先日、笠原吉太郎Click!の三女・昌代様の長女である山中典子様Click!より、親戚の家で新たな画面が見つかったというお知らせを受けた。この11月に、山中様が東京にみえられた折に、さっそく画面を拝見した。風景画だということで、わたしは「下落合風景」を期待したのだが、残念ながら下落合を描いたものではなかった。
 もっとも、「下落合風景」じゃないことに落胆するのはわたしぐらいのもので、1930年協会にも出品し東京朝日新聞社の展覧会場で何度か個展を開いていた、笠原吉太郎Click!の新たな作品が見つかったことは美術の関係者、特に近代美術の領域では意義のあることだろう。さっそく、山中様が持参した写真の画面を拝見すると、笠原吉太郎が「満州」へ旅行したときに描いた、一連の中国シリーズの1作だということがわかった。描かれた人々は、明らかに日本の風俗ではない。
 絵筆をまったく使わず、ペインティングナイフだけで表現された画面は、どこかフォーカスがやわらかい独特な温かみと“丸み”を持っている。外山卯三郎Click!は、「一見すると、その作画が非常にスピードをもった一筆描きのように強く」(1973年発行の『美術ジャーナル』復刻第6号に所収の「画家・笠原吉太郎を偲ぶ」)と書いているけれど、わたしは逆に制作のスピードはともかく、キャンバスへ絵の具をやわらかく盛り上げて重ね、ていねいにのばしていく、絵筆の“さばき”による鋭角な表現の少ない優しいタッチの画面に見えている。だから、笠原作品を部屋に架けておいても、すんなり環境に溶けこんで落ち着き、しつこくて強い主張をしてこない。ホテルのオーナーに笠原ファンがいて、現在は閉業してしまった十和田湖畔のホテルの壁面に作品群を架けていたというエピソードをうかがったが、雰囲気のバランスを崩さない笠原作品は同環境に最適だったろう。
 新たに見つかった『満州風景』(仮)は、広い通りに面した大きな煙突のある工場(満鉄の工場だろうか?)を背景に、手前の歩道では女性たちが、リヤカーのような俥に積んできたとみられる果物か野菜を売っている。季節は、中国北部の夏のよう風情なので、売っているのは収穫したてのスイカかカボチャだろうか。佐伯祐三が描く風景画は、画角が“標準レンズ”に近いけれど、笠原吉太郎の画角はいつも広く28mmぐらいの“広角レンズ”を連想させる。これは、一連の『下落合風景』Click!や房総シリーズでも感じることだ。
 笠原吉太郎(下落合679番地)は、中国シリーズの作品を近隣(下落合680番地)に住んでいた高良武久Click!・高良とみClick!夫妻に譲っていたらしく、その作品群は転居後の妙正寺川沿いにあった高良興生院(更正院)Click!、あるいは隣接する自宅の壁面にも架けられていたのだろう。神経症の治療が目的の病院に架けられる絵画としては、高良武久の希望にかなった画面だったのかもしれない。佐伯祐三Click!の、特にヴラマンク以降の画面などを病院の壁面に架けていたら、よけいに患者の病状が悪化しそうだ。


 もうひとつ、わたしは山中様にお願いすることがあった。もちろん、笠原吉太郎が1927年(昭和2)4月に描いた、『下落合風景を描く佐伯祐三』のゆくえを探っていただくことだ。もっとも、この『下落合風景を描く佐伯祐三』というタイトルは朝日晃がつけたもので、実際のキャンバス裏には笠原吉太郎の筆致で「昭和二年/四月/下落合ニテ/佐伯祐三君」と書かれている。だから、笠原の記載を尊重するなら、『下落合ニテ佐伯祐三君』がタイトルとしては適切だろうか。第2次渡仏の4か月前、1927年(昭和2)6月に開かれた1930年協会の第2回展へ出品する、納邸Click!がほぼ竣工した『八島さんの前通り』Click!を描く1~2ヶ月ほど前に、下落合風景を写生する佐伯祐三をとらえた貴重な画面だ。
 2001年(平成13)に大日本絵画から出版された朝日晃『そして、佐伯祐三のパリ』には、同作の画面が収録されている。しかし、この画面がキャンバス全体なのか、それとも佐伯祐三の姿を一部分だけ拡大したものなのかが不明だ。しかも、朝日晃は同作の実画面を見ていないことがわかっている。朝日晃の文章は、もってまわった舌たらずの表現が多くてわかりにくいのだが、どうやら大日本絵画の編集担当者が笠原吉太郎の弟子のひとりを探しだし、その方が保存していた『下落合ニテ佐伯祐三君(下落合風景を描く佐伯祐三)』の画面およびキャンバス裏を撮影した写真をコピーに取り、朝日晃のもとへとどけた……というのが経緯のようだ。同書から、該当箇所を引用してみよう。
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 その正確な理解導入は、小著の改訂、再版を担当してくれた小林格史である。小林は、《男の顔(K氏)》から、絵を指導されたという数少ないひとりの生存者から、佐伯とK氏は、下落合時代、知友し、K氏が佐伯のイーゼルに向って《下落合風景》を描いている写生姿を描いた――と、K氏の描いた作品写真の表裏コピーを持参、やがて互いに興奮した。新資料の発見、『佐伯祐三年譜』をはじめ、小著にも欠けていたひとつの小さな?の部分の裏付けである。
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 K氏は、もちろん笠原吉太郎のことだ。笠原は下落合で画塾を開いていたが、その弟子のひとりに、のち外山卯三郎の妻となる一二三(ひふみ)夫人Click!もいる。
 同書に掲載された画面写真は、キャンバスとしてはサイズが不自然なので、実際の画面をトリミングしている可能性が高そうだ。写真を拡大して観察すると、笠原の画面にしては薄塗りのほうだろうか、絵の具の厚塗りらしい影が見あたらない。おそらく佐伯は、黒か紺の詰め襟のついた菜っ葉服(労働者着)にオカマ帽をかぶっているような姿をしており、足元は裸足に雪駄をつっかけているらしい。左手にパレットと4~5本の筆を持ち、屋外写生用のイーゼルにセットしたキャンバスは15号サイズだろうか。


 佐伯がキャンバスに向かう背後には、当時、下落合の崖地(バッケClick!)で多く見られた、コンクリートの井桁状に組んだ擁壁が見えているようだ。明治末から大正期にかけて多用された大谷石の擁壁ではなく、このようなコンクリート擁壁はセメントのコストの低減とその工法技術が進歩した、大正末から昭和初期にかけて造られ、佐伯アトリエClick!の近くでこのような急角度の大規模な擁壁は、西ノ谷(不動谷)Click!のある西坂や徳川邸Click!の近辺と、青柳ヶ原Click!から諏訪谷Click!へとつづく入り口に見ることができた。1927年(昭和2)の4月現在、このような垂直に近いコンクリート擁壁を確実に見ることができたのは、後者の諏訪谷への入り口、つまり西坂の徳川邸とは“対岸”にあたる下落合721番地から843番地あたりにかけての急斜面ということになるだろうか。
 佐伯の立つ地面は、それほど傾斜しているようには見えないので、現在の風景でいえば聖母坂のかなり下(南側)のほうの、目白崖線の張り出しが途切れる付近であり、光線の加減から画面の右手が南で、佐伯は家々が建ちはじめた諏訪谷Click!ないしは北側の青柳ヶ原の方角、すなわち自身のアトリエがある方角を向いて制作していることになる。徳川邸の“対岸”にあった急傾斜のコンクリート擁壁は、前年の1926年(大正15)5月ごろに徳川邸のバラ園を描いた、松下春雄Click!の『徳川別邸内』Click!でも背景の中に確認することができる。ちなみに、現存している佐伯の『下落合風景』シリーズClick!に、青柳ヶ原あるいは諏訪谷の入り口を崖線の下から描いたとみられる画面は見あたらない。
 笠原吉太郎の『下落合ニテ佐伯祐三君(下落合風景を描く佐伯祐三)』は、1926~1927年(大正15~昭和2)にかけて描かれたとみられる、3種類の佐伯祐三『笠原吉太郎像』Click!(1作は海外のオークションに出品されている)に対するお礼の意味もこめられていたのだろう。でも、笠原が本作を佐伯祐三に贈ったかどうかはハッキリしない。佐伯の遺品の中に本作は見あたらないし、いまでも行方不明のままだ。
 笠原吉太郎の弟子が同作を写真に撮っていたことを考慮すると、笠原アトリエにそのまま同作が残されており(佐伯へ本作品を贈り習作が残されていた可能性)、笠原が佐伯へ贈らなかった可能性、あるいは佐伯が同作を遠慮して受け取らなかった可能性もありそうだ。だとすれば、笠原吉太郎のご子孫のいずれかのお宅に(多くの作品がそうであったように)、木枠から外されたキャンバスが丸められたまま、クローゼットの中で眠っている可能性がなきにしもあらず……ということになる。
 
 

 山中典子様によれば、笠原家のご子孫の方々は、慶事や記念日など機会があるごとに集まってよくパーティーを開かれるということなので、その席で念のために確認していただくことになった。ときに笠原吉太郎の作品を持ち寄り、ホテルなどでミニ展覧会もされるとのこと。そのような機会に、クローゼットや押し入れの奥から同作か見つかれば、非常にうれしいのだが……。山中様からの吉報をお待ちしたい。

◆写真上:新たに発見されて額に入れられた、笠原吉太郎『満州風景』(仮)。
◆写真中上:上は、下落合の笠原アトリエで撮影された笠原吉太郎と美寿夫人Click!。下は、1929年(昭和4)11月15日~19日に東京朝日新聞社で開かれた「笠原吉太郎洋画展覧会」に出品された笠原吉太郎『神戸波止場ノ船』。
◆写真中下:上は、1927年(昭和2)4月に制作された笠原吉太郎『下落合ニテ佐伯祐三君(下落合風景を描く佐伯祐三)』。下は、同作のキャンバス裏面。
◆写真下:上左は、1927年(昭和2)制作の山本發次郎コレクションClick!佐伯祐三『男の顔』Click!。上右は、海外オークションで見かけた別バージョンの佐伯祐三『男の顔』。中左は、1927年(昭和2)5月に描かれた佐伯祐三『笠原吉太郎像(K氏の像)』。同作は、笠原吉太郎の葬儀Click!の祭壇にも架けられている。中右は、諏訪谷入り口の崖地に建造された大規模な井桁状のコンクリート擁壁を描く松下春雄『徳川別邸内』(1926年/部分)。下は、少し前まで西坂の徳川邸前に残っていた井桁状のコンクリート擁壁。