後藤慶二Click!が設計し1915年(大正4)に竣工した豊多摩刑務所(中野刑務所)だが、唯一残されている表門の保存が揺れているらしい。野方小学校と沼袋小学校の統合をめぐり、新たな小学校の新校舎建設予定地として、表門を含む法務省矯正研修所の跡地を利用しようとする動きのようだ。また、道路整備の一環だというお話もうかがった。いずれにしても、戦前のあらゆる思想弾圧の代表的なモニュメントとして、豊多摩刑務所の表門と関連展示室はぜひ残してほしい。
 1932年(昭和7)に、壺井繁治Click!は特高に治安維持法違反の容疑で再び検挙され、6月になると豊多摩刑務所に送られている。豊多摩刑務所は、同年4月に釈放されたばかりだが、出所するのを待っての警察による嫌がらせ的な検挙だった。同時期に逮捕されたのはロシア帰りの蔵原惟人Click!をはじめ、寺島一夫、平田色衛、劇場同盟の村山知義Click!と生江健次、作家同盟の中條百合子Click!と中野重治Click!たちだった。
 壺井繁治は再び収監されると、豊多摩刑務所の内部における拘禁の様子を細かく観察して、のちに記録を残している。1966年(昭和41)に光和堂から出版された、壺井繁治『激流の魚・壺井繁治自伝』から引用してみよう。
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 刑務所へ収容されると、誰でも何か隠してはいないかと、昔の徴兵検査の時みたいにまず素っ裸にされる。さして未決の被告は青い着物を、既決囚は赤襦袢といわれる柿色の着物を着せられる。わたしも一旦素っ裸にされた上で、青い着物を着せられ、看守に連れられて指定の独房に入れられた。それは「西上」の二三号室であった。扉がガチャンと閉められ、鍵がかけられた時、これで自分は娑婆から完全に遮断されたという実感がきた。/二度目の入獄なので、自分としては割り合い落ち着いている積りだったが、それでもわたしはコンクリートの壁に取り囲まれた二畳余りの部屋を見廻し、落ち着きを取り戻すために暫くの間、檻の中の動物のように狭い部屋を歩き廻った。ふとある友達の顔を思い出したが、彼の顔はイメージとしてはっきりしているのに、その名前を度忘れしてしまった。別に今すぐ思い出す必要はないのだが、それを思い出せぬことがわたしを不安に陥とし入れた。「俺は神経衰弱になっているのかなあ?」と考えたが、そう考えれば考えるほど、どうしてもその友達の名前を思い出そうとする焦燥に駆られた。
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 拘禁症にかかりそうな精神状態を励ましながら、できるだけ前向きな獄中生活を送ろうと努力している様子がわかる。壺井繁治は、あり余る時間ができたのでドイツ語講座のテキストと独語辞書、ハイネ全集の原書を差し入れてもらい、本格的なドイツ語の勉強をはじめている。
 壺井繁治が捕まってからも、日本プロレタリア文化連盟(コップ)に加盟する団体への弾圧はすさまじかった。同年5月には、築地小劇場で開催された日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の大会は、乱入した警察によって解散させられ、徳永直をはじめ池田寿夫、川口浩、橋本英吉、松井圭子らが検挙された。また、同年7月には労働運動家の岩田義道が、特高Click!の拷問によって虐殺されている。



 翌1933年(昭和8)の2月下旬、刑務所の壺井繁治のもとへカーネーションとフリージアの鮮やかな花束が差し入れられた。差し入れ人は、小林多喜二Click!の母・小林セキの名義になっている。当初は素直に喜んだ壺井だが、すぐにおかしいことに気がついた。小林セキとは面識があるけれど、それほど親しい間がらではない、この花束にはなにかメッセージがこめられているのではないか?……と疑いだしたのだ。妻の壺井栄Click!は、ナルプで逮捕された拘留者たちの支援活動を盛んに行っており、この花束は妻が自分に差し入れたのではないかと、改めて不吉な思いにとらわれた。(佐多稲子の証言によれば、これらの花々は小林多喜二の葬儀で遺骸の前に供えられたものだった)
 ほどなく、面会人の呼び出しがあり壺井繁治が面会所で待っていると、ドアの向こうで妻の高い声が聞こえてきた。その様子を、同書より引用してみよう。
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 「友達が死んだのですから、知らせるぐらいよいでしょう。」/「いや、いかん、絶対にいかん。それをいうのなら、面会は許さんぞ。」と看守と激しくいさかっている声が聞こえてきた。やがて話し合いがついたのか、いさかいの後の、まだ昂奮のさめきらぬ顔つきのままで、女房は、わたしの前にあらわれた。わたしの予感は当たったが、まだ誰が死んだのか分からず、不安で堪まらなかった。そのころ面会の際には、立ち会い看守がわたしたちの話の内容を筆記することになっていた。わたしたちが立ったまま向かい合って話す片言隻語を書き落とすまいと、看守はわたしたちを隔てる大きなテーブルの上にうつむいて、筆記に懸命だった。わたしたちはその看守を完全に見下ろせる姿勢にあったので、筆記に気を取られている看守は、わたしたちの動作に細かく眼を配る余裕などなかった。そのスキに乗じて女房から手帳の端に「コバヤシコロサレタ」という鉛筆の走り書きをチラッと見せられ、はじめて小林多喜二の死を知ったわけである。
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 同じく、豊多摩刑務所に収監された村山知義Click!も、妻の村山籌子Click!からハンドバッグの裏に書かれた白墨の文字で「タキジ コロサレタ」を見せられ、小林多喜二の虐殺を知らされている。看守が机に向かい、うつむいて面会記録を筆記している間に、知らせたいことがらを書いた走り書きをチラッと見せるというやり方は、おそらく村山籌子や壺井栄を含む拘留者・収監者への支援グループの中であらかじめ相談された、共通の情報伝達法だったのだろう。


 
 
 壺井繁治が保釈になり、上落合503番地の自宅に帰ったのは1934年(昭和9)5月のことだった。その直後、黒色青年連盟によるテロClick!以来、交渉を絶っていたアナーキスト岡本潤と実に10年ぶりに再会し、連れ立って牛込余丁町の金子光晴Click!を訪ねている。金子光晴は、サンボリックな言語を駆使して当局への抵抗をしめしつづけていた詩人だ。
 余丁町からの帰り道、壺井と岡本は戸山ヶ原Click!で一服しながら、空白の10年間を埋めるように話し合っている。そのときの様子は、翌1935年(昭和10)に岡本潤が発表した「途上」という詩にまとめている。詩の中で、「出て来てみたら」と語っているのが、保釈されたばかりの壺井繁治だろう。「途上」の一部を引用してみよう。
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 冬がハガネの牙をかくし/一月にしてはめずらしく、陽炎でもうらうら燃えていそうな天気で、/戸山ヶ原の空はやわらかな風が流れ、/子供達に交って大人達も天下泰平に凧をうならしていた。/――四、五年ぶりかな。/――いや、もっとなるだろう。/――出て来てみたら何しろ世の中がひどく変ってるんでね。/湿り気のある枯草の傾斜に腰をおろし、/変らない十年前のボクトツそのものの口調をおれは熱い胸で聞いていた。/きわだって目につくのは、突き出た頬骨とぐりぐりの坊主頭。/――おれ、ずいぶん齢とったろう。/――おれはまだまだ青年のつもりだが……
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 長い時の流れと、以前にも増して激しくなった当局の弾圧が、戸山ヶ原の草が生い茂るうららかな日なたの斜面で、かつてふたりが経験した思想的な対立を徐々に溶解していったようだ。岡本潤は、出獄したばかりでやつれ果てた昔日の同志の面貌に、少なからぬショックを受けていたのがわかる。
 そして、思想弾圧を強化しながら、ひたすら戦争への道を突き進む大日本帝国を相手に、再び起ち上がって前に進む決意をし「冬が牙をむくジグザグの時を思いながら……」と、詩は唐突に終わっている。




 1935年(昭和10)以前は共産主義者や社会主義者、アナーキストたちが豊多摩刑務所に収監されたが、太平洋戦争が近づくにつれ民主主義者や自由主義者、リベラリスト、そして左右を問わず“大政翼賛”と“軍国主義”に逆らう、ありとあらゆる思想・宗教弾圧の象徴的な拘禁装置として、豊多摩刑務所は機能していくことになる。二度とこのような時代を日本に招来しないためにも、同刑務所の表門は「暗黒時代」の象徴として、そして破産・滅亡した大日本帝国の「亡国思想」の権化として、永久に記念されるべきだろう。

◆写真上:豊多摩刑務所(中野刑務所)の、表門の内側に装備された鉄門扉。
◆写真中上:上は、豊多摩刑務所の表門。中は、同門の頑丈な表扉。下は、1948年(昭和23)に米軍によって撮影された空中写真にみる豊多摩刑務所。
◆写真中下:上は、1965年(昭和40)の解体直前に撮影された豊多摩刑務所の全景および表門(手前)と庁舎(奥)。中は、独房が並ぶ所内南西側の十字舎房(左)と独房の内部(右)。下は、独房の高窓(左)と塀に沿って設置された監視所(右)。
◆写真下:上は、1968年(昭和43)に新潮社から出版された『日本詩人全集』25巻の挿画。壺井繁治や中野重治を含む詩集で、岡本潤の「冬が牙をむくジグザグの時」を想起させる。中は、豊多摩刑務所表門の意匠。下は、1953年(昭和28)に鷺宮2丁目786番地の壺井邸で撮影された壺井繁治(中央)と壺井栄(左)。
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