1919年(大正8)7月7日七夕の日、カルピスClick!は全国でいっせいに発売された。カルピスが誕生したのは、酵素の一種とみられる「醍醐素」に、砂糖を混ぜて放置していたのが自然発酵した偶然の産物だった。それを味わった開発者は、美味に驚いて商品化を企画している。偶然に自然発酵した「カルピスの素」は、なんの素材をもとに具体的にどのような手順で、何時間かけて発酵させれば美味しくなるのかがまったく不明だった。それを改めて検証する作業に、R&Dの担当者は膨大な試行錯誤を繰り返したようだ、
 中村彝Click!が初めてカルピスを口にしたのは、翌1920年(大正9)4月ごろに新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!がプレゼントしたのが最初と思われるので、発売から1年もたたずに味わっていることになる。以来、彝はカルピスが病みつきになり、1924年(大正13)12月に死去するまで愛飲しつづけたようだ。カルピスの「カル」はカルシウム、「ピス」は仏教の「熟酥(じゅくそ)」すなわち「サルピス」からとって命名されている。仏教へ帰依していた同社専務の三島海雲は、カルピスの命名について次のように書いている。
 1989年(平成元)出版の、『70年のあゆみ』(カルビス食品工業)から引用してみよう。
  
 「カルピスという名前が、いかにも清涼飲料水らしいとよく人にほめられる。カルピスの『カル』はカルシウムから、『ビス』はサンスクリット語からとった。仏教では、乳・酪・生酥・熟酥・醍醐を五味と言い、醍醐をサルピルマンダ、塾酥をサルピスと言う。五味の最高位は醍醐だから、ほんとうはカルピスではなく、カルピルでなければならないのだが、それではいかにも歯切れが悪いので、私はカルピスにしようと思っていた」(『長寿の日常記』)/すべてのことに関して、常にその道の一流の専門家の意見を聞くことにしている海雲は、この命名のときも、音楽家として著名であった山田耕筰と、サンスクリットの権威であり浄土宗では生きた宝とまでいわれた渡辺海旭に相談した。
  
 発売とほぼ同時に、カルピスは大正期を通じて空前の大ヒット商品となっている。今日のように製造過程まで含めたオートメーションの生産ラインがあるわけではないので、すべてが地道な手作業による生産体制だった。
 発売の年には、すでに日本全国ばかりでなく、中国の大連や上海にまで販売代理店を設置している。つまり製品の売れ行きを探りつつ、国内で実績を積んだあと海外へ進出するのではなく、発売とほとんど同時に製品の海外展開を試みた、大正期の企業としてはカルピスは稀有な存在となった。その好調な売れ行きを記録している様子を、同書収録の1919年(大正8)12月に出された第5回の営業報告書から引用してみよう。
 


  
 カルピスは醍醐味、醍醐素の身代りとして7月7日より発売致しました。本品は意外の好評を博しまして、前途好望の兆候を示しております。本品の販売に付きましては、斯界のオーソリチーと称せられて居りまする東京日本橋詰國分商店を以て関東販売元となし、大阪祭原商店を以て関西一手発売元と致しました。其他、大連市の矢中商店、上海の松下洋行を以て各其地方の一手発売元と致しました、何れも非常の意気込を以て着手して居る模様であります。其活動の反響は大正9年2、3ヶ月以後にあると予想致して居ります。
  
 同年12月の時点で、卸売り店を招いての販促会が開かれているが、当初は15~16名(社)が参加していた。ところが3ヶ月後、翌1920年(大正9)3月の集会では35名(社)、翌1921年(大正10)2月には40名(社)以上、そして同年4月には50名(社)以上と、順調に業績を伸ばしているのが見てとれる。
 売り上げも好調に推移し、1926年(大正15)の売上高は発売時の18倍に達し、半年ごとの売上高計算では1925年(大正14)上期と1919年(大正8)下期とを比較すると、実に36倍という伸び率を記録した。当然、手作業による生産が追いつかず、市場にカルピスが行きわたらない欠品状態まで生じている。事業責任者である専務の三島海雲は、原液の製造工程を自動化して品質を低下させず、すべて人海戦術で乗り切ろうとしている。当時のカルピスは、次のような手順でつくられていた。
 ①乳酸菌および酵母を種菌として脱脂乳を培養してつくったスターターを、あらかじめ加熱殺菌した脱脂乳に加える。
 ②それを、木製の発酵槽の中で一昼夜乳酸発酵させて、酸乳をつくる。
 ③でんぷん糖化液(水飴)を乳酸発酵させた液に炭酸カルシウムを加えて得られる粗結晶の乳酸カルシウムを、酸乳に加える。
 ④この酸乳に砂糖を十分溶解させ、熟成発酵させる。
 ⑤オレンジとレモンの皮からしぼったオイルを原料とする天然香料を加えて仕上げ。
 カルピスの売り上げが記録的に伸びたのは、先述のように1925年(大正14)のことであり、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!をはさんだ復興期のことだ。このとき、首都圏ではカルピス人気が沸騰する要因をつくったエピソードが語り継がれている。


 三島海雲は、大震災のとき東京府北豊島郡の向山町(現・練馬区向山)にある本社にいたが、市街地に比べ揺れが弱かったのか幸い本社社屋は無事だった。そこで、残暑がつづく炎天下に氷と希釈用の水を用意し、焼け野原の市街地へトラックで運んでは、被災者にカルピスを配ってまわった。当時の様子を、同書から引用してみよう。
  
 私は工場にあった木樽十数本に入っているカルピスの原液を全部出させ、金庫のあり金2,000円余を全部出して、この費用に充てた。そして、翌2日から私自身もトラックに乗って被災地を回り、原液が無くなるまで配り続けた。震災後の数日は焼けつくような暑さだったから、私のトラック隊は、行く先々の避難所で大歓迎を受け、感謝された。大阪毎日の記者が、震災第一報で私のトラック隊のことを取り上げた。このとき、私には宣伝しようなどという気持はミジンもなかった。しかし、結果として、カルピスは全国に知られることになった。のちに『あのときのカルピスの味が忘れられない。私はカルピスのためになんでも協力しますよ』という人が官界にも民間にも幾人も出てきた。
  
 幕末に彰義隊と靖共隊を助(す)け、大江戸びいきだった亀甲萬(キッコーマン)の茂木七郎左衛門Click!ではないけれど、このような義侠を江戸東京人は忘れない。カルピスは同年、営業的には大打撃をこうむるが、首都圏のマーケットは義理がたく震災後もカルピスを選んでは飲みつづけた。そして、ようやく復興のきざしが見えた1925年(大正14)、カルピス人気はおもに東日本で爆発し、空前の売り上げを記録することになる。発売から4~5年で、これほどの大ヒットを記録した商品は、地震に備えた保険商品や焼け跡復興用の住宅建材の需要を除けば、大正期を通じてほとんどない。
 中村彝も目にしたであろう「初恋の味」のキャッチフレーズは発売の翌年、1920年(大正9)にすでに発案されている。だが、カルピスは子どもから老人まで飲む飲料なので、当初、三島専務は「恋」という表現にターゲティングのズレから難色をしめした。社内の宣伝部にも、慎重論が多かったという。だが、1922年(大正11)4月には、このキャッチを採用した新聞広告を東京日日新聞に出稿している。
 ところが、警察から「色恋は社会の公序良俗を乱すことなので、白日のもとで口にすべき言葉ではない」という、今日からみれば信じられないようなオバカな理由でクレームが入った。だが、当時は大正デモクラシーの時代なので、「初恋の味」のキャッチはまたたく間に全国へ拡がり、実質的に警察当局が表現を規制することができなくなってしまった。以来、約100年間にわたり同キャッチフレーズはカルピスのみならず、企業全体のショルダー的な位置づけとして今日までつづいている。


 同社が「初恋の味」広告を出稿したのと同年、1922年(大正11)10月に「帝展の入選者、九分はカルピス愛用家」というキャッチフレーズの新聞広告を出稿している。中村彝(当時は帝展審査員)は、確かにカルピスの大ファンだったが、ほかの帝展への入選画家たちも愛飲していたのだろうか。「九分」は90%の意味だが、三島海雲のことだから無作為で選んだ帝展の画家たちへ、試供品とともにアンケート調査を実施している可能性が高い。それとも、だいたいの感触でつくってしまった、裏づけのないキャッチだろうか。大正期のカルピス広告を見ていて、ニヤリとさせられたフレーズだ。

◆写真上:1919年(大正8)7月7日に発売された初期のカルピスは、七夕らしく「ミルキーウェイ(天の川)」をデザインした紺地に白の水玉模様の包み紙だった。
◆写真中上上左は、1922年(大正11)に上野で開催された平和記念東京博覧会Click!に出店したカルピス館。上右は、1924年(大正13)に勝山分工場の視察で撮影された記念写真の三島海雲(左端)。は、発売最初期型の箱に入れられたカルピス。は、1922年(大正11)4月に初めて「初恋の味」のキャッチフレーズを採用した新聞広告。
◆写真中下は、カルピスのポスターやブリキ看板などPOP類。は、1923年(大正12)6月に制作された新聞広告で、以後「初恋の味」のキャッチが定着する。
◆写真下は、1922年(大正11)10月制作の帝展画家は「九分はカルピス愛用家」広告。は、1924年(大正13)2月に制作された馴染み深いシンボルマークの広告。