三岸好太郎・三岸節子夫妻Click!のお嬢様である陽子様Click!の長女・山本愛子様Click!より、アトリエを整理していたら「三岸好太郎遺作展」の芳名帳が見つかった旨、ご連絡をいただいた。さっそくお送りいただいた同展芳名帳のコピーに目を通すと、このサイトにかつて登場した画家や美術家たち、あるいは一時期の三岸夫妻Click!と同様に、落合地域とその周辺域にアトリエがあったお馴染みの画家たちや、美術関係者などの顔ぶれが27名ほど並んでいたので、さっそくご紹介してみたい。
 この「三岸好太郎遺作展」は、好太郎が31歳で急死した1934年(昭和9)7月の直後、完成した上鷺宮のアトリエClick!で同年11月に開かれた遺作展ではない。芳名帳に記載された来訪者の住所表記から、1947年(昭和22)3月に東京が22区(のち23区)になったあとに開催されたものだ。また、来訪者の居住地が東京とその周辺域に集中しているため、明らかに都内で開かれた遺作展に絞りこめる。1945年(昭和20)の敗戦ののち、「三岸好太郎遺作展」は何度か各地で開かれているが、東京地方だけを見ると以下の3回に限定できる。
 ●「三岸好太郎遺作展」1949年5月26日~6月1日…日本橋・北荘画廊
 ●「三岸好太郎遺作展」1950年3月7日~13日…日本橋・北荘画廊
 ●「三岸好太郎遺作小品展」1956年10月8日~14日…日本橋・三彩堂
 上記の展覧会の中で、芳名帳のタイトルから規定すると、おそらく日本橋の北荘画廊で開かれた1949年(昭和24)、ないしは翌1950年(昭和25)の遺作展の会場に置かれていたものではないかと思われる。
 ちなみに、日本橋の北荘画廊では、三岸好太郎遺作展に先だつ前年1948年(昭和23)11月に、下落合4丁目2096番地のアトリエClick!に住み同年6月に急死した松本竣介Click!の遺作展を開き、つづいて1949年(昭和24)6月には出征先の戦場で病没した靉光Click!の遺作展を開催している。まるで今日の中国洋画界のように、1945年(昭和20)8月まで発表の場を徹底的に奪われ、弾圧されつづけてきたシュールレアリストや前衛美術家たちの作品が、いっせいに注目を集めはじめた時期でもあった。
 当時の様子を、1992年(平成4)に求龍堂から出版された匠秀夫『三岸好太郎―昭和洋画史への序章―』から引用してみよう。
  
 敗戦後の民主化風潮の高まりとともに、日本美術会の結成(二一年)、その主催によるアンデパンダン展の開催、日本アヴァンギャルド美術クラブの結成(二二年)、読売新聞アンデパンダン展開催(二四年)、二科会前衛派九室会の再発足、山口薫、村井正誠、矢橋六郎の自由美術家協会からの分離、モダンアート協会の結成(二五年)等々、昭和一〇年代後半期に圧殺された前衛芸術の芽は一斉にほころびはじめる。/こうしたなかで、三岸は再び公衆の前にその姿を現す。昭和二五年三月(七~一四日)、日本橋・北荘画廊での遺作展がそれであり、<水盤のある風景><少年道化><乳首><蝶と裸婦><オーケストラ>等二五点が出陳された。三岸の復活である。
  
 さて、このような状況を背景に、三岸好太郎遺作展を訪れた人々の顔ぶれを見てみよう。ちなみに、芳名帳にはそうそうたる画家や美術関係者が名を連ねているが、ここでは拙サイトに登場している人物のみにスポットを当ててご紹介したい。

 
 

 
 やはり真っ先に目についたのは、三岸節子の女性画家仲間では唯一の親友である藤川栄子Click!だ。大正末には、旧・神田上水(現・神田川)をはさみ下落合のすぐ南に隣接する、戸塚町上戸塚(宮田)397番地(現・高田馬場3丁目)に住んでいた三岸夫妻だが、このころからふたりは親しく交流していたと思われる。遺作展の案内状をもらった藤川栄子Click!は、さっそく戸塚3丁目866番地(現・高田馬場4丁目)のアトリエClick!から三岸節子のもとへ駆けつけているのだろう。
 当時、下落合にアトリエをかまえていた画家たちの名前も、チラホラ記載されている。まず、「米国に勝てるわけない」といいつづけていた洋画家の妻・伴敏子Click!に対し、戦争には絶対に勝つと敗戦間際まで大本営発表を信じつづけた中村忠二Click!の名前が見える。敗戦ののち、彼の内部ではどのような総括が行われたものだろうか、芳名帳の最初のページに名前があるので、三岸好太郎遺作展を待ちかねて来場しているように見える。コペルニクス的な転回を見せる敗戦後の美術界を前に、もう一度イチから出直しのつもりで“前衛表現”を学びに訪れたのかもしれない。妻・伴敏子の名前がないので、おそらくひとりで来場したのだろう。
 同遺作展の目録には、田近憲三が「三岸好太郎氏の遺作展によせて」という文章を寄せている。同書より、その一部分を孫引きしてみよう。
  
 世に鬼才を云うかぎり私達は故三岸好太郎氏に較べるべき才能を見出さない。この鬼才の制作とその慌しい逝去に対して、かつての画壇が久しく無関心でありえたとは何うした神経をゆぎさすものであらうか。三岸好太郎氏が逝いて一七年、その制作は、唯今となってはじめて知る芳烈な近代性に輝いている。それは作品の精神となり、香となって漂うている。しかもフォーヴからシュールレアリズムの運動にかけて、多くの作家が概念的にとらわれ、その形式に固着して、かたくなな渋滞を示したのに反して、同氏の制作と生涯は暗夜に彗星がよぎるにも似た爽快と奔放をあらわした。
  
 
 
 

 下落合2丁目667番地の洋画家で版画家の吉田博アトリエClick!からは、目白文化協会Click!に参加していた吉田遠志Click!吉田穂高Click!の兄弟が、そろって芳名帳に記帳している。原精一Click!をはさみ兄弟ふたりが署名しているので、おそらく3人が連れ立って来場したものだろうか。同じページには、長崎アトリエ村の“桜ヶ丘パルテノン”Click!近く、長崎3丁目16番地に住んだ寺田政明Click!の名前も見える。この時期、寺田は自由美術家協会に属している。
 また、上落合1丁目(番地は不明)に住み、下落合の周辺や旧・神田上水沿いをスケッチしてまわる吉岡憲Click!も来場している。東中野の踏み切りで、中央線に飛びこんで自裁する6年前に当たり、ちょうど『目白風景』Click!をタブローに仕上げていたころだ。下落合の西隣り、妙正寺川に架かる北原橋西詰めの丘上(上高田422番地)にアトリエClick!をかまえていた、日展の耳野卯三郎Click!も同遺作展を訪れていた。
 さらに、下落合4丁目1995番地の川口軌外Click!アトリエに通いつづけた、洋画家で映画美術監督の久保一雄Click!も北荘画廊を訪問している。盟友の黒澤明Click!たちと、米軍(GHQ)の戦車や装甲車、航空機までが出動した東宝争議を闘ってから間もない時期で、1948年(昭和23)に独立美術協会Click!の会員になったばかりのころだ。ついでに、新樹会の画家・大河内信敬Click!も同遺作展を訪れているが、久保一雄の古巣である東宝から大河内の娘・桃子が、同展の4年後に映画デビューしている。もちろん、1954年(昭和29)に制作された『ゴジラ』Click!(本多猪四郎・円谷英二監督)のヒロイン・河内桃子だ。
 そして、拙サイトの記事に関連して登場している画家たちには、三岸好太郎らとともに結成した画会「麓人社」Click!つながりの倉田三郎Click!が、独立美術協会の関連では鈴木保徳Click!や高畠達四郎、野口彌太郎Click!が、そして自由美術家協会からは麻生三郎や鶴岡政男、難波田龍起Click!たちが遺作展を観にきている。
 
 
 

 そのほか、このサイトに登場した人物には、美術評論家の江川和彦Click!や四宮潤一、三岸節子とは岡田三郎助の画塾時代からの知己で、美術をめざす女学生たちを前に「こんなところで勉強してちゃダメ」といって激怒させる女子美術大学の森田元子、プロレタリア美術の小林源太郎Click!、仏文学者の小松清Click!、そして日展(旧・帝展)では田村一男Click!小寺健吉Click!、鈴木栄三郎、鈴木千久馬Click!辻永Click!などが姿を見せている。このような顔ぶれに、大日本帝国の滅亡から新時代を迎えた美術界の、そして三岸好太郎の作品群を改めて見つめる彼らの眼差しから、いったいなにが読みとれるだろうか?

◆写真上:三岸アトリエに残る、シャコガイの一種とみられる大きな貝殻。
◆写真中上は、「三岸好太郎遺作展」芳名帳の表紙/表4。中上は、藤川栄子()と中村忠二()の署名。中下は、このサイトでお馴染みの藤川栄子()と、伴敏子『忠二素描』=中村忠二()。は吉田遠志や吉田穂高、原精一、寺田政明らの署名()に、吉田遠志(下左)と目白文化協会時代の吉田穂高(下右)。
◆写真中下は、寺田政明()と吉岡憲()。中上は、吉岡憲()と倉田三郎や久保一雄()の署名。中下は、久保一雄()と高畠達四郎()。は、小寺健吉や仏文学者の小松清、1930年協会Click!からお馴染みの野口彌太郎などの署名。
◆写真下上左は、麻生三郎(後方)で手前は松本竣介。上右は、ガマガエルを持つ鶴岡政男。中上は、麻生三郎()と田村一男や森田元子()の署名。中下は、森田元子()と長谷川利行Click!が描いた『四宮潤一氏』()。は、1954年(昭和29)に東宝・砧撮影所でデビュー早々に“FRIDAY”された、大好きな“彼”とデートする大河内信敬の娘・桃子。w ちなみに、“彼”もこの作品がデビュー作だった。