目白文化村Click!の第二文化村、下落合1712番地にアトリエがあった宮本恒平Click!は、下落合西部(現・中落合/中井)を描くのが好きだったようだ。残された作品を見ると、大正末から1940年代にかけ、市街化が進んだ下落合東部(現・下落合)よりも、西部へ足を向けて描いている画面が多いように思う。帝展や本郷絵画展に出品していた宮本は、緑や畑地が多く残る郊外風景を描くのが好きだったようだ。
 宮本恒平をめぐるこれまでの記事では、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)に収録の、宮本恒平について記載している「人物事業編」について紹介していなかったので、改めて同書から全文を引用してみよう。
  
 洋画家 宮本恒平  下落合一,七一二
 東京府士族宮本得造氏の長男にして明治二十三年九月出世大正五年家督を相続す、同九年東京美術学校西洋画家(ママ:科)を卒業し、更に外国語学校専修科を卒へ外遊する事数年現に洋画壇中堅作家として知られてゐる。夫人ナカ子は東京月村徳之介の三女である、又令妹晴子は工学博士東京帝大教授田中芳雄氏に嫁せり。(カッコ内引用者註)
  
 わたしのオフィスに架けてある、宮本恒平『画兄のアトリエ』Click!(1945年1月)も落合西部……というか、目白学園の丘を背景に、上高田422番地に建っていた耳野卯三郎Click!アトリエを描いたものだ。昭和の初期、宮本恒平は森や田畑が多く残る落合地域の西部を散策しては、気に入った風景モチーフをタブローに仕上げていたのだろう。
 1929年(昭和4)発行の「美之国」2月号に掲載された、宮本恒平『落合風景』もそのひとつのように思える。『落合風景』は、第4回本郷絵画展に出品されているけれど、残念ながらカラーの画面では観たことがない。本郷展のあと個人所有となって行方不明か、戦災で失われてしまっているのかもしれないが、第二文化村の宮本恒平アトリエは空襲を受けていないので、そのまま保存されてるとすれば現存している可能性もある。あくまでも、印刷されたモノクロ画面なので、細かなマチエールや色づかいがわからないが、落合地域のどこを描いたものか、わたしなりにおおよそ検討してみたい。
 まず、画面でもっとも気になるのは、ちょうど中央に描かれていると思われる白いタワー状の構造物だ。落合地域とその周辺域にお住まいの方なら、すぐに野方町東和田は和田山Click!(現・哲学堂Click!)の北側にある、荒玉水道Click!野方配水塔Click!(水道タンク)を想い浮かべるだろう。ただし、野方配水塔は1930年(昭和5)から本稼働をはじめるので、前年の1929年(昭和4)に描かれた本作は配水塔が工事中か、あるいは配水前の稼働実験中の姿をとらえているのかもしれない。この配水塔が完成しても、落合地域では旧・神田上水沿いの段丘に湧く清廉な泉や地下水の家庭利用Click!は減らず、荒玉水道はあまり活用されなかったことは以前にも書いた。落合地域(特に下落合)で水道水が本格的に利用されはじめるのは、戦後になってからのことだ。



 野方配水塔とみられる構造物の陰影を見ると、右側に影ができている。すなわち、描かれている情景は画面の左手が南側、あるいはそれに近い南東か南西ということになりそうだ。その手前には、モノクロでわかりにくいが左端から中央にかけ、やや上り勾配と思われる緩傾斜面には、家屋とみられるフォルムがいくつか確認できる。さらに、手前に拡がっているのは畑地ないしは草原で、その間を縫うように設置された階段のように見える道筋、あるいは用水の護岸のような窪地状のものが見てとれる。これが灌漑用水であれば、葛ヶ谷(西落合)の北西で旧・千川上水から分岐した落合分水Click!であり、手前に描かれた黒い筋は用水沿いの道路なのかもしれない。
 画家がイーゼルをすえているのは、前面に描かれた畑地ないしは草原よりもやや高い位置で、その小丘の上か斜面にある木立ちの間から、前面の畑ないしは原を見下ろすような視点だ。換言すれば、小高い位置だからこそ野方配水塔がよく見える構図が可能になったのだろう。落合地域の西部をよく歩くので発見できた、宮本恒平ならではの描画ポイントといえるかもしれない。
 さて、1929年(昭和4)現在で、これほど住宅が少なく畑地ないしは草原が拡がっているエリア、そして野方配水塔が木々の間から突き出て望見できる地域は、下落合の最西部から葛ヶ谷(のち西落合)にしか見られない風景だろう。もし、手前に描かれている窪みが落合分水であり、それに寄り添うように表現された黒い筋が道路だとすれば、画面に切りとられた風景の構成に見合う描画ポイントが1ヶ所思い浮かぶ。



 やや小高い位置から、畑ないしは草原を見わたすことができる場所、遠景に野方配水塔が望見でき、しかも時間によっては塔の右手に影ができる角度、そして画家がイーゼルをすえた斜面下の、それほど離れてない位置を落合分水とみられる溝と道路らしいラインが横ぎる地勢、これらの条件をすべて満たしている場所は、下落合が飛び地状に大きく北側へ飛び出した自性院Click!のすぐ西側、下落合大上2332~2349番地(現・西落合1丁目)の斜面から西北西を向いて描いた風景ではないかと思われる。
 『落合風景』の画面に描かれた景色は、ほとんどが当時の葛ヶ谷(西落合)地域であり、手前の樹木のある森が自性院墓地の西側に接した広葉樹林だろう。その広葉樹の葉が落ちていないところをみると、発表されたのは1929年(昭和4)1月11日~30日の第4回本郷展だが、実際に描かれたのは前年1928年(昭和3)の晩秋以前である可能性が高い。画角から見て、画面の左枠外には、井上哲学堂や葛ヶ谷御霊社、オリエンタル写真工業Click!などが、画面右手の樹木の陰には、今日の新青梅街道が野方配水塔の下に向かって走っているはずだ。また、画家の右手枠外には、すでに信仰が忘れられかけている妙見山Click!の、緑深いうっそうとした斜面が見えていただろう。
 建物や樹木の影から見て、描かれたのは昼前後か、午後の早い時間帯だと思われる。コントラストの強さから、おそらく空には雲らしい表現が描かれているものの、左手つまり南側からの陽射しはあったのだろう。もし、本作が秋に描かれているとすれば、ところどころに鮮やかな紅葉が彩を添えているのかもしれない。いまでは、描かれた風景のほぼすべてが住宅街で埋まり、土地の起伏さえ確認するのが困難な風情となっている。



 なお、同じ「美之国」2月号には、第4回本郷展に出品された松下春雄Click!『初冬』Click!の画面も掲載されている。松下春雄が第一文化村の北側、下落合1385番地Click!に住んでいたころの作品で、同作もまた下落合西部を描いているとみられる。

◆写真上:1929年(昭和4)1月に、第4回本郷展へ出品された宮本恒平『落合風景』。
◆写真中上:『落合風景』の拡大画面で、野方配水塔とみられるタワー構造物()、その下に見える家並み()、落合分水と道に見える畑地ないしは草原の窪み()。
◆写真中下は、1925年(大正14)差食いの1/10,000地形図での描画ポイント。は、それぞれ1936年(昭和11)と1941年(昭和16)の空中写真にみる描画ポイント。
◆写真下は、現在の野方配水塔(現・災害用給水槽)。は、自性院山門で本堂裏手の住宅街が描画ポイント。は、第4回本郷展へ同時に出品された松下春雄『初冬』。
おまけ
このような樹間から風景を写生する画家が、下落合の丘にはあちこちで見られただろう。下の写真は、1925年(大正14)の暮れに下落合の林で写生する吉屋信子Click!のお気に入り洋画家・甲斐仁代Click!