ずいぶん以前、下落合(1丁目)310番地(現・下落合2丁目)の御留山Click!に建っていた相馬邸Click!が、中野へと転居した経緯をご紹介Click!した。1936年(昭和11)2月に死去した相馬孟胤Click!にかわり、相馬家の跡を継いだ相馬恵胤が家督相続をしてから決定されたものだ。
 相馬家の家族たちは、1939年(昭和14)まで下落合に住み、そのあと第一徴兵保険Click!太田清蔵Click!に御留山の土地や家屋を売却すると、中野区広町20番地(現・中野区弥生町6丁目)に5,000坪の土地を購入して転居している。この間の事情は、相馬家一族のおひとりである相馬彰様Click!よりうかがっていたが、中野の相馬邸についてもいくらか地図などの資料類をいただいていたので、改めてこちらでご紹介しておきたい。
 中野区広町20番地は、ちょうど旧・神田上水(1966年より神田川)と善福寺川とが落ち合う位置に形成された高台の地形で、南西から北東に向け半島のように突き出した丘陵地の先端部分にあたる。現在の地勢でいえば、東京メトロ・丸ノ内線の方南町駅から直線で北東方向へ400m余、駅から歩いて5~6分ほどでたどり着ける距離になる。東京メトロ中野検車区の西隣り、神田川をはさみ西側の高台一帯が中野区広町の相馬邸跡ということになる。広町相馬邸の北側は、善福寺川へ向けてなだらかな斜面がつづくが、東側の神田川に面した斜面は急傾斜のバッケ(崖地)Click!に近い斜面となっている。
 相馬家は、下落合の土地家屋を売却したあと、すぐに中野広町へいっせいに引っ越しているわけではなく、広町の高台へいくつかの建物が竣工してから順次転居しているとみられる。1940年(昭和15)の1/10,000地形図には、広町20番地に大小の建物が2つほど記載されているので、おそらく下落合からの転居は同年から翌年にかけてとみられる。翌1941年(昭和16)の斜めフカンから撮影された空中写真には、敷地の北寄りに大きな建物がいくつか見え、また敷地の南側にも工務店の建設作業小屋だろうか、白い屋根がふたつ捉えられている。
 中野広町の高台に、新たな相馬邸が残らず竣工したのは、おそらく1942~43年(昭和17~18)ごろとみられる。1944年(昭和19)に撮影された空中写真には、北側の大きな屋敷と広い芝庭、それより規模がやや小さい南側の屋敷と芝庭が写っている。おそらく北側の大屋敷が本邸(表屋敷)で、南側の少し小さめな屋敷が隠居屋敷、あるいは家族がよりくつろげるプライベートな私邸のような使われ方をしたものだろうか。空中写真で眺めるとピンとこないが、建設された屋敷や南側に造成された芝庭は、周辺の濃い屋敷林を残しつつとてつもない広さだ。
 現地を実際に歩いてみると、その広大さがよく実感できる。方南通りを神田川に架かる栄橋方面へ歩いていくと、その手前で北へ斜めに入る道路がある。この道は江戸期からつづく古い街道で、そのまま北へ進むと善福寺川に架かる駒ヶ坂橋へと抜ける。相馬邸敷地の西に接したこの道から、当初は蛇行していた東側の旧・神田上水の岸までの南北に長い丘陵地が、すべて広町相馬邸の敷地だったことになる。江戸期から明治期にかけての古い字名の境界でいえば、相馬邸の広い敷地は東側と南側は(字)広町、西側は(字)本村でふたつの字名地にまたがっていた。現在の地勢でいえば、中野区の最南端に位置する地域で、すぐ南西側を杉並区エリアの和田堀内に接している。最寄りの方南町駅は、杉並区方南2丁目に設置されている。




 地形図から読みとれば、相馬邸の北側に建っていた大屋敷のほうが少し低めの位置にあり、南側の邸がやや高めな位置に建っていたように思えるが、両邸の建設と同時に大規模な整地が行なわれ、ともに水平の敷地になっていたのかもしれない。1944年(昭和19)の空中写真を観察する限り、両邸とも和館が中心だったような意匠をしているが、北側の大屋敷は一部に洋館部のある和洋折衷の造りだったように思われる。
 広町の相馬邸は、両邸とも空襲で全焼しているが、家族は戦後もしばらくの間、敷地の東寄りに建っていた長屋に住みつづけていたのを、相馬様よりうかがっている。やがて、相馬邸敷地は東京都住宅供給公社が買収し、そこへ建物間にたっぷりとした広場を設けた全9棟の公社団地が建設されていることからも、その敷地の広大さがうかがい知れる。現在は、敷地の北側にコーシャハイム中野弥生町の高層集合住宅が建っているが、公務員弥生宿舎になり7棟の集合住宅が建てられていた南側は、広い空き地(草原)として開発予定地になったままだ。
 現地のどこかに、当時の相馬邸をしのばせる痕跡がないかどうか探したが、敷地北側の東西道(現在の丸太公園北側の接道)沿いに、昭和初期に設置されたとみられる古いコンクリートの擁壁を確認できる。良質の玉砂利Click!がふんだんに使われた、明らかに戦前の仕事だと思われるので、これが相馬邸時代からつづく当時の擁壁の一部だろう。相馬邸跡を1周してみたが、都住宅供給公社の団地が建てられる際、おそらく土地の大改造が行なわれているとみられ、当時の面影は先のコンクリート擁壁のみしか発見できなかった。




 さて、相馬邸跡をしばらく散策したあと、方南町駅の南側の杉並区側へ入り、釜寺東遺跡(方南2丁目)の発見場所を見学することにした。遺跡一帯は、神田川へ向けて南へ下がる河岸段丘の斜面で、下落合よりも傾斜の角度は緩やかだが、どこかよく似た風情をしている。その南斜面で、2004~2005年(平成16~17)にかけて大規模な発掘調査が行なわれ、中野区の向田遺跡を含め、神田川流域で最大クラスの古墳時代後期の集落跡が発見された。つまり、このあたり一帯が古墳後期における大きな“街”だったことが、改めて確認されたわけだ。
 だが、これら規模の大きな集落跡に見あう数多くの古墳が、近隣でほとんど発見されていないのはどうしてだろう? この地域もまた、戸塚から落合、大久保、角筈にかけて伝承されている「百八塚」Click!の経緯と同様に、多くの古墳が開墾されたり、開発や宅地造成で崩され住宅街の下になってしまったのではないだろうか。また、釜寺東遺跡の釜寺=東運寺の名が示すとおり、遺跡が発見された南斜面には江戸期から墓域が形成されており、実は同じ斜面に近接して古墳後期のコンパクトな古墳群、たとえば横穴古墳群Click!地下式横穴古墳群Click!などが形成されていた可能性もある。いずれにしても、現在はすべてが住宅や墓地の下になっており、発掘や調査は容易ではないだろう。
 釜寺東遺跡は現在、その一部が方南二丁目公園になっているが、西側に隣接した東運寺(釜寺)の広い墓地はともかく、その周辺で住宅のリニューアル工事が行なわれれば、地下からなにか新たな発見があるかもしれない。神田川から眺めた方南2丁目の南斜面は、目白崖線に比べてかなり低くてなだらかだが、縄文期から古墳期にかけて家々が建ち並びそうな、いかにも住みやすそうな地勢をしている。下落合の御留山の地形を考慮すれば、広町の崖地よりも方南2丁目の南斜面のほうが相馬邸の敷地に適しているように感じるのだが、おそらく東運寺(釜寺)の墓域が拡がっていたのと、早くから宅地開発が行なわれていたせいで、まとまった広い地所を入手するのが困難だったのではないだろうか。



 将門相馬家が明治末から大正初期にかけ、なぜ赤坂からの転居先に下落合の御留山を選定しているのか、さまざまな角度から検証Click!し、また落合地域の妙見信仰Click!神田明神Click!とのつながりからも考察してきたけれど、下落合からの転居先として、なぜ中野区の広町を選択しているのかを、いろいろな角度から近々検討してみたいと考えている。

◆写真上:広町相馬邸の北側邸跡に建つ、住宅供給公社のコーシャハイム中野弥生町。
◆写真中上は、1939年(昭和14)の1/10,000地形図に採取された建設中の相馬邸(北側邸/)と、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された空中写真にみる相馬邸(北側邸/)。南側には、工務店の建設小屋らしい建物の屋根が白く2棟見えている。は、1944年(昭和19)撮影の空中写真にみる敷地北側と南側の両邸。は、敷地北側の道路沿いに残った相馬邸のものと思われるコンクリート擁壁。
◆写真中下は、相馬邸跡の北側で神田川(手前)と善福寺川(左手)が落ち合う合流点。は、神田川沿いから見上げた相馬邸(北側邸)跡の崖地。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる空襲で全焼した相馬邸敷地の2つの邸跡()と、同年に制作された1/10,000地形図にみる相馬邸焼け跡()。
◆写真下は、広い草原のままとなっている相馬邸敷地の南側邸跡。は、神田川が流れる南向き緩斜面の釜寺東遺跡。その一部が、記念に方南二丁目公園として残されている。は、釜寺東遺跡から出土した古墳時代後期の遺物。