下落合4丁目1909番地(現・中落合1丁目)の中井駅前で、医院を開業していた辻山義光Click!については、少し前に「もぐら横丁」Click!に住んでいた尾崎一雄Click!らとともにご紹介している。きょうは辻山義光の妻であり、昭和初期に長谷川時雨の「女人藝術」Click!や岡本綺堂Click!の「舞台」に、次々と作品を発表していた劇作家の辻山春子にスポットを当てて書いてみたい。
 辻山春子は、1903年(明治36)に福岡県で生まれ育ち、福岡女子師範学校を卒業したあと2年ほど地元で教師をしている。その後、身体を壊して教師を退職すると、1926年(大正15)に辻山義光と結婚した。おそらく、彼女の治療中にふたりは出逢っているのだろう。その間、当時の若い女性なら誰もが試みていたように、短歌や小説を次々と書いては文芸雑誌に投書を繰り返していたらしいが、結婚をする前後から戯曲を書くようになったようだ。これには、当時の演劇ブームも多分に影響しているのだろう。
 このころから「女人藝術」へ投書をはじめており、都合5編ほどの作品が同誌に掲載されている。「女人藝術」の講演会が福岡で行われた際、辻山夫妻の自宅には林芙美子Click!が宿泊しているので、このころから辻山春子と林は親しくなったらしい。そして、子どもが産まれたあと、1929年(昭和4)に東京へとやってきている。このあたりの事情を、1975年(昭和50)にテアトロから出版された『辻山春子戯曲集―ファーブルハウスの乙女・外八篇―』所収の、若城希伊子「人とその作品」から引用してみよう。
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 昭和四年、子供連れで私達夫婦は笈を負って上京したんです。落合に住んで、主人は朝勤め、午後は慶応(ママ:慶應)の研究室、夜は家で開業してましてね、子供を育てながらのえらい貧乏生活でしたけれど、その頃が一番楽しかったですよ。林さんは近いし、芹沢光治良さんのところも近かったし、尾崎一雄さんがやはりつつましい暮し方をしてらして、子供さんが病気だとよく家へみえましたよ。その少し後で、華やかであった吉屋(信子)さんのところへ寄せていただいたんだと思います。あたしなんか田舎者で皆さんのお話を目を丸くして聞いているだけでした」/後の岡田八千代との付き合いもまた、この頃から始まっていた。二本榎の長谷川時雨亭で時々集まりがあった由。(カッコ内引用者註)
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 中井駅前の辻山医院を中心に考えると、昭和初期の五ノ坂下にあった林芙美子・手塚緑敏邸Click!は下落合2133番地、佐伯祐三Click!の巴里風景が壁に架かる芹沢光治良邸Click!は上落合206番地、「もぐら横丁」の尾崎一雄は下落合2069番地、甲斐仁代Click!の静物画が壁に架かるアビラ村(芸術村)Click!の吉屋信子邸Click!は下落合2108番地と、半径300~400m以内にすべての邸が入ってしまう。辻山春子の話に登場する人物以外にも、彼女と親しくしていた文学関係者の多くも、この円内のどこかに収まるだろう。
 
 東京にきてからの辻山春子は、次々と戯曲作品を発表していく。岡本綺堂が監修する「舞台」1930年(昭和5)11月号には『或る囚人』を、「舞台」の監修が岡本から額田六福に変わったあとも『アパート小曲』や『残る者』などを執筆している。また、長谷川時雨の「女人藝術」には『にしき木』をはじめ『くに子の死』、『最後の睡眠剤』、『ニル・デスペランドム』、『俊枝のグルッペ』などを、菅原卓が編集する「劇作」には『花火』や『秋みたび』、『ある脳病院素描』を発表した。
 だが、これら戦前の作品は、辻山春子によれば「その時は一所懸命書いたはずなのに今読み直すと肩をはったような作品ばかりでどうにも」作品集へは収録できないとし、唯一の例外として太平洋戦争の直前に書かれた『ある脳病院素描』1作を除いて、すべての作品が廃棄されてしまった。したがって、テアトロの『辻山春子戯曲集』に収録されているのは戦後の作品がほとんどで、わたしとしては非常に残念なのだ。
 作家が歳をとってから、若いころに書いた作品を読み直して、その“若書き”で力みすぎた表現が恥ずかしくなるのは当然のことであり、若いころの作品まで含めて網羅してこそ、作家が歩んだ表現の全貌や思想の道筋が初めて見えてくると思うのだが、同戯曲集は「自選」を前提にしているようで、いちばん感受性が鋭く豊かだった若いころの作品が、ゴッソリ丸ごと抜け落ちているのが惜しい。『辻山春子戯曲集』(1975年)には『ある脳病院素描』を除き、戦後の“プロ”としてまとまり、そつなく完成してしまった表現作品ばかりが掲載されていることになる。また、戦前のほとんどの作品は下落合で書かれているので、そこに登場する人物たちは彼女の周囲にいた人々を象徴化させたものだったろうし、そこで描かれる風景や街角は、もちろん近所だった可能性が高いのだ。
 『辻山春子戯曲集』を読むと、日常生活のシーンをプレパラート化したような、やや緊張感をともなうホームドラマの構成がうまいと思う。ストーリーが突然断ち切られ、戦前の舞台なら観客が“消化不良”を起こしそうな、予定不調和のまま終わる作品や、逆に小津安二郎Click!のシナリオを読んでいるのではないかと錯覚してしまうほど、戦争が終わり平和を取りもどした家庭の日常を、切々と描ききる作品は読んでいても楽しい。『シャーレの中の女』や『ファーブルハウスの乙女』、『哀しきロンド』などは舞台よりも、映像のほうがクッキリと描きやすいシナリオのように思える。

 
 だが、戯曲集の後半に収められた、平安貴族たちを主人公とする“王朝もの”と呼ばれている作品群4編は、まったくいただけない。はっきりいって、ぜんぜん面白くないのだ。“人間”を描く文学作品であれば、別に時代はいつでも場所さえ日本でなくてもいいじゃないか?……というのは理屈だが、辻山春子は現実の生活をベースに、その上へ物語を編み上げていくと登場人物が活き活きと動きだし、その呼吸する空間が俄然リアリティを持ちはじめる劇作家だと思う。
 そもそも、平安貴族が江戸東京方言Click!らしき言語(「標準語」Click!だろうか?)をしゃべるのも奇々怪々だし(戯曲にとって、舞台上で役者から発せられる言語は最重要な課題だろう)、舞台や映像で京の公家を演じる機会の多かった俳優の梅津栄Click!が、関東弁をベラベラしゃべる貴族の非実存感から追究し、研究を重ねたしゃべり言葉のリアリティにさえ遠く及ばない。だからというべきか、彼女によって棄てられてしまった戦前の下落合時代の市井作品には、少なからず佳作が混じっていたのではないかと思うのだ。
★梅津栄が今年(2016年)8月に亡くなっていたのを、KIXさんClick!からの情報で知った。抜群のユーモラスな表現で、好きな俳優だっただけにご冥福をお祈りしたい。
 辻山夫妻はその後、おそらく戦争をはさんでだろう、下落合から聖蹟桜ヶ丘へ引っ越しているようだ。若城希伊子の文章から、再び辻山春子の回想を引用してみよう。
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 (前略)聖蹟桜ヶ丘は、百草園のある武蔵野の風情豊かなところである。この二十年来、何度かお宅を訪れていつも心からの暖かいおもてなしをいただいた。忘れられないのは、岡田(八千代)先生と御一緒にお隣りの駅の近くの川魚料理の料亭でごちそうになったこと。鮎の塩焼の味が今も遺っている。百草園を一緒に散歩したこともあった。(中略) この間、逝くなられた吉屋信子先生のお話をしていたら、「昔、下落合に住んでいた頃、真杉静枝さんや大田洋子さんや林芙美子さんと一緒によく吉屋さんのお宅をお訪ねしたものでしたよ」といわれた。吉屋先生が下落合にお住まいだったのは昭和七、八年頃だから、その頃すでに辻山さんは『女人芸術』の一員として華々しい存在であったに違いない。(カッコ内引用者註)
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 吉屋信子は、大正末から1935年(昭和10)まで門馬千代Click!とともに下落合に住んでいるので、辻山春子よりも4年ほど下落合生活が長いことになる。大田洋子は、1931~1936年(昭和6~8)ごろには上落合545番地におり、下落合1731番地に住む武者小路実篤Click!の愛人だった真杉静枝Click!もまた、武者小路が散歩の途中に寄れる落合界隈に住んでいただろう。彼らも同様に、辻山医院から半径400mの円内にいた。


 テアトロから刊行された『辻山春子戯曲集』の題字は、芹沢光治良が書いている。同書に収録された『ファーブルハウスの乙女』は、芹沢の紹介で朝日新聞社の「婦人朝日」に、戦後初めて掲載された彼女の作品だ。吉屋信子Click!と同様に、戦時中は筆を折っていた辻山春子だが、敗戦とともに旺盛な創作活動をリスタートさせている。

◆写真上:1933年(昭和8)の正月に、中井駅近くの下落合にあった写真館で撮影された記念写真。左から右へ大田洋子、辻山春子、林芙美子。中井駅近くの写真館とは、のちに喫茶店「ワゴン」Click!の跡地に支店を出した田中写真館Click!だろうか。
◆写真中上:左は、岡本綺堂が(のち額田六福が)監修していた戯曲誌「舞台」1931年(昭和6)11月号。右は、菅原卓が編集していた「劇作」1934年(昭和9)6月号。
◆写真中下:上は、戦後の岡田八千代が主催した劇作家の集まり「アカンサスの会」の記念写真。1961年(昭和36)ごろの撮影で、前列右端が辻山春子で左隣りが岡田八千代。下左は、1975年(昭和50)にテアトロから出版された『辻山春子戯曲集―ファーブルハウスの乙女・外八篇―』。下右は、1975年(昭和50)ごろに撮影された辻山春子。
◆写真下:上は、中井駅前の辻山医院跡(正面)。下は、「もぐら横丁」に残る井戸。