記事の資料にするため、とあるテーマを抱えながら昔の雑誌や新聞をひっくり返していると、必ず読者向けの娯楽コラムや懸賞クイズが掲載されている。いまでも、新聞や雑誌などに囲碁や将棋、クロスワードパズルのコーナーがあるのと同じように、戦前のメディアにもおそらく記者たちが頭をひねって考案したのだろう、読者が喜びそうなクイズやお笑いコラムなどが載っている。
 だが、どこが面白いのかサッパリわからなくてぜんぜん笑えず、逆に首をひねってしまう“迷作”も少なくない。たとえば、冒頭の写真は雑誌に掲載された読者クイズなのだけれど、ふたりの有名人の顔をタテに切って左右を継ぎ合わせた、ちょっとグロテスクな出題となっている。いま、こんなことをしたら「あたしの顔を半分に切ったりして、なにすんのよ! どーゆーこと?」と、即座に本人たちからクレームがきそうだが、当時はたいして問題にならなかったようだ。
 また、新聞社が発行する写真雑誌のため、新聞によく目を通している読者、つまり人物の顔を紙上で記憶している読者に有利な出題となっている。いまのようにTVが存在しないので、たとえ有名人といっても顔は広く知られてはいなかった時代だ。誰と誰の顔をくっつけたのか、読者のみなさん当ててみよう!……というのが懸賞クイズなのだ。当たった人には、抽選で2名の読者に現金5円がプレゼントされる。大正末の5円というと、だいたい今日の4,000~5,000円ぐらいだろうか。ちょっとしたお小遣い程度の金額だが、家計の足しにと応募者は多かったとみられる。
 さて、このブログをお読みの方なら、下落合のテーマとともに何度か登場している人物の顔(半分)なので、冒頭の写真を見てピンとくる方も多いのではないだろうか。1924年(大正13)に東京朝日新聞社から発行された、「アサヒグラフ」10月29日号の「読者のおなぐさみ」懸賞クイズから引用してみよう。
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 読者のおなぐさみ/懸賞『誰と誰?』
 二人の顔を真中から継ぎ合わせた写真です。二人共有名な歌人で、その一人は男爵夫人で、本願寺に関係あり、一人は子福者で夫君と共に明星派の重鎮歌道、古典、其他新しい婦人運動にも関係してゐられます 右は誰左は誰でせう。(半分宛顔を隠して御覧なさい)/官製はがきに左誰れ、右誰れと姓名を記し本社グラフ部懸賞係宛でお送下さい。/締切十一月七日/正解者二名に金五円宛贈呈(正解者多数の場合は抽選による)
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 正解はもちろん、右が下落合の九条武子Click!で左が与謝野晶子なのだが、「アサヒグラフ」の愛読者か、新聞の文化欄を注意深く読んでいる読者には、比較的やさしい問題だったのではないだろうか。もう少し賞金の額や、当選者の数を増やしてもよさそうなものだが、東京朝日新聞のクイズはおしなべてケチなのだ。


 当時の主婦向けの雑誌にも、同じような懸賞クイズが掲載されている。こちらは、ウォーリーを探せならぬ「道夫さん」を探せクイズだ。いまから見ると、なんだか読者をバカにしてるんじゃないかと思うような出題だが、主婦の中には懸賞クイズを毎号楽しみにしていた読者もいたのだろう。こちらの賞品は現金ではなく、女性向けのファッションアイテムや化粧品などのグッズ、絵はがきなどとなっている。1928年(昭和3)に主婦之友社から発行された、「主婦之友」2月号より引用してみよう。
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 懸賞考へ物新題
 お母さんは、道夫さんと、龍夫さんに、お揃ひの着物を着せて、お稲荷さんへお詣りに来たかへりがけに、兄さんの道夫さんを見失つてしまひました。お母さんは血まなこでさがしてをりますが見当りません。皆さん、道夫さんは、どこに何をしてゐるのでせうか、よーく探してやつてください。あてた方には公平な抽籤のうへ、五名に大流行の革製ハンドバッグ一箇づゝ、二十名にルビー入白銀洋髪飾ピン一本づゝ、三十名に化粧直しコンパクト一箇づゝ(略) 千名に川原久仁於画伯筆の美しい三色版絵はがき一組(四枚)づゝを差上げます。用紙は必ずハガキを用ひ、答と並べて裏面に住所姓名をハッキリと書き、二月廿八日までに、東京都神田駿河台主婦之友社編集局、懸賞係り宛にお送りくたさいませ。
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 この「道夫さんを探せ」クイズの絵を描いたのは、サインに「クニオ」とあるので挿画家・児童文学作家の川原久仁於その人なのだろう。一見しておわかりのわうに、「道夫さん」は風船をふくらませて売る露天商の前で、両手を開いて夢中になっているのが数秒で見つかり、いま風のツッコミでいうと「ヘタクソか?」となるのだけれど、漫画が流行しはじめた当時としては新鮮で面白い、画期的なクイズだったのかもしれない。


 雑誌に限らず、新聞にも娯楽コラムあるいは面白記事のコーナーがあって、そのときのタイムリーな話題に合わせて読者を笑わせようと試みている。時事マンガと呼ばれるジャンルのほか、「笑い話」的な記事を載せるのが流行った時期があった。特に、日中戦争が泥沼へとはまりこんでいく日本の、重苦しく暗い世相を背景に、新聞にさえわずかな笑いを求めた読者がいたのだろう。新聞にネタを寄せる側も、笑いを誘う読者ウケをねらったような投稿がめずらしくなかったようだ。でも、今日から見ると、その多くはユーモアにさえとどかない、ピクリとも笑えない内容が多い。時代とともに、笑いの質が大きく変化してしまったせいもあるのだろう。
 たとえば、帰国途中の近衛秀麿Click!が太平洋上の日本郵船・氷川丸Click!から、東京朝日新聞社へ打電した悲鳴短歌が掲載されている。当時の読者は大笑いしたのかもしれないけれど、いまとなっては「だから、どうしたってんだ?」とクールに返されてしまいそうな作品だ。1937年(昭和12)3月に発行された、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
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 まぐろでも泳ぎにくかろこのウネリかな/帰朝船中から近衛子の悲鳴
 欧米各国の指揮棒行脚にすばらしい成功を収めた近衛秀麿子は、十九日横浜入港の氷川丸で帰朝する予定のところ、先般東京近海を荒した低気圧に途中で遭遇、連日のシケ続きに船足が進まず、予定より二日も遅れて二十一日早朝横浜入港となつた。さるにてもこの時化は、よほどカラダに応へたものと見えて、十九日船中から本社に無電を寄せて曰く、/海シケ通しで元気なし/〇/海の中いま喰ひ頃のマグロかな/〇/沈むなら刺身包丁にワサビとり、マグロの群を切つて果てなむ/〇/マグロでも泳ぎにくかろこのウネリかな/(呵々)
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 これも現在では、「ヘタクソか?」といわれてしまいそうだけれど、もともと生マジメな近衛秀麿が詠んだ、おかしな俳句や短歌ということで、ウケる人にはウケたのだろう。当時の東京朝日新聞の紙面らしい、また近衛秀麿もそれを意識したユーモアセンスだ。


 さて、最後に余談だが、日本にコカコーラが輸入されたのは大正時代の初めとされているけれど、高村光太郎Click!の詩などに見られるだけで、輸入元が出したであろう広告がなかなか見つからなかった。高村が『道程』に書いている「コカコオラ」は、明治屋が日本代理店となって発売される前、芥川龍之介Click!が「コカコラ」と書く以前のものであり、日本に輸入された直後の製品だったとみられる。ようやく、大正初期から「日本一手輸入販売元」としてコカコーラを販売していた、斎藤満平薬局(現在も千代田区で営業)の媒体広告を見つけたのでご紹介したい。そう、当初コカコーラは疲労回復の健康薬剤として売られており、下落合の中村彝Click!もカルピスClick!とともに飲んでいたかもしれない。

◆写真上:1924年(大正13)発行の「アサヒグラフ」10月29日号に掲載のクイズ写真。
◆写真中上:上は、「アサヒグラフ」(東京朝日新聞社)の同号に掲載された懸賞クイズ。下は、下落合753番地の九条武子邸跡で現在は新築住宅が建っている。
◆写真中下:上は、1928年(昭和3)発行の「主婦之友」2月号に掲載された懸賞クイズ。下は、1937年(昭和12)3月の東京朝日新聞に掲載された近衛秀麿の“迷作”。
◆写真下:上は、下落合436番地の近衛文麿・近衛秀麿邸跡。下は、1919年(大正8)8月18日の東京朝日新聞に掲載された斎藤満平薬局の「コカ、コラ」媒体広告。