地域の取材を進めていると、家族や親戚・親族に限定したミニコミメディアに出会うことがある。きょうは、落合地域を取材していて偶然に出会った、そんな地域限定……ならぬ家族や親戚、さらにその友人知人に限定されたメディアをご紹介したい。
 親戚や親族との交流は、通常は法事や祝いごと、パーティなどの席に限られることが多いが、その現場で“積もる話”を交換し合うのがほとんどだろう。そこで何年かぶりに再会した親戚同士が、最新の情報交換やその後の消息、あるいはエピソードの経緯を知ることになる。若い子たちなら、各種SNSによるテキストや画像の情報交換を通じて、家族や親戚間のさまざまな話題や情報を共有し合うかもしれない。だが、SNSをしていない高齢者たちには、それらの情報はとどかない。
 しかし、親戚同士や一族の方たちが一度は訊いてみたい情報、あるいは知っておきたいアイデンティティ的な知識、たとえば先祖はいつごろ東京へやってきたのか、どのような仕事をしてどこで暮らしていたのか、関東大震災のときはなにをしてどこへ避難したのか、戦争中はどのような生活を送っていたのか、どうやって戦災のカタストロフをくぐり抜けてきたのか、戦後はどのようにすごしてきたのか……etc.、そのような情報をふんだんかつ豊富にもっているのは、実は祖父や祖母などの高齢者たちなのだ。
 だから、お祖父さんやお祖母さん、伯父・伯母さん、叔父・叔母さんたちが参加していないSNSには、当然、そのような情報や物語、体験談などが蓄積できない。ご本人が亡くなってしまったら、二度と興味を惹かれたテーマについて訊くことができないし、「自分はなぜここで生まれ、ここにいて生活してるの?」といった、本人にとっての根源的あるいは依って立つ実存的な足もと=基盤の概念を、永久に失うことになってしまう。そのような情報の喪失や偏り、世代間における意識の乖離や認識の齟齬をなくす目的でつくられているのが、家族や親戚限定の紙メディア=親族ミニコミ誌なのだろう。
 落合・長崎地域への空襲や、戦後史などについて取材をさせていただいた、東京写真工芸社(富士見写真場Click!)の佐藤仁様Click!が、昨年(2016年)8月に亡くなった。1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲による延焼で、小野田製油所Click!の裏に積んであったドラム缶が爆発して吹っ飛んだ話や、近くにあった銭湯の仲の湯(戦後は久の湯)の釜場に、日本の迎撃戦闘機Click!が落ちてきた話、写真館の至近に250キロ爆弾が落ち、破片が防空頭巾を切り裂いてカメラを壊し九死に一生をえた話、戦後の長崎神社改築の話など、多種多様なお話をうかがっていた。わたしの取材は必然的に落合地域側のテーマが多く、今度は長崎地域(椎名町地域)のお話を詳しくうかがおうと思っていただけに、たいへん残念だ。

 
 亡くなった佐藤仁様の甥にあたる、佐藤創様からご連絡をいただき、親族ミニコミ誌「キラキラシュガー」の取材オファーをいただいたのは、今年(2017年)の1月だった。わたしはいつも対象者に取材させていただき、お話をうかがう側なので当初は面食らったのだが、親族ミニコミ誌とその役割りに強く惹かれてお話をさせていただくことになった。1時間半ほどの短い時間だったので、佐藤仁様が証言された地域の記憶や、その思い出などあまり詳しくは語れなかったのだが、取材から1週間ほどてして「キラキラシュガー」第4号がとどいた。
 さっそく内容を拝見すると、とても面白い。すべてをフォントの編集にせず、子どもたちの文章は手書きのまま掲載するなど、さまざまな工夫がほどこされている。また、子どもたちの描いたイラストや、親族の古写真などが掲載され、それにまつわる物語やエピソード、思い出話などが記事としてつづられている。家族ばかりでなく、親戚・親族一同でこのような情報をリアルタイムで共有し合えれば、そこから派生してより多種多様な情報や消息が集まって、より内容の濃い「記録集」として蓄積されていくだろう。
 ちょっとその一部を、「キラキラシュガー」第4号から引用してみよう。佐藤仁様の兄にあたる佐藤晋様の、子どものころに見た下落合の情景だ。
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 (現在 西武新宿線 中井駅から目白大学周辺) いつも弟<佐藤仁様>や近所の子を引き連れて夏の太陽に温められたトマトを食べたり、冷たい井戸水を頭から被ったり、神田川へ入り込む小川<妙正寺川>で小魚をすくったり土手の小穴からダラリとぶら下がって昼寝でもしているのか赤腹の山カガシを引っ張りだしたり…/そんな事をやりながら「何故?」「どうして?」と心配気に不思議がっていたのが弟でした。私の弟や妹達が一番世話になったのも弟の「仁」でした。(<>内引用者註)
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 さて、落合地域を取材していてもうひとつ出会った印象深いメディアに、近衛町Click!の藤田孝様Click!たちが刊行された「藤田譲氏とその一族の記録」(2014年)がある。やはり、家族をはじめ親族で「家族の歴史」を共有するために作成された冊子だ。下落合へClick!を建設して住むようになった一族の歴史や、関わった事業の起ち上げやその仕事上での役割り、一族のルーツを訪ねる旅行記、一族の現状と消息の詳細など、内容は多岐にわたりとても豊富だ。この1冊を読めば、藤田家の誰もが先祖の来し方を知ることができ、「いま、なぜ自分はここにいるのか」を知ることができる。
 やはり、藤田家に残るアルバムから古写真がふんだんに引用され、イラストや絵画も数多く掲載されている。また、家族の歴史を記述するのと同時に、そのとき世の中の動きはどうなっていたのか?……というように、社会の流れ(近代史)と家族・親族の動向とを重ねて記述している点が秀逸だ。親族間で共有する冊子としての役割りを超えて、貴重な写真資料とともに、このメディア自体がひとつの近代史における証言資料としての意味合いをも備えている。
 たとえば、お祖父さんが生きていた時代、日本はどのような政治・経済状況に置かれていたのか、また文化的にはどのような出来事があり、そこでどのような人々が活躍していたのか……などなど、同時代の社会的な状況がコンカレントで参照できるようになっている。メインテーマは藤田家なのだが、期せずして近代史の流れをおおよそ把握でき、そのようなマクロ的な視界から改めて藤田家の経緯をとらえ直すことができるという力作だ。
 

 ブログやSNS、IMなどのツールがあたりまえになった今日、実はいちばん記録しておきたい情報をお持ちの方々が、それらのツールを利用していない世代だ……というのに気づく。そのような“気づき”もあって、13年前にこのようなサイトをはじめた経緯もあるのだけれど、デジタルメディアを利用していない世代に拙記事は読めず、記事を出力(印刷)してお送りする以外、その記述や記録を踏まえての新たなフィードバックは期待できない。親族同士のリアルタイムによる情報共有や、家族の歴史や消息といった世代間を大きくまたがる用途には、まだまだ紙メディアが活躍し、その定期的な発行が有効なのだろう。

◆写真上:戦前に撮影された、若き日の佐藤仁様。(小川薫アルバムClick!より)
◆写真中上:上は、「キラキラシュガー」第4号の表示上部に描かれたメインビジュアル。下は、同誌の中ページで写真やイラストがふんだんに使われている。
◆写真中下:上は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された落合地域で、佐藤仁様たちが遊んだころの風情がいまだに残っている。中は、GoogleEarthにみる現在の同所。下は、子どもたちが描いた佐藤仁様たちの遊び場イラストマップ。
◆写真下:上は、2014年(平成26)発行の『藤田譲氏とその一族の記録』表紙(左)とアルバムページ(右)。下は、藤田孝様による旅行記「祖父の郷里を訪ねて」。