1962年(昭和37)に実施された、目白駅の大規模リニューアルClick!と翌年の跨線橋設置で、目白駅の「美化同好会」の活動Click!と連動してスタートした跨線橋での絵画展示は、1964年(昭和39)4月29日に西原比呂志が制作した油彩画『浜』(8号)が盗まれるにおよんで中止され、その後、付近の小学生が描いた児童画の展示に切り替えられた。駅の壁面を利用した児童画展示は、すぐに各駅へ広まったものか、現在でも駅の構内や地下道などでその名残りを目にすることがある。
 日本橋出身で高田2丁目に住んだ画家でありマンガ家に、行動美術家協会の永井保がいる。永井自身も、目白駅の展示スペースに作品を展示したのかもしれないが、他の画家たちによる重厚な油絵に対して、軽妙な水彩画か彩色線画、あるいはマンガだったかもしれない。空襲を受けて焼ける前の、(城)下町Click!を想い起こして描いた精密な線画は有名で、いまでもファンが多いのか画廊などでときどき展覧会を見かける。
 1932年(昭和7)に発足した「漫画集団」は、戦後、三角寛Click!の音頭とりで再出発をしている。1955年 (昭和30)4月、池袋東口の人卋坐に三角寛をはじめ、横山隆一、永井龍男、玉川一郎、近藤日出造、徳川夢声、池島信平などを集めて発足会が開かれた。再出発の催しが池袋で行われたのは、このころ周辺にマンガ家たちが多く住んでおり、千早町には南義郎、雑司ヶ谷には加藤芳郎、高田2丁目には永井保がいたからであり、発起人の三角寛の家Click!も雑司ヶ谷1丁目の金山稲荷Click!下にあった。
 ちょうど同じころ、目白駅前の線路沿いには闇市ともマーケットともつかない飲み屋街が形成されおり、1960年(昭和35)に撤去されるまで営業をつづけていた。そんな酔客をめあてにしたのか、あるいは目白駅周辺の家を訪問する乗降客をターゲットにしたものか、俥(じんりき)が現役で活躍していた。100円/kmほどの料金で、利用客は決して多くはなかったようだが、さすがに下落合や高田、目白台などの急坂にある家には着けてはくれなかったらしい。
 1986年(昭和61)発行の「広報としま」に連載された「わたしの豊島紀行<22>」(7月号)から、永井保「俥で一キロ100円」より引用してみよう。
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 (目白)駅前に飲み屋街があった頃、出札口脇に人力車が一台常駐していたことがある。そして車夫は客まちの間をみては箒をもち、駅前を掃除していた。名前は島さんといった。歳は六十ちかかったろうか。昼間はともかく夜の客も多かった。/「あまりすごすと、仕事にこたえますんで……」と云いながらも、私たちと一緒に駅前飲み屋で一刻楽しんでから、酔客を送るのも島さんの仕事であった。また島さんの行動範囲は、主に目白通りを(日本)女子大から落合方面を往復することで、およそ一キロ百円位であったろうか。それに急な坂道の客は「……このトシじゃ、つとまりませんや」と断られた。(カッコ内引用者註)
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 確かに、いくら身体が鍛えられているとはいえ、60歳前後の人物が客を乗せ、傾斜角30度ほどもある急坂を往来するのは、さすがに無理だったろう。戦前とは異なり、坂下にはもはや「押しましょう」の“押し屋”もいなかった時代だ。戦後は幹線道路がアスファルト舗装されており、泥道に車輪をとられる心配はそれほどなかったのだろうが、そのぶんクルマの通行が頻繁で、別の危険があったにちがいない。
 俥(じんりき)の運行範囲は、「(日本)女子大から落合方面」と書かれているので、目白駅を起点にして東へ約1.4~1.5kmほど(つまり高田2丁目あたり)、下落合側ではおよそ目白文化村Click!(第一文化村)ぐらいまでの距離だ。俥のスピードや交通事情にもよるが、およそ10分前後(往復20分)ぐらいの乗車時間になるだろうか。当時のタクシーが、初乗り500mあたり50~60円ほどだから、タクシーとほぼ同じ料金だったのがわかる。ただし俥は、当時はまだ多かったクルマの入れない未舗装の細道や路地にも自在に侵入でき、家の玄関先まで送りとどけてくれるので便利だったにちがいない。
 昭和初期のように、俥屋の手配組織や電話の引かれた詰め所などない時代になっていたので、目白駅前で利用客を待つ「島さん」に、自宅まで迎えにきてもらって目白駅まで乗せてもらう……というようなことは、すでにできなかったのかもしれない。山手線の降り際、駅舎の脇にいる「島さん」をつかまえて、明日の何時に迎えにきてくれというような予約はできたかもしれないが……。今日の観光地に多い俥が、俥夫のもつスマート端末やGPSデバイスでスピーディに手配や送迎の連絡ができることを考えると、俥の存在自体が前時代的な姿とはいえ隔世の感がある。



 中村彝Click!は病気のために、佐伯祐三Click!は足の悪い米子夫人Click!のために、アトリエから目白駅まで、あるいは目的地までの俥をときどき手配していたが、電話をかけて目白駅にある俥夫の詰め所へ連絡していたものだろうか。それとも、目白通りまで出て目白駅へのもどり俥をつかまえ(中村彝の場合は友人の役割りだったろう)、アトリエまで誘導してきてから外出していたものだろうか。大正期から昭和初期にかけ、目白駅前に参集していた俥(じんりき)による交通・運行の様子が、いまいち明らかになっていない。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)には、町内で営業用の人力車はゼロ、自家用の人力車が2台と記録されている。自家用人力車は、おそらくおカネ持ちか華族の自邸に古くから備えつけられていたものだろう。また、翌1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)には、1877年(明治10)に初めて高田町(現・目白地域)へ人力車が2台導入されて以来、「後に多数となるも、今はまた減少した」と報告されている。大正期から、乗合自動車Click!の路線が目白通りへ開設されるにともない、また、昭和期に入ると自家用車の普及によって、人力車のマーケットが徐々に縮小していく様子が伝えられている。



 「島さん」が、いつまで目白駅前から客を乗せていたのかはわからない。1955年(昭和30)に60歳近かったということは、1960年(昭和35)までつづけられたかどうか。当時は、コップ酒やハイボール1杯が50円、ビールの大瓶が180円の時代だった。つまり、乗客をひとり送りとどければ毎日1杯のコップ酒かハイボールが楽しめ、残りの俥賃は腹掛けに入れて家族の生活費に持ち帰ることができたのだろう。

◆写真上:俥力の「島さん」が、目白駅東側への送迎指標にしていた日本女子大学。
◆写真中上:上は、永井保が描く戦後の「漫画集団」再発足会が開かれた池袋東口の「人卋坐」。中は、昭和初期に撮影された中野駅前の客を待つ俥列。(中野写真資料館より) 下左は、高田2丁目に住んでいた画家でマンガ家の永井保。下右は、1986年(昭和61)の「広報としま」2月号からスタートした永井保の「わたしの豊島紀行」題字。
◆写真中下:上は、1922年(大正11)に橋上駅化された3代目・目白駅Click!で、停車するのはダット乗合自動車Click!。中は、1929年(昭和4)撮影の4代目・目白駅構内と改札。下は、浅草界隈で活躍する観光用の俥(じんりき)。
◆写真下:上は、永井保の「長崎アトリエ村」。中は、同「雑司ヶ谷異人館」。下は、1963年の空中写真にみる雑司ヶ谷異人館で、現在は南池袋第二公園になっている。余談だが、雑司ヶ谷異人館から東へ50mにあるうなぎ「江戸一」は、看板にある江戸(城)下町風の香ばしいうなぎとは裏腹に典型的な乃手風味のうなぎだが、これはこれで美味い。