今年(2017年)7月3日に、中村彝Click!アトリエで開催された生誕130年記念会Click!で、清水多嘉示Click!のお嬢様・青山敏子様Click!より、中村彝がパリにいる清水多嘉示にあてた1923年(大正12)12月22日付(パリ消印)の手紙をお見せいただいた。その手紙の写真を拙サイトに掲載したところ、中村彝研究の第一人者である舟木力英様Click!より、「中村彝本人の筆跡には見えない」という興味深いご指摘をいただいた。そして、当時、彝の周辺にいた誰かが代筆したのではないか?……と想定Click!されている。
 わたしはうかつにも、1923年(大正12)秋に銀座伊東屋の原稿用紙に書かれた中村彝の書簡、すなわち『芸術の無限感』(岩波書店/1926年)所収の清水多嘉示にあてた手紙の現物を、青山様から同時に見せていただいたのだが、その手紙の筆跡と同年12月22日付の乱れて読みにくい手紙の筆跡を、病状の悪化による不安定な筆跡によるものと勝手に印象づけてとらえていた。だが、改めてふたつの手紙の筆跡を比較してみると、確かに筆記の手ぐせがまったく異なっている。
 彝の手紙やハガキの筆跡は、おしなべて判読しやすい。手もとにある資料では、たとえば20歳のころに書かれたものだが、中村彝から野田半三Click!あてに茨城県の川尻から投函されたハガキがある。1907年(明治40)7月30日付のタイムスタンプで、平仮名とカタカナが混在する文面だが、おおよそ考えこまずに読み進めることができる。
 それから約16年後に書かれ、『芸術の無限感』に収録された1923年(大正12)秋の原稿用紙を便箋がわりにした手紙の文面も、それほどひっかからずにスラスラと読み進められる。同手紙の最後には、「色々話したいこと、尋ねたいこと、頼みたいことがあるが書くのが少し疲れたから余々後便にゆづることにしよう 御身お大切に祈ります。彝、愛する清水多嘉示君」とあるので、本人が筆記しているのにまずまちがいはないだろう。ところどころに崩し文字も見られるが、基本的に楷書書きのわかりやすさは、20歳のころの筆跡の読みやすさを継承している。
 ところが、ほぼ同時期にパリの清水多嘉示へ送られた12月22日付の手紙は、一転して非常に読み取りにくい。わたしの崩し文字に対する判読・読解力が拙劣なせいか、なにが書いてあるのかよくわからない箇所がたくさんある。舟木様によれば、ここに登場する名前は米国にわたった画家たちで平賀亀祐と幸徳幸衛、そして松原兆雄のことが書かれているという。これら画家たちの予備知識があらかじめなければ、とうていスムーズに読み進むことができない内容だ。
 さて、パリの郵便局で押された消印が1923年(大正12)12月22日付のこの手紙だが、中村彝の筆跡でないとすれば、いったい誰が口述筆記をしたものだろう。当時の郵便事情を考慮すれば、おそらく同手紙は11月中に彝アトリエで書かれて投函されたものと思われる。中村彝とその周辺の様子や出来事をたどることで、彝のごく身近にいた人々のうち誰が代筆したものなのか、なにか探れやしないだろうか?
 1923年(大正12)の秋は、おそらく中村彝が下落合464番地にアトリエClick!を建ててから最悪の年だったろう。まず9月1日に関東大震災Click!が起きて、アトリエ全体が北西に少し傾き、アトリエ東側の内壁が崩落している。彝は同日、岡崎きいClick!とともに薬王院Click!裏にあたる下落合800番地の鈴木良三の借家へと避難Click!している。鈴木良三は、前日の8月31日に雑司ヶ谷から転居してきたばかりだった。このとき、鈴木良三は彝アトリエの後片づけを寄宿していた河野輝彦Click!と、下落合645番地に住んでいた鶴田吾郎Click!に託しているが、鶴田は自宅が半壊していたので、ゆっくり修復の手伝いなどしてはいられなかったろう。



 地震から半月たった9月16日に、中村彝は鈴木良三宅からアトリエへともどっている。アトリエの修理は、おもに大工あがりの河野輝彦と画学生の本郷惇にまかせ、彝は再び絵を描く準備を進めている。ちなみに、この時期にいまだ19歳だった本郷惇は、彝アトリエの近くに住んでいた可能性があるが、どこに住んでいたのかは不明だ。彝アトリエには、すでに河野輝彦が寄宿をしていたので、本郷惇も居候していたとは考えにくい。
 大震災の影響から、無理がたたって疲れが出たのか、彝は9月の下旬からたびたび発熱するようになる。そして、おそらく10月中にパリの清水多嘉示あてに『芸術の無限感』所収の手紙を書いたが、11月初めからひどい発熱で床につくことになる。10月末から取りかかっていた、『頭蓋骨を持てる自画像』(40号)の制作中に倒れたのだ。以来、彝は年末まで起きることができず、病臥したままの状態がつづいている。12月1日に、曾宮一念が会津八一Click!を連れてやってきたときも、彝はいまだ寝たきりの状態だったことが、1925年(大正14)に発行された「木星」2月号(中村彝追悼号Click!)収録の会津八一の追悼文『中村彝君と私』からもうかがえる。
 こうして、当時の様子をたどってみると、同年12月22日付(パリ消印)の読みにくい手紙は、11月初めに彝がひどい発熱をして起きられなくなったタイミング、まさにその時期に重なるように書かれたであろうことが想定できる。誰か近くにいる人物に、口述筆記を頼まざるをえなくなるような重篤な病状だった。関東大震災が起きた年の秋、中村彝のもっとも身近にいた人物で、しじゅう顔を合わせていたとみられる人々には鈴木良三をはじめ曾宮一念、鶴田吾郎、河野輝彦、本郷惇、岡崎きいなどがいる。
 この中で、大震災により借りていた家が半壊し、下落合804番地に改めてアトリエ付き住宅の建設を計画していた鶴田吾郎は、多忙でそれほど頻繁に彝アトリエへは顔を出せなかったかもしれない。また、美術仲間へ向けた手紙の代筆を、「おばさん」こと岡崎きいに頼んだとは考えにくい。さらに、たいせつな友人あての私信代筆を居候の河野輝彦や、画学生の本郷惇に任せたかというといまいち疑問が残る。やはりここは、以前から中村彝と清水多嘉示の親しい関係を熟知していて、それを踏まえながら手紙の口述筆記を信頼して任せられる画家仲間が、もっとも代筆候補としてふさわしい存在だろうか。
 すると、中村彝が信頼していた画家で、近所に住み毎日でもアトリエへ顔を見せそうな人物としては、鈴木良三と曾宮一念が残ることになる。ただし、記録に残っていないだけで、鶴田吾郎や鈴木金平Click!二瓶等Click!なども頻繁に彝アトリエを訪問していたかもしれず、あくまでも当時の状況から類推した想定にすぎないのだが……。



 さて、青山敏子様のもとにパリの清水多嘉示に向け、鈴木良三が書いた1928年(昭和3)1月25日付の手紙が残っている。昭和に入ると、落合地域の西隣りにあたる野方町江古田931番地に住んでいた鈴木良三は、同年5月にフランスへ向けて出発することになるが、パリで暮らすために必要な月々の生活費などを問い合わせている。清水多嘉示はすぐに返事を書いたとみられるが、同年5月に清水が帰国しているので、ふたりはシベリア鉄道(清水)と船便(白山丸:鈴木)とで入れちがいになっている。
 この手紙を見ると、鈴木良三の筆跡は非常にきれいで、1字1字ていねいな書き方をしていることがわかる。もっとも特徴が出やすい仮名文字の書き方も、くだんの代筆とみられる手紙の文字とはほとんど似ていない。したがって、口述筆記とはいえ、まるで書きなぐりのような判読しづらい文字を、しかも中村彝の手紙として書くことはありえそうもない。では、曾宮一念はどうだろうか。
 手もとにある曾宮の自筆は、1921年(大正10)正月に書かれた年賀状Click!だ。筆文字とペン字が混在しているが、筆文字は字の姿が大きく変わってしまうので、ペン字の字体とはあまり比較の対象にはならないだろう。下落合623番地に建設中のアトリエが竣工間近なので、近々そちらへ転居することをペン字で年賀状の裏に書き添えている。その「ま」の丸め方や「り」のつなげ方、「に」を「Z」のように書くクセなどが、代筆の手紙の書体によく似ているのだ。このわずかな類似点をもって、曾宮一念が代筆したとはまったく断定できないが、可能性はあるかもしれない。
 そんなことを想像しながら、代筆の手紙を眺めてみるととても面白い。
 「…よろしく傳へて下さい。中村生、清水さん…と、以上だな」
 「…清水さん…と」
 「一念くん、書けたかい? どれ、見せてごらん」
 「うん、なんとか書けたよ。ほら」
 「…………読めんな」
 「だっ、だからオレ、字がヘタだっていったじゃん!」
 「……読めんな」
 「だから、あれほどいったじゃん!」
 「……誰かに清書させたくても、わからんな」
 「清水くんなら、きっと読めるぜ」
 「…ま、いっか」
 「うん、きっと大丈夫さ」
 「パリへとどかないといけないから、宛名書きはほかの誰かに書かせよう」…。w
 
  

 文中で触れている、1928年(昭和3)1月25日に江古田931番地の鈴木良三から、パリの清水多嘉示あてに出された手紙は、佐伯祐三Click!を含め下落合に住んでいる画家や美術家たちが何人か登場しているので、機会があればまた詳しくご紹介したい。

◆写真上:復元された中村彝アトリエ(現・中村彝アトリエ記念館)のテラス。
◆写真中上は、1923年(大正12)12月22日パリ消印の代筆とみられる中村彝から清水多嘉示にあてた手紙。は、1923年(大正12)の秋に彝アトリエに住んでいた親しい友人たちの家。は、1925年(大正14)に今村繁三邸(假楽園)で撮影された画家たちの記念写真で彝の親しい画家たちが多く写っている。
◆写真中下は、1926年(大正15)に出版された『芸術の無限感』(岩波書店)所収の彝から清水多嘉示にあてた手紙。は、20歳の彝が写生旅行中の川尻から野田半三あてに出したハガキ。は、1928年(昭和3)1月25日に鈴木良三から清水多嘉示にあてた手紙。
◆写真下は、鈴木良三の筆跡と彝の代筆とみられる筆跡の比較。は、曾宮一念の筆跡との比較。は、1961年(昭和36)12月撮影の中村彝会の墓参記念写真。
掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によるものです。