、1945年(昭和20)現在でもそのまま建っていたかどうかは不明だ。ブタ小屋が近くにあった新バッケ堰Click!の北側、北原橋の南詰めにあたる甲斐・中出アトリエには、甲斐仁代の「半晴半曇な絵」が好きな林芙美子Click!がときどき通ってきている。
 さて、最初に画面を観たとき、わたしは耳野卯三郎アトリエが建つ丘の急斜面から、南を向いて描いていると考えていた。つまり、アトリエの向こうに拡がる雪景色の原っぱは、耕地整理が終わったバッケが原Click!だと想定したのだ。ちなみに、耳野アトリエがあった急斜面の現状は、3~4段のひな壇状に造成されて家々が建てられているが、崖地自体は崩されておらず当時の面影をよく残している。また、前方に見えている丘の連なりは、金剛寺や功運寺Click!などの寺町から新井薬師方面へとつづく丘陵であり、アトリエに接して繁る常緑樹の右手枠外には、光徳院Click!の本堂屋根が見えているのだろうと、当初は想像していた。
 




 ところが、画面を間近で観察したとき、すぐにアトリエの向きと枯れ木の向こう側に描かれた家屋の向きがおかしいことに気がついた。通常、長方形の住宅は切妻を東西に向け、どちらかの長辺が南面するように建てられるのがふつうだ。画面に描かれた家々は、2軒とも斜めになっており、その向きや光線の加減からすると、右手が南側ということになる。つまり、画家は耳野卯三郎アトリエの背後にある丘上へと上り、東南東の方角を向いて描いていることになる。
 当時の地図や空中写真を確認すると、やはり思ったとおりであることが判明した。耳野アトリエは、切妻を東西に向けて建てられているようだ。左端の枯れ木や常緑樹に隠れて見えないが、急斜面の下には北原橋が架かっているはずで、アトリエのすぐ左側に見えている雪原に描かれた道路のような灰色の太い影は、妙正寺川の左岸土手だろう。
 そして、川の向こう側に建っている家のあたりが、西落合2丁目570番地(現・西落合1丁目)界隈ということになる。また、やや遠くに描かれた丘の連なりは、下落合4丁目(現・中井2丁目)から西落合2丁目(現・西落合1丁目)へとつづく丘であり、中央右寄りから右端の丘上には目白商業学校Click!(現・目白学園)の校舎と思われる、細長い屋根が描かれていそうだ。
 宮本恒平は、1945年(昭和20)1月2日(火)の午後か3日(水)に、耳野卯三郎アトリエへ年始の挨拶に訪れたのだろう。1月2日は、午前中から雪が降っており、東京中央気象台の記録によれば6.4mmの降水量を記録している。あるいは、雪が降る2日の年始まわりをあきらめて、翌3日の青空が見えたときに出かけているのかもしれない。





 第二文化村の下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)にあった宮本アトリエから、上高田421番地の耳野卯三郎アトリエへと向かうには、そのまま下落合4丁目に通う尾根沿いの三間道路(西に向かうにつれ道幅は狭まった)を南西に歩き、目白商業と御霊社Click!の間を通って落合分水Click!に架かる小さな橋をわたり北進すると、すぐに丘下へと下る細い坂道があった。当時は、丘下に住宅が密集しておらず、ほとんど原っぱが拡がるエリアだったので、積雪があったとはいえ原っぱを斜めに横断して、北原橋までの最短距離を歩いている可能性が高い。おそらく、当時は見とおしがきいただろうから、耳野アトリエはかなり離れた位置からでも遠望できただろう。
 ただし、当時の景色と現在の風景が大きく異なるのは、遠景を左右へ横切るように描かれた丘陵の連なりだろう。おそらく、現在の風景をスケッチすると、下落合4丁目の丘はもう少し高めの印象で描かれるのではないだろうか。特に、右手(南側)に見える目白学園の丘は大きな樹木が密に繁っているので、画面のような薄い線ではなく、もう少し“右肩上がり”の盛り上がった表現になりそうだ。
 冬ですっかり落葉しているせいか、また現在よりも樹木の背丈がかなり低かったか、あるいは戦時中の燃料不足から、大きな木々は次々と伐採されてしまった可能性もあるけれど、下落合の丘はもう少し高めの印象が強い。でも、宮本恒平が遠景に黒々とした下落合の太い丘陵の線を描き(雪景色なのでよけいに黒々として見えただろう)、画面を上下に2分したくはなかったのだ……といわれれば、それまでなのだが。



 現在、耳野卯三郎アトリエが建っていた位置には、ひな壇状に造成された敷地へ住宅が密に建ち並び、近づくことができない。また、北西側のさらに高い位置にも家々が密集しているため、描画ポイントに立つことはできない。だが、妙正寺川に面した崖地に近い急斜面は、ほとんど昔のままの形状で残されているので、『画兄のアトリエ』が描かれた当時の風情は、なんとか感じとることができる。

◆写真上:戦時中の1945年(昭和20)1月に制作された、宮本恒平『画兄のアトリエ』。
◆写真中上:上左は、1947年(昭和22)撮影の耳野卯三郎アトリエ。上右は、板の裏に貼付された画題シール。下は、『画兄のアトリエ』画面の部分拡大。
◆写真中下:上は、1940年(昭和15)作成の1/10,000地形図にみる描画ポイント(上)と、翌1941年(昭和16)に撮影された斜めフカンの空中写真にみる描画ポイント(中)、そして山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された空中写真にみる描画ポイント(下)。中は、北原橋から眺めた耳野卯三郎アトリエ跡の丘。下は、画面奥に見える赤い屋根の住宅の右手前あたりが耳野卯三郎アトリエが建っていた敷地。
◆写真下:上は、描画ポイントに立てないので丘上から南のバッケが原方向を眺めたところ。中は、丘上からバッケ階段が設置された北側の眺めで4階建てビルの高さぐらいだろうか。下は、第二文化村の宮本恒平アトリエから耳野アトリエまでの年始挨拶ルート。