以前、1920年(大正9)制作の里見勝蔵Click!『下落合風景』Click!についてご紹介した。下落合を描く風景画が、いまだ流行Click!していない早い時期の作品で、同作は大正半ばから1922年(大正11)まで下落合323番地に住んでいた森田亀之助邸Click!を描いたのではないかと想定した。のち、森田亀之助は曾宮一念アトリエClick!の北側にあたる下落合630番地へと転居し、里見勝蔵はその隣りの借家へ引っ越してくることになる。
 森田亀之助Click!は、東京美術学校の教師で英語を教えていたが、里見勝蔵も佐伯祐三Click!もその教え子たちだ。森田と里見は12歳ちがい、森田と佐伯は15歳ちがいで、佐伯が一度めのフランス留学から帰国した1926年(大正15)現在だと、森田亀之助は42歳、里見勝蔵は30歳、そして佐伯祐三は27歳ということになる。師弟の関係とはいえ、それほど極端に年齢が離れているわけでもなく、また授業では美術そのものではなく語学や美術史を習っていたせいだろうか、里見も佐伯もなにかと気軽に相談できる相手として、森田亀之助を捉えていたふしが見える。
 さて、1926年(大正15)10月10日(日)の、東京気象台によれば野外写生に適さないどんよりとした小雨もよいの日に、佐伯祐三は「制作メモ」Click!によれば「森たさんのトナリ」Click!という20号のタブローを描いている。この「森たさん」は、佐伯祐三のアトリエから北東へわずか140mほどしか離れていない、下落合630番地の森田亀之助邸の隣家を描いている可能性がきわめて高い。当日は日曜なので、東京美術学校が休みで自宅にいた森田を、佐伯はひょっとすると訪問しているのかもしれない。では、なぜ森田邸の隣家などを描いているのか、そして里見勝蔵はいつ下落合630番地へと転居したのか?……というのが、きょうのテーマだ。
 活字になって残された資料によれば、たとえば1927年(昭和2)に発行された「アトリエ」4・5月合併号で、里見勝蔵の転居はすでに同誌「雑報」の中に紹介されている。
  
 里見勝蔵氏 東京市外下落合町六三〇に移転。
  
 「下落合町」は誤りで、正確には落合町下落合630番地ということになるが、同誌が書店の店頭に並んだのは3月末から4月の初めごろの可能性がある。また、奥付には同年4月15日印刷/5月15日発行となっているが、このデイトスタンプも前倒しで記載されている公算が高い。今日でも同様だが、雑誌類の「〇月号」は実質的の当該月の前月に発行されるのが慣習となっているため、3月末には書店の店頭に並んでいたのではないだろうか。
 同じく、「中央美術」5月号(中央美術社Click!)にも里見の転居が記載されている。
  
 里見勝蔵氏 府下下落合六三〇転居。
  
 ちなみに、「アトリエ」が4・5月合併号になっている理由が、「中央美術」5月号を見るとわかる。アトリエ社を主宰していた北原義雄が、自宅と編集部を牛込の喜久井町に移している最中で、その移転作業のために1号ぶんを休刊せざるをえなくなったからだ。同じ「月報」欄には、「北原義雄氏宅と共に牛込区喜久井町三四に移転、電、牛、六四二一」と記載されている。
 それまで、京都の実家にいたとみられる里見勝蔵は、1926年(大正15)暮れか翌1927年(昭和2)の早い時期に、森田邸に隣接した下落合630番地の借家を契約していることになるのだろう。そして、少なくとも「アトリエ」の合併号が店頭に並ぶ、3月後半には引っ越し作業を終え、下落合で暮らしはじめていたことになる。また、アトリエ社と中央美術社に転居通知を出したのは、そのさらに前ということにもなりそうだ。
 

 さて、佐伯祐三の「制作メモ」に残る、『下落合風景』の1作「森たさんのトナリ」にもどろう。佐伯が同作を描いた、1926年(大正15)10月10日の時点で、彼は里見が東京に家を探していることを当然知っていただろう。いや、1930年協会を結成したもっと以前から、里見が再び東京へやってくることはメンバーたちの間では共通の認識になっていたかもしれない。そして、里見勝蔵もまた同協会の会員たちに「いい家があったら紹介してくれ」ぐらいのことは、東京に出てきたついでに対面で、あるいは手紙で伝えていただろう。ひょっとすると、森田亀之助にも手紙で依頼していたのかもしれない。
 このあたりの経緯は、あくまでも想像の域を出ないのだが、森田亀之助か佐伯祐三のどちらかが、下落合630番地の「森たさんのトナリ」に、建設されて間もない借家があることを京都の里見勝蔵に知らせたのだ。その際、その借家がどのような様子なのかを、森田が写真に撮影したか、佐伯がハガキないしは手紙にスケッチしたかは不明だが、京都の里見に送っているのではないだろうか? わたしはかねがね後者のような気がしているのだけれど、里見はそれを見て東京へ出てきた際に、下落合630番地の借家を契約した……そんな気が強くしている。
 なぜなら、佐伯はそのときのスケッチがもとになって、あるいはスケッチから刺激されて、改めて『下落合風景』の1作に「森たさんのトナリ」を仕上げているのではないだろうか。「森たさんのトナリ」に比定できる画面は、現在でも個人蔵で伝わっているようなのだが、わたしは実際の画面をいまだ一度も観たことがないし、展覧会に出品された記録を確認した憶えもない。佐伯のサインも描かれておらず、おそらくは関西の頒布会を通じて販売された「売り絵」の1作なのではないだろうか。



 画面を見ると、特に佐伯が好きなパースのきいた風景モチーフでもなければ、構造物に硬質な質感のある構成でもなく、ただ単に東京郊外に建てられたなんの変哲もない住宅を2棟と空き地を、ふつうに描いているだけのように見える。下落合を歩く佐伯祐三の、いつもの眼差しであるなら、あえて見すごすようなモチーフなのだが、そのような場所を選んで描いているのは、その背景に里見勝蔵や森田亀之助にからむ、上記のようなエピソードがあったからではないだろうか。
 1927年(昭和2)の早々に、下落合630番地こと森田亀之助邸の南隣りへ転居してきた里見勝蔵は、近くに住む前田寛治Click!や佐伯との交流を深めることになる。当時の様子を、1979年(昭和54)に東出版から発行された『近代画家研究資料/佐伯祐三Ⅰ』所収の、里見勝蔵「佐伯と山本さんの蒐集」から引用してみよう。
  
 佐伯の下落合の画室では、前田も僕もその附近に住つて、毎日祭日の連続であつた。面白い遊技をした。前田の画室でゞもやつた、又、藤川勇造さんの家にもよく集つた。食料や蓄音機や色々おもちやを持つて、しばしばピクニツクに出た----一尺程の草の生へてゐる所で、馬のギヤロツプの如く足を上げてダンスをした。その草山が後に開かれて、今僕が住ふ井荻となつた。/ある時、二人はニ三日がかりで百幾十枚かの画布を製造した。又、二つの大きな画架を作つて、佐伯の画室に並べて、米子さんと三人は仕事に専念した。(生涯の中に無邪気に面白いといふ時代は、さう幾回もあるものではないらしい。)
  
 この時期の前田寛治Click!は、「美術年鑑」によれば下落合661番地、つまり佐伯アトリエに住んでいたことになっているが、わずか2ヶ月間の居候ないしは連絡先としていたようだ。1926年(大正15)8月に、前田は下落合1560番地から湯島1丁目20番地にあった「湯島自由画室」へと転居し、同年10月から12月まで佐伯アトリエ、そして同年12月から翌1928年(昭和3)6月までが長崎町大和田1942番地という動きをしている。したがって、里見や佐伯が遊びに出かけた前田寛治のアトリエは、下落合1560番地ないしは長崎町1942番地のアトリエだったろう。



 里見、佐伯、前田の3人は、戸塚町上戸塚866番地の藤川勇造Click!藤川栄子Click!夫妻のアトリエClick!へも、頻繁に出かけていた様子がわかる。ときに、妙正寺川の流れを湧水源(妙正寺池)Click!までたどり、井荻方面へピクニックに出かけた里見は、西武線が開通すると外山卯三郎Click!を誘って、アトリエ建設地Click!の下見にも出かけているのだろう。

◆写真上:佐伯と同じ小雨の日に撮影した、上智大学目白聖母キャンパスの庭になっている下落合630番地の現状。奥の突き当り左寄りが森田亀之助邸跡で、佐伯が描いた「森たさんのトナリ」は手前の敷地の家々を左手(西側)からとみられる。
◆写真中上上左は、1927年(昭和2)発行の「アトリエ」4・5月合併号にみる里見勝蔵の転居通知。上右は、同年発行の「中央美術」5月号にみる里見の転居通知。は、1926年(大正15)に発行された「下落合事情明細図」にみる森田亀之助邸のその周辺。
◆写真中下は、1926年(大正15)10月10日(日)の小雨もよいの日に制作された「森たさんのトナリ」とみられる画面とその改題。は、佐伯が制作した空き地には上智大学の校舎があるため現在描画ポイントには立てない。
◆写真下は、1927年(昭和2)7月に描かれた佐伯祐三『恐ろしき私の顔』。前月に刊行された『恐ろしき私』(改造社)の中河與一を東中野に訪ねた際、色紙に即席で描いた中河與一像。は、1926年(大正15)ごろにスケッチされた佐伯祐三『藤川栄子像』。は、そろってハイキングに出かけたとみられる妙正寺川の湧水源・妙正寺池。