1973年(昭和48)に、早稲田大学校友会の学報編集委員会から発行された「早稲田学報」に、佐伯祐三Click!に関する面白い文章が掲載されている。『佐伯祐三の手紙と鴨の画』と題する、同大学のOB池田泰治郎のエッセイだ。池田の母親である池田ヨシは、佐伯の妻である米子夫人Click!(池田ヨネ)の姉であり、佐伯米子Click!から見れば池田泰治郎は甥ということになる。
 佐伯米子は、1972年(昭和47)11月に死去しているので、同エッセイはその翌年、間をおかずに書かれたことになる。このとき、下落合のアトリエで佐伯祐三や米子夫人の遺品を整理したのも池田泰治郎であり、少なくとも1957年(昭和32)(『みづゑ』2月号に掲載)までは存在が確認できる、佐伯の「下落合風景」Click!に関する「制作メモ」Click!が失われたとすれば、おそらくこのタイミングだったように思われるのだ。ひょっとすると、遺品整理のために佐伯アトリエの庭で行われた焚き火Click!へ、他の資料ともどもくべられてしまったのかもしれない。
 さて、同エッセイでは遺品整理の際に出てきた、佐伯祐三から米子夫人の姉・池田ヨシへあてた詫び状について書かれている。おそらく、池田家の知人の誰かから頼まれたのだろう、池田ヨシは佐伯に「鴨の絵を描いてほしい」とオーダーしたようだ。その知人は当然、生きて水面を元気に泳いでいる美しい鴨の画面を想定していたのだろう。ところが、佐伯が描いてとどけたのは、正月の雑煮用に狩猟でしとめられたあとの、死んだ鴨の“静物画”だった。w それについて、佐伯があわてて詫びを入れている手紙らしい。
 以下、「早稲田学報」の池田泰治郎『佐伯祐三の手紙と鴨の画』から引用してみよう。
  
 私はこれらの資料に加えて、私がかねて大切に保持していた祐三から私の母に宛てた手紙を、美術評論家であり、祐三の研究で知られる朝日晃氏(昭和二十七年文学部卒)にお見せしたのであった。朝日氏の愕きと悦びは大変なものであった。/なかんずく、母宛ての文中『鴨の画のこと実に失礼な事を致しました』との件りに大変興味を持たれた。このことは、私も、つとに関心を抱いていたことであって、母によれば、母の友人が生きた鴨の画が欲しいと思っていたのに、祐三はたまたま正月の雑煮用にと歳暮に贈られた“死んだ鴨”を描いてしまったのだという。しかしこれは世に知られざる逸話であり、絵の存在すらほとんどの人に知られずにいたのであった。
  
 ここで少し余談だが、おそらく下落合の佐伯家に正月の雑煮用としてとどけられた死んだカモは、東京の(城)下町Click!方面からとどけられている可能性がきわめて高い。ひょっとすると、池田家とも交流のある親しい知人か、姻戚からの歳暮ではなかっただろうか?
 いつかも書いたけれど、江戸時代からの日本橋雑煮Click!には鶏肉ではなく、正式には鴨肉を用いる。わたしの家では、鴨肉の脂の多さが苦手な家族がいるため(ちなみに鴨肉の脂身は、鶏肉よりもコレステロールが少ない)、代わりに鶏肉を使うことが多いが、本来は香ばしく焼いた鴨肉が、雑煮のメインとなる具材だ。ひょっとすると日本橋Click!の隣りにあたる、もともと池田家があった尾張町Click!(銀座)でも、江戸期から同様の習慣がつづいていたのかもしれない。


 1926年(大正15・昭和元)の暮れごろに、おそらく佐伯アトリエで描かれたとみられる『鴨』(8号F)だが、マガモの♂のようで足にタグが付いており、確かに白い器に載せられたそれは元気な様子には見えない。w 包装を解いて画面を目にした池田ヨシは、思わず「あら~ッ」と嘆息しただろうか。「……カモさん、寝てるカモ」、「あのな~、カモさん、死んでまんね。……そやねん」、「……まあ」。
 めずらしく、左下にバーミリオンで記載された佐伯のサインが見られるので、佐伯としてはうまく描けたという自信の一作だったのだろう。この作品は、現在でも個人蔵のままのようだが、1973年(昭和48)の当時も個人蔵で、おそらく池田家を通して絵を送った知人が、そのまま戦災をくぐり抜けて保存してきたのだろう。池田泰治郎は、朝日晃や「芸術新潮」の関係者を連れて、わざわざその知人宅まで『鴨』を観に出かけている。つづけて、同エッセイから引用してみよう。
  
 この四月六日、朝日晃氏と芸術新潮の方たち、そして私の計四人は、その所有者であるS様のマンションを訪れた。/まるで幻の恋人にでも逢うような、ふしぎな心のときめきである。確かに鴨の画であった。描かれて五十年ちかい歳月を経た画面は異様に燻り、小さな穴があき、傷ついていたが朝日氏が布でしずかに表面を拭うと、次第に祐三の息吹きが露れて来た。何ともいうぬ感動がはしり、皆が沈黙する中で、シャッターの音が響いていくのだった。
  ▲



 このほか、米子夫人が死去したあとの佐伯アトリエで行われた遺品整理では、ジャパン・ツーリスト・ビューロー大丸案内書(大阪)の、シベリア鉄道経由でパリまで出かける、1927年(昭和2)7月27日付けの運賃計算書や、パリでいっしょだった前田寛治Click!ら友人たちからの通信などが発見・保存されている。
 めずらしいのは、1923年(大正12)の夏、長野県の渋温泉で静養する佐伯夫妻のもとへとどけられた、関東大震災Click!の発生を知らせる池田象牙店の支店からのハガキだ。同エッセイによれば、ハガキのあて先は「サイキユーゾウ様」と妙なカタカナ表記で書かれていたらしく、鉛筆書きで文字も乱れがちな文面だったらしい。1923年(大正12)9月7日付けの急を知らせるハガキは、池田家の誰かではなく支店員か小僧に書かせたらしく、池田によればたどたどしい文章で「土橋の人命に変り無く御安心下さい。家は全焼しました。帰らずに下さい」というような内容だった。
 佐伯祐三は同ハガキを受けとると、米子夫人を宿に残したまま貨物列車に飛び乗り、単身で東京にもどった。すぐに池袋の山田新一Click!を訪ねると、ふたり連れ立って土橋Click!池田家Click!の様子を見に出かけている。そしてスケッチブックを手にすると、市街の様子を写生してまわったエピソードは、すでに河野通勢Click!震災記録画Click!とともにご紹介している。



 「早稲田学報」にエッセイを寄せた池田泰治郎だが、昨年9月に逝去したとうかがった。どこか資料類の紙束にまぎれて、あるいはクローゼットの片隅の段ボール箱に、「制作メモ」は残ってはいないだろうか? それが、いまだにとても気がかりなのだ。

◆写真上:1926年(大正15・昭和元)の暮れに描かれたとみられる、佐伯祐三『鴨』。
◆写真中上は、冬になると見られるマガモの番(つがい)。は、1920年(大正9)に制作された橋口五葉『鴨』。佐伯へ「鴨の絵」をオーダーしたクライアントは、このような画面を想定していたのではないだろうか。
◆写真中下は、1926~27年(大正15~昭和2)に描かれた佐伯祐三『人参』。は、おそらく1926年(大正15)の秋に描かれた佐伯祐三『ぶどう』。は、1970年代に撮影されたオープンして間もない母家が残る佐伯公園。(現・佐伯祐三アトリエ記念館)
◆写真下は、晩秋になると近所の池にたくさん飛来するカモ。は、下落合にあるカルガモClick!横断注意の道路標識。は、1957年(昭和32)の写真を最後に行方不明がつづいている佐伯祐三が記録した「制作メモ」。