小林多喜二Click!は、少し間をおいてうしろを歩く伊藤ふじ子Click!を笑わせようと、高田馬場駅の階段でわざとボケてみせている。1931年(昭和6)ごろのエピソードと思われるが、小林多喜二はおかしなことをして人を笑わせるのが好きだった。階段を上っているとき、2段上に下駄の歯が落ちていたのを多喜二がひろい、彼女に見せたあと自分の下駄の歯が取れたのではないかと、マジメな顔をしながらさかんに合わせようとしている。
 森熊猛と再婚後、1981年(昭和56)に死去した森熊ふじ子(伊藤ふじ子)の遺品から、小林多喜二のことをつづった未完の「遺稿」が発見されている。それを初めて収録したのは、1983年(昭和58)に出版された澤地久枝『続・昭和史のおんな』(文藝春秋)だった。小林多喜二の妻だった女性からの、初めての直接的な思い出証言だ。以下、同書から孫引きで多喜二の素顔をかいま見てみよう。
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 人に言うべきことでない私と彼との一年間のことどもを又何のために書き残す心算になったのか、まして彼は神様的な存在で、この神様になってにやにやしている彼を、一寸からかってやりたい様ないたずら気と、彼がそれほど悲壮で人間味を知らずに神様になったと思い込んでいられる方に、彼の人間味のあふれる一面と、ユーモアに富んだ善人の彼を紹介し、彼にかかわって案外楽しい日も有ったことなど書きとめて、安心してもらいたかったのかも知れません。/元来彼はユーモリストと申しましょうか、彼の生い立ちとは正反対に、彼と一緒に居るとだれでも楽しくなるところが有りました。
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 このあたりの証言は、上落合の村山知義Click!と村山籌子Click!の息子である村山亜土Click!の、「ケケケ」と妙な笑い声を立てながら彼を捕まえようと追いかける、多喜二の姿(村山亜土『母と歩く時』)と少なからずダブってくる。
 さて、伊藤ふじ子が住んでいた下落合の家は、どこにあったのだろうか? 彼女の下落合における軌跡を、引きつづき追いかけてはいるのだけれど、残念ながら住所は相変わらず判明していない。それでなくとも、特高Click!に目をつけられていた彼女は、下落合では目立たぬように暮らしていたのだろう。彼女は画家になりたかったので、多喜二が築地署の特高に虐殺されたあとも、1932年(昭和7)から翌年にかけ従来と変わらずにプロレタリア美術研究所Click!へ通っている。
 ただし、彼女はこの時期、黒っぽいワンピースばかりを着ながら同美術研究所へ通っていた。小林多喜二と伊藤ふじ子の関係をよく知っていた秋好一雄は、夫が殺されたので大っぴらに喪服は着られないものの、喪服がわりの黒っぽいコスチュームだったのだろうと回想している。伊藤ふじ子は、「あんたが(小林多喜二の)女房だなどと言ったら、どういうことになると思うの」という、特高の残虐さを十二分に認識していた原泉Click!の忠告を守り、ひたすら多喜二との結婚を世間には隠しつづけた。


 伊藤ふじ子は、1928年(昭和3)に画家になるため山梨から東京へやってくると、さっそく造形美術研究所Click!へ通いはじめた、同研究所の最初期からの研究生だ。1929年(昭和4)に長崎町大和田1983番地へ同研究所が移転すると、そのまま彼女は目白駅を利用して通ってきている。1930年(昭和5)6月に造形美術研究所がプロレタリア美術研究所Click!へと変わり、さらに1932年(昭和7)12月に東京プロレタリア美術学校Click!へ改称されてから憲兵隊に破壊されるまで、彼女は一貫して研究生だったことになる。
 また、伊藤ふじ子は絵画を習いに通いつつ、夫の死後に手に職をつけようと下落合で洋裁も習いはじめた。そして、彼女が通っていたクララ洋裁学院が、下落合1丁目437番地(現・下落合3丁目)にあったことがようやく判明した。大正期には、目白中学校Click!が開校していた敷地の中だ。
 わたしは、「クララ洋裁学院」Click!という看板を1970年代末の学生時代、確かに目白通りで目にしている。目白駅から歩くと、ほどなく目白福音教会Click!の手前左手の路地口にその看板は建っていたと記憶している。そのおぼろげな記憶をたどりながら、各年代の事情明細図に当たっていたところ、戦後1963年(昭和38)作成の「下落合住宅明細図」でついに見つけることができた。時代をさかのぼらせ、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、すでにクララ社の社主・小池四郎の名前が採取されている。クララ洋裁学院は、なんと2000年(平成12)まで存続していたらしい。
 クララ洋裁学院は、小池四郎の妻・小池元子により夫の出版社・クララ社が1932年(昭和7)以降に出版事業を停止したあと、家計を助けるためにスタートした学校だった。小池四郎のクララ社について、1983年(昭和58)に出版された『豊島区史』(豊島区)から引用してみよう。ちなみに、クララ社は高田町雑司ヶ谷1117番地(現・西池袋2丁目)の小池邸に設立されているが、昭和に入ると小池夫妻は下落合へ転居してきている。
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 大正一三(一九二四)年、高田町大字雑司が谷字池谷戸浅井原一一一七(現在の西池袋二丁目二五番地)に、社会民衆党系出版社クララ社は小池四郎によって創設された。/小池は明治二五(一八九二)年東京に生まれ、東大<ママ:東京帝大>を卒業し、神戸鈴木商店の帝国炭業神の浦鉱業所に入所した。同所長を経て大正一一(一九二二)年同社木屋瀬鉱業所長に昇進したが、社会運動への思いを断ち切ることができず運動に身を投ずる決意で一三年退社した。その後帰京して始めたのがクララ社である。小池の思想をみるに、大学卒業後急速にマルクス主義に接近し、一時期は「公式通りのマルキシスト」(『無産運動総闘士伝』野口義明著、社会思想研究所、一九三一年)であったが、次第に社会民主主義への傾斜を強めていった。クララ社の運転資金はこうした時期に小池みずからが、準備したものであった。(<>内引用者註)
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 クララ社の周囲には、社会民主主義者を中心に吉野作造Click!をはじめ安部磯雄Click!、片山哲、白柳秀潤、赤松克麿、宮崎龍介Click!、亀井貫一郎、鈴木文治、馬場恒吾などが集まって、盛んに執筆・出版を行っている。



 伊藤ふじ子の住まい(下宿)は、おそらくクララ洋裁学院の近くではなかったかと想定している。そして、彼女はそこから同洋裁学院とプロレタリア美術研究所の双方へ通っていたと思われるのだ。彼女は、1933年(昭和8)11月30日にクララ洋裁学院を卒業すると、帝大セツルメントへ洋裁の講師として勤めはじめている。おそらく、小池四郎から帝大の吉野作造が設立した同施設への紹介だったのだろう。
 クララ洋裁学院の卒業年月日が判明しているのは、伊藤ふじ子の遺品の中に「右者本学院婦人子供服洋裁速成科ヲ卒業セシコトヲ証ス」という卒業証書が、たいせつに保存されていたからだ。元来、手先がとても器用だった彼女は、きわめて短期間で洋裁のコツを習得してしまったのだろう。森熊猛と再婚したあと、彼女の洋裁の腕は子どもたちの着るものも含め、生涯にわたり存分に発揮されることになる。
 小林多喜二との思い出をつづる発見された遺稿は、最後の「彼は」……という書き出しを消したまま止まっている。その直前の文章は、高田馬場駅でボケてみせるひょうきんな多喜二の姿だった。改めて、「遺稿」からそのまま引用してみよう。
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 その時も面白いことが有りました。彼と高田の馬場の駅の階段を上っていました。すると二段上に下駄の歯が落ちていました。彼はそれをひろって自分の下駄に合わせてみるのです。私は腹をかかえて笑いました。だって階段の二段上に有った歯が下にいる彼のもので有るはずがないではありませんか。/彼は……
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 伊藤ふじ子は、再婚した夫の森熊猛にさえ小林多喜二とのことを詳しく語ってはいない。それは、弾圧の嵐が吹きすさぶ中でふたりが出逢って結婚したとき、言わず語らず生涯の約束事のようにもなっていたのだろう。それが、ふたりの恋愛から結婚への経緯を知る友人知人たち(と彼らによる証言)を知らない、第三者による「ハウスキーパー説」(平野謙など)となって、1960年代以降に広まっていったのだろう。平野謙が「謝罪」(川西政明)したあとも、いまだこの“説”をもとに書かれている文章を見かける。
 ときどき訪問する、伊藤ふじ子の母親と彼女との会話が偶然耳に入り、森熊猛は彼女が多喜二の死後、彼の子どもを妊娠していたらしいことを知ることになる。だが、森熊自身はそれ以上深く知ろうとはしなかった。
 

 もし、伊藤ふじ子があと数年生きて「遺稿」が完成していたら、これまで不明だった小林多喜二の日常生活や「地下生活」が、ずいぶん判明していたのではないかと思うと残念だ。「彼は」の次に、いったい彼女はなにを書きかけていたのだろうか? そして、プロレタリア文学の“神様”のように祀りあげられてしまった彼だが、もっとも近しい恋人であり妻が見た人間・小林多喜二の姿が、鮮やかに浮かびあがっていただろう。

◆写真上:「クララ洋裁学院」が建っていた、下落合1丁目437番地あたりの現状。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる小池四郎・元子邸(クララ洋裁学院)。下は、1963年(昭和38)作成の「住宅明細図」にみる同学院。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみるクララ洋裁学院だが、建物が見えにくいので建設の途上だろうか? 中は、1944年(昭和19)に米軍のB29偵察機が撮影したクララ洋裁学院。下は、学生時代に看板(左手)を見かけた学院の入り口。目白通りをはさんで向かいは、徳川邸(徳川黎明会)Click!の正門へと抜ける道筋。
◆写真下:上は、小林多喜二(左)と伊藤ふじ子(右)。下は、再婚後の森熊猛とふじ子。