以前、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)に建っていた刑部人アトリエClick!の北側バッケ(崖地)Click!を描いた、1967年(昭和42)制作の刑部人Click!『花開く』Click!をご紹介していた。今回は、その4年後に同じ崖地を描いた1971年(昭和46)制作の『我が庭』を、下落合風景の1作としてご紹介したい。刑部人が、65歳のときの作品だ。
 『花開く』が30号Fサイズだったのに比べ、『我が庭』は15号Fサイズと刑部人の風景作品にしては小さい部類に属する。描かれた白い花の樹木は、早春に咲くコブシの木だろうか。地面に散らすように描かれた薄紫色の花々は、このあたりに多かったアブラナ科のムラサキダイコンなのかもしれない。いまだ冬枯れが残る周囲の木々の様子から、2~3月ごろの情景だろうか。『花開く』の季節より、少なくとも数か月は早い時期に描かれたアトリエ北側の情景に見える。
 少し前、1931年(昭和6)に制作された『睡蓮』Click!について書いたが、その際、下落合のバッケ(崖地)には豊かな地下水脈が通っている様子をご紹介した。刑部人アトリエClick!の西側にあった池も、『我が庭』の急斜面から湧き出る清水によって形成されたものだ。この豊富な地下水脈が、昔から下落合に見られるケヤキやクヌギ、クス、コナラ、カエデ、モミジ、カシ、ムクノキ、コブシなど数多くの大樹を育み、鬱蒼とした丘の連なりを形成してきた。
 下落合の丘を含み東西へ長くつづく目白崖線は、「武蔵野段丘」あるいは「豊島台」と名づけられた丘陵地帯の一画を形成しているが、新宿や市谷、四谷一帯にまたがる「下末吉段丘」ないしは「淀橋台」に比べ、関東ロームの赤土が落合地域を中心にかなり薄いこともかつてご紹介Click!している。「淀橋台」が約10mの関東ローム(赤土)に覆われているのに対し、「豊島台」の薄いところでは半分の約4~5mほどしか赤土が堆積されていない。ちなみに、わが家の敷地の下はボーリング調査によれば約4m強がローム層で、その下にある粘土層に突きあたる。
 つまり落合地域では、表土層および関東ローム(赤土)層の厚さが、長い時間の侵食などでさらに薄くなり、特に急斜面などで豊富な湧き水がみられる要因となっているのだろう。刑部人アトリエの北側の急斜面も、表土のすぐ下に地下水脈を含む粘土層や砂礫層が走っている様子がうかがえる。新宿区の調査によれば、目白崖線でもっとも関東ローム(赤土)が厚いのは江戸川公園の約10m、御留山Click!の谷戸部が5m、落合第四小学校Click!は地形改造によるものか約1.5m、薬王院が約5m、落合村の本村=聖母坂下界隈が約4mという結果になっている。
 1967年(昭和42)に新宿区図書館資料室から発行された、下落合の地質について解説する『図書館資料室紀要Ⅰ/落合の横穴古墳』から少し引用してみよう。
  
 下落合の台地の地質は、豊島台の地層とややことなっているようである。横穴古墳のあったところは、下部から記すと砂層であり、その上は砂質粘土層(約2m)で、その中に礫と貝化石を含んだ黄褐色の粘土層をはさむ。その上に火山灰質の白色粘土層(約0.3m)、さらにローム層(厚さ4~5m)がかさなる。これは目白、江戸川公園の台地(豊島台)の地層とややことなっている。しかし藤稲荷や落合第四小学校付近では、上部から関東ローム層、粘土層、砂礫層となり、その下部が砂層になっているようである。(略) 低地は沖積層といわれる砂または泥層で、その下部に東京層Click!の砂・泥層または粘土層がある。神田川の川床にその一部が露出しているところがある。
  




 この記述は、下落合弁財天のある湧水源の北側斜面(下落合横穴古墳群Click!)について書かれたものだが、おそらく刑部人アトリエの北側にみられたバッケ(崖地)も、同じような地層の組成になっているものと思われる。
 さて、『我が庭』はアトリエ北側の庭先を描いたものだが、白いコブシの花らしい樹木(サクラかもしれない)をとらえた写真が、刑部佑三様Click!のカメラに収められている。画室の内部から北側のバッケを見上げた画面だが、急斜面を少し上ったあたりに樹影の似ている白い花が咲いている。同一の樹木かどうかは不明だが、このように豊かな水脈が通う下落合の斜面には、武蔵野を代表する多彩な樹木が生育している様子がわかる。残念ながら、刑部アトリエが建っていた北側のバッケは現在、武骨なコンクリートの擁壁でふさがれてしまったが、四ノ坂Click!をはさみその西並びにある林芙美子記念館Click!の北側では、同様の地形や植生を観察することができる。
 『我が庭』は、2004年(平成6)に栃木県立美術館で開催された「刑部人展-昭和日本紀行-」に展示されているが、その図録を中島香菜様Click!よりお送りいただいた。収録されている作品群を眺めていると、子どものころNHKで放送されていた「新日本紀行」のテーマ曲(冨田勲)が聴こえてきそうだ。詳しく拝読すると、いろいろ面白いことがわかる。1951年(昭和26)ごろから、ともに日本各地を写生旅行していた金山平三Click!が1964年(昭和39)に死去すると、刑部人の作風がペインティングナイフの技法を中心に、やや変化を見せている様子が指摘されている。以下、同図録から引用してみよう。




  
 ペインティング・ナイフによる、きらきらするような筆触は、金山平三の多用した長いストロークに匹敵する。刑部のトレードマークとも言えるマニエラ(技法)となっていった。1967年の《花開く》(略)など、1960年代のとりわけ花を描いた作品にはそうした筆触を特徴的に見ることができる。ここでは画家の一連の動作が、何の無駄も無理もなく、自然に進んでいく。パレットからナイフにすくいあげられた絵具が、カンヴァスに触れる。画家の手の圧力によって、絵具の塊は形を変えながらカンヴァスの上をさっと動いていく。動きながら複数の絵具の色が混じり合い、カンヴァスの上にひろげられていく。/一瞬にして成されるナイフのストロークは、絵具そのものがまるで動いている途中にあるかのようなスピード感を見る者に与える。今まさに落ちようとする朝霧を、翳ろうとする陽光を、あるいは夜の闇の中を切り裂くように閃く車のヘッドライトを、描きとめるのに、これはきわめてふさわしい描法であったろう。
  
 図録に収録されている詳細な年譜を参照すると、刑部人と金山平三Click!が写生旅行へ出かけたのは、旅先での合流を含めると実に20回に及んでいる。
 また、「刑部人展」図録には刑部人が府立一中時代に描いた、1919~1922年(大正8~11)までのめずらしいスケッチが収録されている。おそらく、当時住んでいた北豊島郡西巣鴨町宮仲2486番地(現・東池袋2丁目)の自宅周辺を描いたものだろう。ちょうど、明治からつづく東京15区の市街地が、郊外へと急激に膨張しはじめたころの風景で、1923年(大正12)の関東大震災Click!を契機に人口の大移動が起きる直前の姿だ。
 画面を観察すると、いまだ畑地(麦畑だろうか)と建てられたばかりの住宅が、あちらこちらで混在している様子がうかがえる。住宅の意匠は、当時のサラリーマンが建てるようなごく一般的な2階建ての日本家屋で、大震災前のせいかどの家も屋根に瓦を載せているようだ。住宅の合い間を縫うように、農業の灌漑用水に使われていたとみられる水路がそのまま残されている。散在する住宅と畑地が拡がる一帯の風景には、市街地の街角用にデザインされたらしい、おシャレな街灯がポツンとひとつ灯っているのが、当時のアンバランスで混沌とした東京郊外の風景を象徴しているようで面白い。





 1922年(大正11)の暮れに、刑部一家は豊島郡池袋966番地(現・池袋3丁目)に引っ越しているが、その転居先も西巣鴨町とほぼ同じような風情が拡がっていただろう。もし、刑部人が池袋の自宅周辺を西巣鴨町と同様にスケッチブックに残していたら、同地域を描いた洋画家たちの中ではかなり早い時期に属するのではないだろうか。池袋から長崎にかけ、いわゆる「アトリエ村」に居住する多くの洋画家たちが、周辺に拡がる風景をスケッチするのは、もう少しあとの昭和に入ってからの時代だからだ。

◆写真上:1971年(昭和46)にアトリエ北側のバッケを描いた刑部人『我が庭』。
◆写真中上は、アトリエの解体後に撮影した北側のバッケ(上)と刑部邸跡の敷地(下)。は、刑部人が旅行などで携帯していた画道具。は、島津源吉邸Click!の庭で1931年(昭和6)ごろに撮影された刑部人・鈴子夫妻とシチメンチョウClick!
◆写真中下は、1967年(昭和42)に制作された刑部人『花開く』。は、刑部人アトリエの風景いろいろ。(以上の写真3点は撮影:刑部佑三様)
◆写真下は、1926年(大正15)に作成された「西巣鴨町東部事情明細図」(上)と1929年(昭和4)作成の「西巣鴨町市街図」(下)にみる西巣鴨町宮仲2486番地。大正末でも、周囲にはいまだ畑地や空き地が拡がっているようで、同地番には茂沢邸と鴻池邸が採取されている。は、府立一中時代の刑部人が1920年(大正9)に自宅周辺を描いたとみられるスケッチ類で上から下へ順番に『風景1920-1』『風景1920-3』『風景1920-4』。