最近、なにかの建物が竣工すると行われる落成記念式典は、昔に比べてずいぶん静かな催しになったと思う。式典自体も地味になったが、落成記念の行事もむやみやたらと騒がず、おとなしく「上品」なものに変わっている。たとえば、ピアノ演奏や合唱、弦楽四重奏、ハープ/フルート演奏、…etc.、まかりまちがっても歌って踊ってドンチャン騒ぎは、めったに見かけなくなった。
 昔に比べ、たかが新しい建物ができたからというだけで、お祭り騒ぎをすることが「恥ずかし」くて「カッコ悪い」という感覚に変化したからだろうか。確かに、新しい建物ができるたびに大騒ぎをしていたら、東京では毎日どこかでお祭りなみのドンチャン騒ぎが繰り広げられることになる。
 わたしが子どものころ、ちょっとした公共施設(公民館や公園など)ができるとパレードが繰り出し、広報車がまわり、花火(昼間に打ち上げる音だけ花火)が上がり、なぜか意味もなく多数の風船やハトが放たれたりしたのを憶えている。これらのハトは野性化し、いまでもあちこちで糞害が絶えないと憤慨される方も多い。
 これが商業施設(たとえば新築開店のデパートとか)だったりすると、とんでもない騒ぎが数日にわたって繰り広げられ、上空からセスナ機がキャッチフレーズと音楽を大音量で流しながら、ビラを撒いていったこともあった。(現在は禁止) 商業施設なら、派手に騒いで街での認知度を高め、購買意欲をそそるために雰囲気を盛り上げるのは当然だが、昔は公共施設の完成でもお祭り騒ぎがふつうだった。
 そんな昔の雰囲気を伝える記事に、1965年(昭和40)12月20日発行の「落合新聞」Click!で出あった。落合第一小学校Click!で行われた、体育館落成のニュースだ。
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 (11月)二十一日は体育館落成を記念する賑やかな落一小学校の同窓会。明治・大正・昭和・現代っ子、新旧締めて四〇〇名が集まった。校庭には焼鳥屋を開店、そのうしろに喫茶店、ホットドックスナック。体育館では同窓会々長卒業生小野田増太郎氏を始めとする恒例の式次第。お笑いの蝶花楼馬楽は本校ゆかりの芸人で、リーガル千太は元下落合二丁目に住み、三人の子供が世話になった。
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 多少の死語があるので、わたしの子ども世代以下の若い人たちのために解説すると、「現代っ子」というのは「いまの若い子たち」ぐらいの意味で、「スナック」は飲み屋ではなく「軽食」のことだ。なぜ小学校体育館の落成記念行事に、お笑い芸人が舞台へ登場するの?……などと深く考えてはいけない。まあ、おめでたいんだからいーんじゃない(↑)……ぐらいの気持ちでいないと、この先、わけがわからなくて辛いことになる。ちなみに、わたしは6代目・蝶花楼馬楽もリーガル千太も、残念ながら一度も見たことがない。
 

 体育館でのお笑い芸が終了すると、次々と音楽バンドが舞台へ登場してくる。新旧の卒業生たちは、せいぜいハワイアンバンドぐらいまではいっしょに聴いていたようだが、演奏の後半にロックバンドが登場するにおよび、旧卒業生たちはあわてて体育館をあとにしたらしい。つづけて、記事から引用してみよう。
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 珍芸がおわり、KOバンド、ハワイアンが済み、ジャックファイブの皆さんのエレキ演奏が始まる頃は、明治大正っ子は木造旧校舎二階特設の酒会へ。現代っ子はカブリツキに陣取って、股を叩いたり、口笛を流したり、女子卒業生は体をケイレンさせて黄色い声を出したり、遂には飛び出してゴリラ踊りをしたり、若いエネルギーを発散。やがて大向こうから官能の刺戟に耐えかねたアンコール、日が暮れて暗くなるまで電気ギターが鳴り響いた。来年もまたやってくれと大好評。/二階の酒宴会場では明治っ子が元気よく、かっぽれ、どじょう掬い。大正っ子は傍らでちびりちびりやっていたが、そのうち、どこやらへ連立って沈没した。
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 竹田助雄Click!の文面だけ読むと、もはや修羅場(酒裸場)の様相を呈している。「KOバンド」は、慶應義塾大学の学生が結成した卒業生バンドだろうか? 「明治大正っ子」たちが席を立たず、おとなしく聴いていたところをみるとロックバンドではなさそうだ。「ジャックファイブ」がロックを演奏しはじめると、「股を叩」くというシチュエーションは、わたしにも理解不能だ。ましてや、女の子が痙攣しながら叫んだり、飛びだして「ゴリラ踊り」をするにいたっては、どのような状況だったのだろう?
 このころ日本で流行っていたロックミュージックというと、ベンチャーズやビーチボーイズといった今日からみればBGMに使われそうな曲が主流なのだろうが、「ゴリラ踊り」とは60年代に流行ったモンキーダンス、またはカリフォルニアで生まれたばかりのゴーゴーダンスのことだろうか? でも、8ビートのリズムに乗って、「股を叩いたり」する“ノリ”も「ゴリラ踊り」も知らない。「股を叩い」て(痛いだろうに)、なにをしていたものか想像すらつかない。(ひょっとして「膝」を叩くの誤植だろうか?)


 
 この体育館落成の記念コンサート記事につづき、体育館へ暗幕などの記念品が寄贈されている。つづけて、同号の落合新聞から引用してみよう。
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 視聴覚教育を健全にするためと新体育館をいっそう美しくするため(中略)、左の目録を小野田会長から岩本祝校長Click!を通じ、落合第一小学校へ贈った。
 暗幕十五教室分(十万円)
 額、佃公彦「ほのぼの君」
 壁画 永田竹丸画「ピックル君」
 同 永田松丸画「馬」
 右の中、額、壁画は佃、永田三氏からの好意による寄贈。
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 落合新聞には、永田竹丸の壁画が「ピックル君」と書かれているが、「ビックルくん」の誤りだろう。この時期、永田竹丸はトキワ荘Click!が近くにあるため、また同荘とは関係ないが佃公彦も下落合に住んでいたものだろうか。
 さて、体育館のコンサートから流れた「大正っ子」たちの動向がとても興味深い。「明治っ子」の武骨で古臭いお座敷芸についていけず、かといって戦後のロックミュージックも御免こうむりたい心境がうかがわれるからだ。大正末に生まれた親父も、そのような気配を濃厚に漂わせていたけれど、明治と昭和の狭間に生まれた「大正っ子」は、デモクラシーが開花したハイカラで華やかで、ロマンチックな時代(とその残り香が漂う昭和初期)に幼少時代をすごしている方が多いので、明治のカビが生えたような時代遅れの文化にも、また昭和の愚劣で「亡国」的な軍国主義にも馴染めない。

 
 ましてや、敗戦ののち米国から大量に流入した、粗野で落ち着かない8ビートのテケテケテケテケ電気音楽など(彼らはそう感じていただろう)、イヌにでも喰われてしまえと思っていたにちがいない。そう、軍部にタテ突きつづけた淡谷のり子Click!あたりを舞台へ引っぱってくれば、「大正っ子」は昔ながらのロマンチックでしっとりとした歌曲やブルース、ジャズ、シャンソンに惹かれ、嬉々として体育館へ押しかけたのかもしれない。

◆写真上:1965年(昭和40)11月に竣工した、落合第一小学校の体育館。
◆写真中上:上は、漫才のリーガル千太(左)と落語家の6代目・蝶花楼馬楽(右)。下は、1927年(昭和2)に建設され戦災からも焼け残った1960年代撮影の旧校舎。
◆写真中下:上はザ・ベンチャーズと、中はザ・ビーチ・ボーイズ。下は、1963年(昭和38)に撮影された空中写真に見る解体寸前の落一小学校の旧・体育館(左)と、1975年(昭和50)撮影の空中写真にみる建設から10年たった新・体育館(右)。
◆写真下:上は、これが「ゴリラ踊り」の正体だろうか星飛雄馬が踊るゴーゴー。下は、佃公彦『ほのぼの君』(左)と、永田竹丸『ロボット少年アップルくん』(右)。