1925年(大正14)9月になると、箱根土地Click!は新聞紙上へ第四文化村の販売広告を出稿するとともに、目白文化村Click!の開発・分譲をほぼ終えている。また、箱根土地が翌1926年(大正15)7月17日付けで作成した第四文化村の「分譲地地割図」も残っており、全敷地が予約も含め販売を終了したように見える。でも、同年9月になると再び第四文化村分譲の小さな媒体広告を新聞紙上に展開しているので、7月の全敷地完売とされる「地割図」には疑問があることは、以前の記事Click!にも書いたとおりだ。
 また、もうひとつの課題として第四文化村の販売は、第二文化村の「売れ残り」の敷地を販売したものだ……というような記述の資料を見るが、1926年(大正15)の第四文化村の地割図は、箱根土地本社ビル(不動園Click!)の南西側にある谷間=前谷戸Click!(大正中期ごろから不動谷Click!と呼称)を、新たにひな壇状に開発・整地したもので、第二文化村の「売れ残り」ではない。では、なぜそのような証言が(あったとすればだが)、地元に残っていたのだろうか?……というのがきょうのテーマだ。
 第四文化村の開発は、ちょうど第二文化村が分譲・販売されているころ、そして第一文化村に大きく口を開けていた前谷戸の東側一帯の埋め立てClick!が実施された、1923年(大正12)の夏以前から開発がスタートしていたのではないかとみている。この時期、大量の土砂や大谷石ブロックが目白文化村に搬入され、谷間の埋め立てや急な傾斜地の緩急化、そしてひな壇敷地の造成が同時に行われていたのではないだろうか。特に第四文化村は、佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!の1作『雪景色』(スキー)Click!に描かれているように、V字型に落ちこむ急傾斜の谷間敷地が多く含まれており、近衛町Click!のバッケ(崖地)Click!でなかなか売れずに再開発が必要となった44号地Click!のケースと同様、大量の土砂や大谷石のブロックを用いてひな壇状に宅地を造成するには、相当な工数と開発リードタイムを必要としただろう。
 さて、箱根土地は第四文化村の分譲販売とほぼ同時期に、第一文化村の東側にあった本社Click!の国立駅前への移転を発表している。中央線の国分寺駅と立川駅の中間へ、箱根土地は新たに「国立駅」Click!を建設・設置して鉄道省に寄贈し、「大泉学園都市」Click!の開発と並行しつつ「国立学園都市」の建設へ本腰を入れるための本社移転計画だった。この本社移転の決定を受けて、目白文化村に確保されていた一部の土地が不要になっている。1925年(大正14)に箱根土地が作成した、第一文化村と第二文化村を併せた「分譲地地割図」を仔細に観察された方なら、すぐにピンとくるのではないだろうか?



 不要になった土地とは、第二文化村の北西部に接した区画、ちょうど第二文化村水道タンクClick!の向かい側に拡がる、当初は南角地に下落合1650番地とふられた広い空き地だ。前述の「分譲地地割図」(1925年現在)には、「箱根土地会社/社宅建設敷地」と記載されている土地だった。箱根土地本社が国立駅前へ移転する以上、もはや国立から遠く離れた目白文化村に、同社社員の「社宅」を建設する意味はない。同社では、第四文化村の販売と同時か、あるいはやや遅れてこの「社宅建設敷地」へ新たな地割りを施し、改めて一般に分譲販売しているとみられる。
 この一連の分譲販売が、1925年(大正14)の第四文化村の販売時期と重なり、第二文化村の「売れ残り」の敷地を販売したもの……というような錯覚を生んで、地元の伝承(そのような証言があったとすればだが)へとつながっているのではないか。「社宅敷地」は売れ残りではなく、また第四文化村とは場ちがいの敷地であり、改めて区画割りや生活インフラを整備して分譲された、あと追いの第二文化村エリアの宅地ということになる。
 「社宅建設敷地」は、新たに5つないしは6つの区画に分割されて販売されているようだ。ただし、そのうちの1区画は地元の地主(農家)が箱根土地から土地を買いもどしたものか、昭和期に入ると再び畑地にもどっているので、実質は4区画ないしは5区画が分譲住宅地とされたようだ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、住宅地として整備されているのは4区画、畑地が1区画、また整備済みの住宅地か畑地かハッキリしない、広い空き地が1区画という構成になっている。そして、「火保図」(1938年現在)では3棟の住宅が建っており、地番が新たに下落合1647番地あるいは下落合1658番地などと細かく変更されている。



 3棟の住宅の中で、もっとも大きなものは下落合1647番地(旧・1650番地)の安本邸だ。「火保図」では耐火建築の表現で記載されており、コンクリート造りあるいはそれに類似した造りの大きな西洋館だったとみられる。敷地の北寄りに巨大な母家が位置し、南側には広い庭園が拡がっていた。1936年(昭和11)の空中写真を参照すると、同邸は火保図に描かれた家屋の半分ほどにしか見えないので、ひょっとすると同年から「火保図」が制作される2年の間に、母家西側に大規模な増改築を行なっているのかもしれない。安本邸は戦災に遭い母家が全焼しているが、戦後、この広い敷地へ建設されたのが下落合教会Click!と下落合みどり幼稚園Click!だった。
 安本邸の北隣りには、水野邸(下落合1647番地)が建設され、南側には未建設の分譲地を残して、西隣りには居住者の記載がない小さめの邸(下落合1658番地)が建設されていた。この3邸は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機が撮影した空中写真でも捉えられており、空き地だった安本邸の南側分譲地には新たに邸が建てられているように見える。他の敷地はおそらく畑地のままだったか、あるいは投機を目的とした不在地主の所有地のままだったのだろう。同年の空襲では、4邸ともが延焼している。ちなみに、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、かなり大きめな邸にもかかわらず、安本と水野の両家とも人物紹介に採録されていない。
 また、「第五文化村」の分譲・販売が行われたとされる資料も散見するが、箱根土地が販売した目白文化村は第四文化村までであり、その後、1940年(昭和15)1月から5月にかけて、第二文化村の西側に接した南北に長い敷地一帯が、なぜか「目白文化村」として分譲販売されている。だが、この分譲地は勝巳商店地所部Click!による開発・販売であり、箱根土地はまったく関与していない。分譲地を分割した区画も、縁石や擁壁は大谷石ではなくコンクリート仕様が主体であり、また地下共同溝などの設備も敷設されず、目白文化村の開発コンセプトとはすでに大きく異なっている。



 もし、「第五文化村」が販売されたという伝承が存在したとすれば、箱根土地による第四文化村の販売から16年後に行なわれた、勝巳商店地所部による「目白文化村」の分譲販売を、「第五文化村」と勘ちがいした方がいたということではないか?……とは、以前の記事Click!でも書いた。ましてや、勝巳商店は箱根土地とまったく同ブランドの「目白文化村」と名づけて販売しており、また敷地も第二文化村の西に隣接するエリアだったため、そのような伝承が生まれたとしても不自然には感じられないように思われるのだ。

◆写真上:第四文化村に残る、大谷石による大規模な擁壁。前谷戸つづきの谷間へひな壇状の宅地を開発するには、膨大な土砂と大谷石ブロックが必要だったろう。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)9月29日に各紙へ出稿された第四文化村の分譲広告。中は、1926年(大正15)7月に作成された第四文化村の「分譲地地割図」。下は、1925年(大正14)作成の「分譲地地割図」にみる「箱根土地会社/社宅建設敷地」。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる「社宅建設敷地」跡の分譲の様子。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地所。すでに安本邸と水野邸、さらにもう1邸が建設されているのがわかる。下は、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に撮影された同地所で新たに1邸が建設されているように見える。
◆写真下:上は、戦後に安本邸跡へ建設された下落合教会(下落合みどり幼稚園)。中は、目白文化村の大谷石による縁石と共同溝の跡。下は、勝巳商店地所部による「目白文化村」開発で施されたコンクリート縁石の様子。