これまで一度も見たことのない、めずらしい空中写真を見つけた。敗戦から6ヶ月後に、B29から撮影された画面だ。写真のタイムスタンプは、1946年(昭和21)2月23日となっている。板橋の上空あたりから、ほぼ真南を向き斜めフカンで撮影されてたもので、東京西部が広くとらえられており、主要な街々はほぼ全域が焼け野原だ。
 写真のちょうど中央が新宿駅Click!で、白く光っているのは淀橋浄水場Click!の濾過池と沈殿池だ。その向こう側(南側)に見えている森は、明治神宮と代々木練兵場Click!で、浄水場の左手(東側)に見えているのが新宿御苑Click!だ。新宿御苑の向こう側(南側)には、神宮外苑と絵画館Click!がポツンと確認できる。また、左手には千代田城Click!の外濠と内濠が見え、その向こう(南)には東京湾が拡がっている。上部の右側に見えているのは、東京都と神奈川県の境を流れる多摩川だ。
 手前(北側)の左手に見えている、道路が集まる街は池袋駅周辺だが、ほとんど爆撃しつくされてなにもない。駅の左手(東側)に見えている施設は巣鴨刑務所で、この時期は戦犯を収容する巣鴨プリズンと呼ばれていた。池袋駅から、巣鴨プリズンを囲むように、山手線がカーブしているのが見える。池袋駅から南へ、目白駅、高田馬場駅、新大久保駅とつづき、その周囲はほとんど焦土と化している。
 高田馬場駅の向こう側(南側)に拡がる戸山ヶ原Click!には、山手線東側のコンクリートドームに覆われた大久保射撃場Click!や、西側の陸軍科学研究所/陸軍技術本部Click!が確認できる。夕陽を反射して、右側(西側)で光っているのは、目白商業学校Click!の下で大きくカーブし、井上哲学堂Click!へと通う妙正寺川Click!の水面だ。戦争末期、B29の搭乗員や、P51やF6Fなど戦闘機のパイロットたちは、このような光景を目にしていたのだろう。東京の市街地と同様に、西郊部も徹底的に破壊されていたのがひと目でわかる写真だ。
 1945年(昭和20)3月10日Click!の東京大空襲Click!から、そろそろ72年がたとうとしているが、きょうは同年4月と5月の二度にわたって行われた、山手空襲Click!について書いてみたい。まず、目白文化村Click!の第二文化村にいた安倍能成Click!の証言だ。安倍能成は、下落合4丁目1655番地(現・中落合4丁目)の敷地を、1924年(大正13)の初めに入手し夏までに自邸を建設している。1964年(昭和39)4月11日発行の「落合新聞」Click!より、安倍能成『私と下落合』から引用してみよう。
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 目白といふけれども本当は下落合で、その頃は淀橋区に属し、四丁目の一六五五番地で、昭和二十年の爆撃で焼けてしまった頃は、昭和十五年の秋に、一高の校長として又東京に帰って居たので、その家に住みついて居た。その頃は死んだ長男がまだ生きて居り、妻と長男とを信州にやって、一人で二階に居たのと一緒に、燃える家に水をかけて防いだが、二階が落ちて来て危険が迫ったので、思ひ切って御霊神社の下に設けてあった長い防空壕に避難した。ドイツから大分書物を買って来たから、書庫を別に鉄筋コンクリートで建てたけれども、上空からの火は始(ママ)めてのことで考へなかった。翌朝だったか家に帰って、書庫の焼跡を見ると、燃えた本の灰が雪のやうに白く美しく、上の方にある書物の灰は崩れないで、活字がはっきり読めた。朝鮮から李朝や高麗や新羅の陶磁器をいくらか持って帰ったが、それは跡かたもなくなって、ただ水滴だとか小瓶などを、壺に入れて土にいけておいたのだけが残った。(中略) 私は一高校内にある柳田教授の官舎に御厄介になり、その家が焼けてから一高の同窓会館に移り、更に経堂の知人の家においてもらひ、終戦の年の十月末に長男が病死したので、妻、嫁、孫と一緒に代田一丁目の、寺島といふもとの岩波の店員の持家の一部においてもらひ…(後略)
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 この空襲は、同年4月13日の夜半に行われた第1次山手空襲で、せっかく書庫をコンクリートで建設したのに、空からの焼夷弾攻撃にはひとたまりもなかったことがうかがえる。目白文化村は、つづいて5月25日の空襲でも爆撃を受けている。また、安倍能成Click!は文化村の自宅で罹災したあと、空襲に追いかけられるように都内各地を転々としている様子がわかる。
 つづいて、目白文化村の南西側、中井駅から下落合の西端にかけての空襲被害を見てみよう。同じく、4月13日夜半の空襲による惨状だ。ただし、このあたりの被害状況は、わたしも取材で何度か経験しているけれど、戦時の極限状況と極度の混乱から4月13日夜半と5月25日夜半の空襲被害を混同しているケースが多いので、それをお含みおきのうえお読みいただきたい。1967年(昭和42)8月10日発行の「落合新聞」より、「座談会」から引用してみよう。下落合の丘上に自邸があったとみられる、高山福良という方の証言だ。
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 私のところから五六軒東の方は焼けて、文化村が全部焼けて、それから、坂下がかなり焼けた。この辺は御霊神社の丘のあたりは一帯に焼け残った。ほんとに、焼け残った方が珍しいんだ。それで、四月十三日のあの晩にはね、これは後になって分ったことなんだけど、中井駅近くの妙正寺川に焼夷弾が九十何発、百発近くのものがずらっと川の中に落ちている。だから、あれがね、ちょっとのボタンの押し違いで、われわれの住宅街の上に落そうとしたもんだろうと後になって分った。だから、あれが落ちていたらわれわれのところは全部灰になっていたことだろう。(中略) 私の隣組はほんの僅かだけれど奥に引っ込んでいるんで、守っていると、表の様子が分らない。表が人通りがはげしいというんで、出て見るとね、文化村のほうがまっ赤に燃えている。それで目白学園とか、御霊神社の方にね、どんどん避難していくわけなんですよ。これは大変だというんで、家族を御霊さんの方に逃がして、男の子と私だけがうちに残っていたんだが、周辺がどう燃えているのか分ないんだな。で、水をかぶってね、表に出て見て、二の坂の方に行ったんだが、坂の半ばまでは降りられないですよ。下は燃えているし、火がパッパして。向うを見ると東中野の方まで焼野原になっているんだ。その中に、森があったり、残ってる家がちょっと見える。(カッコ内引用者註)
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 同じ座談会で、上落合に住んでいた村上淳子という方の証言も掲載されている。上落合の被害は、4月13日よりも5月25日の空襲のほうが圧倒的に大きかった。つづけて、「落合新聞」の同号から引用してみよう。
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 上落合は四月の時より五月二十五日ですか、その時の方がひどかったんです。四月のときは、わたくしうちにおりまして、みんな東中野の方へ逃げたんです。あちらが高台だというんで。どんどんどんどん逃げて行きましたからね。そしたら、あちらの方から燃えてきて、またこっちへ返(ママ)って来て見たら家があったという状態なんです。わたくしのうちは線路の端で強制疎開でしたが、わたくしはそのときうちにいたんです。/空襲の状態は、いまの花火どころじゃないですね。焼夷弾の落ちるのがきれいなんですよ。落ちてくるときから火がついていて、それが無数に、パッと火が散っていて、音がして。(中略) 通風筒のような、くるくるまわる、あれがはまっているんですよね。まるで打上花火みたいにきれいなんですよ。で、それが落ちて来ますと、アスファルトが全部燃えちゃうんですよ。ですから、歩けも何もできないんですよね。一面火の海です。(中略) それから、五月にうちのほうが焼けましたときは、わたくしは勤務で新宿駅に勤めていたんです。その頃は男の人は戦争に行ってらして、内地は女のほうが重要だったもんですから勤めに行ってましたら空襲で、わたくし達は駅の地下道にもぐっちゃったんです。/それで、夕べ焼けた、というんで外へ出て見ましたら、もう新宿の駅はありませんでした。うちへ帰るのに新宿駅から歩いて来ましたけれど、途中、家は一軒もありませんでした。(中略) 新宿から大久保のところを通って、小滝橋を通ってくるのに、焼野原なんです。落合のほうから来る方にね、上落合のほうは残ってますでしょうか、と尋ね尋ね来たんです。(カッコ内引用者註)
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 アスファルトが燃えていたのは、上落合と東中野の間を横断する早稲田通りの情景だろう。東中野から落合方面を見た、松本竣介Click!のスケッチClick!が想い浮かぶ。


 米国の国防省から国立公文書館へわたっていた、空襲の記録写真が次々と公開されるにつれて、東京大空襲Click!のみならず二度にわたる山手空襲の様子も、各街ごとにリアルタイムで写真撮影がなされていたことが判明した。以前、1945年(昭和20)5月25日夜半に撮影された、被弾直前の新宿駅周辺の写真をご紹介Click!したことがある。それらの写真には、街や駅名などはほとんど記載されていないが、タイムスタンプで被爆している東京の街並みを推定することができる。夜間撮影の画面で非常にわかりにくいのだが、東京のどの街の空襲なのかが判明したら、改めてこちらでご紹介したいと思っている。

◆写真上:1946年(昭和21)2月23日に撮影された焼け野原の東京西部の状況で、東京湾には幕府の台場が点々と見えているが72年前の海岸線であり現状とはまったく異なる。
◆写真中上:上は、同写真を目白・落合地域(手前)を中心に拡大したもの。下は、落合地域から南をGoogleEarthの斜めフカンで見た現代の様子。
◆写真中下:上は、1945年(昭和20)7月16日(日本時間17日)に撮影された海軍火薬工廠のあった平塚市街地を絨毯爆撃するB29の編隊。中は、東京の上空から市街地へバラまかれたM69集束焼夷弾の構造。下は、保存された250キロ爆弾の尾翼部。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)5月25日夜半に空襲を受ける代々木や原宿の市街地と明治神宮。画面やや右寄りに山手線がタテに走り、ちょうど原宿駅上空で焼夷弾が炸裂して落ちていく。下は、同じく5月25日夜半の空襲で燃えはじめた渋谷駅東口と広尾の市街地一帯。山手線が左下に見え、その線路を横ぎるカーブした鉄道は東急東横線。