以前、脳に結核菌が入り、おそらく結核性髄膜炎を起こして精神的に錯乱状態となり、下落合のアトリエで死去した近藤芳男Click!について書いたことがある。同じく、下落合にアトリエをかまえていた洋画家に、大阪の八尾中学を卒業して東京美術学校に入学した、柏原敬弘(けいこう)がいる。この画家もまた、鈴木誠Click!によれば「気の狂った」ことにされているのだが詳細は不明だ。
 1918年(大正7)の当時、東京美術学校3年生で22歳だったというから1896年(明治19)生まれであり、同年代の画家には林武Click!村山槐多Click!が、また東京美術学校では田口省吾Click!前田寛治Click!と同級生だったことになる。藤島武二Click!に師事し、20歳の美校生時代から文展には連続して入選しているようで、アカデミックな分野では才能のある画家だったのだろう。文展が帝展に変わってからも、引きつづき出品をつづけていたようで、1922年(大正11)の第4回展までの帝展入選が確認できる。
 そんな柏原敬弘について、1967年(昭和42)発行の「みづゑ」1月号に掲載された、鈴木誠『手製のカンバス―佐伯祐三のこと―』から引用してみよう。
  
 私は学校の卒業と同時に、駒込から目白落合に、二階ふた間もあるなにかわけのある家を法外に安く貸(ママ:借)りきることが出来たので、引越して住むようになったが、これより前にすでに彼(佐伯祐三)は、近所にアトリエを新築して住んでいた。その年の冬、通称洗い場という近所のお百姓さんがよく「ごぼう」を洗いに来る谷間、その南側に建てたこの家の日当りのよい縁側で、シャベルを借りに来た彼と、寝ころがって雑談をしていたようだった。(中略) 戦乱中だったか、戦後だったか目白通りの古道具屋で、片多徳郎氏や同じく落合に画室のあった気の狂った柏原敬弘の外数点の作品に混って額縁にも入ってない彼(佐伯)の画を見つけた。サインもないので道具屋から誰の作品か知らないまま、ただのように譲ってもらって今も大切に保存している。(カッコ内引用者註)
  
 諏訪谷Click!洗い場Click!近く、斜面に南向きで建てられた、どうやら「事故物件」と思われる2階家を借りてい住んだ鈴木誠だが、ときどき佐伯が顔を見せていたようだ。この文章を書いた当時は、もちろん鈴木は旧・中村彝アトリエClick!に住んでいる。
 佛雲堂Click!浅尾丁策Click!が見つけた、佐伯祐三の『下落合風景(便所風景)』Click!も池袋の古道具屋で発見されているので、戦後すぐのころは佐伯の作品が下落合周辺の骨董店に無造作に置かれていたのだろう。文中に登場している、下落合732番地の片多徳郎Click!もまた、アルコール中毒症が昂じて最後には自裁している。
 さて、柏原敬弘がアトリエをかまえていたのは、またしても下落合803番地、薬王院墓地Click!の西側にあたる一画だ。ここは、夏目政利Click!によるアトリエ建築が集中していた一画とみられ、洋画家たちが集中して住んでいた。ちょっと挙げただけでも、鶴田吾郎Click!(804番地)、鈴木良三Click!(800番地)、鈴木金平(800番地)、有岡一郎Click!(800番地)、服部不二彦Click!(804番地)、そして下落合803番地には柏原敬弘が住んでいたことになる。まるで、大正期の「アトリエ村」とでもいうべき家並みだったようだ。



 柏原敬弘が、いつごろから精神的におかしくなったのか、正確なところはわからない。ただし、1924年(大正13)以降の活動がみられず、同年からは美術年鑑などに住所と名前も見えなくなっているようなので、どうやら関東大震災Click!の前後から「気の狂った」(鈴木誠)状態になったのではないかと想像できる。また、東京美術学校にも卒業制作の作品が残っていないので、在学中から発症していたのではないかとも想定できる。では、なにが原因で精神的な錯乱状態を招来してしまったのだろうか?
 それを推測できそうな手がかりが、1918年(大正7)に泰山房から出版された芳川赳『作品が語る作家の悶(もだえ)』という、すごいタイトルの本がある。画家たちの作品を挙げながら、その裏に隠された物語やエピソード、ゴシップ、ウワサ話などを記した、ほとんど現代のセンセーショナリズム週刊誌のような内容なのだが、中には本人に取材して書いていると思われる章もある。その中に、柏原敬弘が1918年(大正7)の第12回文展に出品した『森の古池』をめぐり、「恋の落伍者となつた青年画家/思ひ出多い『森の古池』」と、これまたすごい題名の記事が載っている。同書から、少し引用してみよう。
  
 此の画題となつた『森の古池』は、氏が生涯忘れる事の出来ぬ思ひ出多い森ださうで、此画が出来上る迄には其処に云ひ知れぬ血と涙が注がれて居る。丁度此若い美術家が大阪の八尾中学を卒業した頃であつた。彼れには美しい一人の恋人があり、而も其の恋は精神的のものであつた。青春の血に湧く若い男女は村端れの森の下蔭に人目を避けて蜜のやうな甘い恋に憧憬れて互の理想と楽しい未来を夢みたが夫も束の間二人の恋は一場の淡い夢と消え去つて了つた。女は遂に柏原氏の燃ゆるが如き期待を裏切つて他の男に心を移し柏原氏を捨てたのである。捨てられた柏原氏の若い心は甚だしく傷つけられた。そして女の薄情に声を揚げて泣き暮らした悲観の極度が次第に女に対する憎悪となつて、感傷的な反感は遂に芸術を以て此反逆者に復讐すべく固く心の裡に誓つたのである。
  
 今日からみれば、プラトニックな淡い恋に破れたからといって、相手を裏切り者の「反逆者」呼ばわりし、こともあろうに「復讐」を誓うなど、いったいこの男の内面はどうなっているのか?……と心配になるのだけれど、同時にささいなことを根に持つ、どこか執念深いストーカーじみた粘着気質が想定できて、とても気持ちが悪い。女が「裏切つて」と書かれているが、裏切るほど関係が深くもなさそうなので、単に柏原に魅力がなく他の魅力ある男へ惹かれていっただけの話ではないだろうか。


 これだけのことを、著者である芳川赳がまったくの空想で書けるわけがなく、本人に対面して画題にまつわるエピソードを聞き出したか、親しい友人にでも取材しているのだろう。このあと、柏原は文展に入選して喜んだのも束の間、自分を振った女(特につき合いらしいつき合いもまったくしていないので、「振った」という表現も適切でないような気がするが)への「復讐」や「呪ひ」へと突き進むことになる。すなわち、彼にとっての「復讐」や「呪ひ」とはしごくまことに単純で、有名な画家になって彼女を見返してやろうというものだったようだ。
  
 けれども氏の此喜びの声は忽ちにして呪ひの叫びと化した 呪ひとは若い時忘るべからざる虐げを受けた女に対する憤激の迸りである。彼の女を呪へ……彼の女を征服せよ、此心が氏をして益々研究を続けさせたのである。そして氏は其一方此心の悩みから遠ざかるため、谷中の両忘庵の宗活禅師の許の(ママ)参禅して大悟の道を辿つた。果然女は氏の前に膝を屈したのである。氏の出品が入選となつた後は幾回となく氏の許に束なす謝罪の文が、其女から舞込んだが痛快な勝利者となつた氏は手にさへ触れずに小気味よい笑ひの裡に件の文殻を焼棄て了つたのである。
  
 自身が「虐げ」られ「捨て」られたなどと臆面もなく口にし、あらゆることがらは自分に責任があるのではなく、すべて相手のせいであり一方的な被害者こそ自分である……というような認識や感覚は、自己中心的な人間にはよくある稚拙な“被害者意識”なのだが、ここまでくるとすでに病的だ。彼の中で、巨大な女性コンプレックスないしは女性恐怖症のようなものが育ち、それが強い憎悪や嫌悪をともないつつ、“ひとり歩き”をはじめていそうな気さえする。
 文中では、相手の女性から「謝罪の文」が何通もとどいたことになっているが、これも柏原敬弘が取材にきた芳川赳に語った“妄想”のたぐいなのかもしれない。東京へとうに出ていった、過去に一時的で精神的なつき合いのみだった男の住所を、あえて彼女が知っているのも不自然だし、さっさと男を見かぎって取っかえるような女性が、過去のことにいつまでもこだわって憶えているとも思えないからだ。むしろ、文展入選後に「どうだ、これがキミの振った男、つまり前途有望な芸術家たるボクの姿だ」などという、どこか江戸川乱歩Click!を想起させるような、気色の悪い「復讐」の手紙を何通も書いていたのは、むしろ柏原敬弘のような気さえしてくる。
 

 わたしは、少なくとも芳川赳が書きとめた「柏原敬弘」のような、いつまでもイジイジとじめついた男が大キライなのだが、下落合803番地で暮らした実際の柏原敬弘の姿とは少なからず異なっているのかもしれない。だが、少なくとも『森の古池』のエピソードから推測する限り、自身が不利な立場に立たされると、すべてが他人のせいに思えてくる強い「被害者意識」をもった人物像が、そこはかとなく浮かび上がってくる。自ら谷中の寺へ参禅しているのは、自身の内面にもやや異常さの自覚があったからなのかもしれない。

◆写真上:薬王院の塀に面した、下落合800番地区画の現状(右手)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合800番地区画。は、1936年(昭和11)の空中写真と1947年(昭和22)の同写真にみる同区画。空襲の被害は受けておらず、戦後まで大正期の面影が残っていた。
◆写真中下は、第1回帝展に入選した1919年(大正8)制作の柏原敬弘『春の枯草』。は、第4回帝展に入選した1922年(大正11)制作の同『夏の輝き』。『春の枯草』の中央右手には水門があるが、いずれも大正中期の下落合風景を描いたのかもしれない。
◆写真下は、1918年(大正7)に出版された芳川赳『作品が語る作家の悶』(泰山房)で、同書の内扉()と柏原敬弘の記事「恋の落伍者となつた青年画家/思ひ出多い『森の古池』」()。は、画家たちが集った下落合800番地区画の現状。