8月15日というと、どうしても記事をアップしたくなります。単調でつまらなくて、ウンザリしているメンテ作業の息抜きに、ちょっと…。w 書きつづけていた習慣を突然やめると、なぜか書きたいテーマが二桁単位でたまってしまい、禁断症状が出ますね。
  
 わたしが旅行をした中で、目的地における滞在記録の最短レコードは、京都での3時間というのがある。もちろん仕事上の出張で、京都に事業所のあるクライアントの会議室でわずか1時間余の打ち合わせのあと、京都駅のカフェでひと休みしてから新幹線に飛び乗って東京へともどった。新幹線の中でも、ほとんどPCと向き合っていたから、旅行と呼ぶのもおこがましい“移動”だった。
 出張でもないのに、わたしよりも短い滞在時間のレコードを持っている人物が下落合にいた。下落合1丁目504番地(現・下落合3丁目)に住んだ、ビクター専属のバリトン歌手・徳山璉(たまき)Click!だ。ちょうど、中村彝アトリエClick!のすぐ北側、移動前の大正期に一吉元結工場Click!の職人長屋が建っていたあたりの一画に邸を建設している。
 徳山璉は17歳のとき、狂おしい想いを抱きながら東京駅から東海道線の夜行に飛び乗り、恋をした女の子を転居先まで追いかけて、早朝の大阪駅へと降り立った。駅前の公衆電話から、さっそく彼女の家へ連絡を入れると、やってきたのは彼女ではなく母親のほうだった。1935年(昭和10)に婦人画報社から刊行された「婦人画報」4月号に掲載の、徳山璉『春のモンタアジユ』から引用してみよう。
  
 僕は朝の大阪駅前に立つた。夜行で東京から来たのである。何故か腹が空いてゐた、途中一寸とも食べなかつたからである。/様子知らぬ駅前の公衆電話のボツクスに飛び込むと、僕はふるえる声でアル電話番号を呼ぶのであつた。暫くすると、その駅前の僕の方に向つて、彼女ではなく、彼女の母なる人が現れた。/『あの子の父が大変怒つてゐます。すぐに東京へお帰へりなさい』/『………』/滞阪レコード一時間に足らず、始めて踏んだ大阪の土地の水も飲まないで、僕は次の列車、上り列車の客となつてゐた。/涙がこぼれさうであつた。其処で僕は列車が止まる度びに弁当を買つたのである。癪にさわつて堪らなかつた、とうとう五つ弁当を食べた頃やうやく東京に帰へつて来た。/彼女に一言云ふどころか、影さへも見ないで帰へつて来た寂しいお腹の中には、東海道線のいろいろなお弁当がギツシリと詰つて胃壁を刺激するので、一層僕は悲しかつた。/その彼女が今では、妻となり、僕の子供の母となつて、精励これ努めてゐるのである。
  
 失意と駅弁の食べすぎの状態で東京駅にもどったあと、徳山璉は「若ければ啄ばむ果をも知らざりし唱ふ心は春なりし哉」という短歌を詠んで記念している。その後、なぜ東京と大阪で離ればなれになってしまった初恋の彼女が、いつの間にか徳山璉の連れ合いになっているのかは、書かれていないのでまったく不明だ。

 
 わたしは子ども時代を、湘南海岸Click!の真ん中あたりですごしているので、徳山璉のヒット曲というと条件反射のように、『天国に結ぶ恋』Click!(1932年)が思い浮かぶ。避寒避暑の別荘地・大磯駅Click!裏の坂田山で、服毒自殺した慶應大学の学生と深窓の令嬢との許されない恋を唄った坂田山心中事件Click!だ。「♪今宵名残りの三日月も 消えて寂しき相模灘~」と、わたしが子どものころまで、この歌を口ずさむ大人たちは、いまだ周囲にチラホラ存在していた。
 ちょうど、「♪真白き富士の根 緑の江ノ島~」と、逗子開成中学校のボート部の生徒たちが強風による高波で遭難Click!した『七里ヶ浜の哀歌』Click!(1916年)とともに、神奈川県の海辺ではいまだ“現役”で唄われていた歌だ。親に連れられ坂田山へ上り、ちょっと気味の悪い感覚で比翼塚Click!を目にしたのも、物心つくころだった。現在、坂田山心中の比翼塚は、海辺の明るい鴫立庵Click!に移されている。
 さて、戦争を経験されている方、あるいは敗戦後まもなく生まれ育った方は、徳山璉といえば日米戦争へ突入する前年、1940年(昭和15)に唄われた『隣組』Click!や『紀元二千六百年』などのほうが、圧倒的になじみ深いだろう。敗戦から、10年以上がたって生まれたわたしでさえ、これらの歌は親を通じて知っている。特に『隣組』のメロディーは、ドリフターズのテーマ曲やメガネドラッグのCMソングなどに使われているので、たいがいの方がご存じだろう。
 ♪とんとんとんからりと 隣組
 ♪格子を開ければ 顔なじみ
 ♪廻して頂戴 回覧板
 ♪知らせられたり 知らせたり
 明るいメロディとは裏腹に、同年の国家総動員体制や国民精神総動員運動のもと、近隣の相互監視と思想統制の密告・摘発・弾圧の仕組みとして、軍国主義のもと全体主義体制の推進を加速させた制度だ。あたかも「五人組」や「名主・差配・店子」などの制度と同様に、封建制の時代へと100年ほど時代を逆行させたかような「自治」組織であり、今日でいうなら北朝鮮の「人民班」とまったく同質のものだ。そもそも北朝鮮の「人民班」が、日本の「隣組」制度を模倣したとさえいわれている。



 こちらでも、「隣組」制度によってJAZZレコードの存在を密告され特高Click!に検挙された事例をご紹介しているが、JAZZレコードなど聴いておらず、当局によりJAZZが禁止される日米戦の前に、家の外へ漏れていた音色からJAZZレコードの存在を類推できる家庭までが、「隣組」や「町会」などの組織の密告によって特高に摘発されている。中には、DGG(ドイツ・グラムフォン)のベートーヴェンやシューベルトのレコードさえ押収した愚かな事例さえあった。
 徳山璉は、そのほか『撃滅の歌』や『日の丸行進曲』、『大陸行進曲』、『太平洋行進曲』、『空の勇士』、『大政翼賛の歌』、『愛国行進曲』…etc.、日米開戦の直後、1942年(昭和17)1月に死去するまで一貫して軍部へ協力し、軍国主義を推進する歌を唄いつづけている。このあたり、4歳年下で同じく下落合にも住んだ淡谷のり子Click!とは対照的な歌い手だ。もし、3年後に大日本帝国が破産・滅亡するまで生きていたとしたら、そして戦後の「亡国」状況を目の当たりにしていたとすれば、いったいどのような感慨や思想的(芸術的?)な総括を行なっていたのだろうか。
 1945年(昭和20)5月17日に、米軍の偵察機F13Click!から撮影された落合地域の空中写真Click!を見ると、同年4月13日夜半の第1次山手空襲Click!からかろうじて焼け残った、下落合1丁目504番地の徳山邸を確認することができる。また、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!でも、同邸はなんとか延焼をまぬがれて焼け残った。敗戦直後の空中写真を見ると、延焼の炎舌はわずか10mほど北側の隣家で止まっているように見える。


 
 徳山璉が敗戦時まで存命で、自邸がかろうじて焼け残った様子を見たら、「幸運だ」ととらえただろうか? それとも、焼け野原が拡がる周囲の下落合を呆然と眺め、さらに焦土と化した東京の市街地を望見して、「日本史上でかつてない、初の亡国状況を招来した最大の政治的失策であり不幸だ」と、はたして気づいていただろうか?
 まったく関係のない余談だが、いつか熊本県菊水町のトンカラリン古墳群Click!に出かけてみたい。侵入してきたヤマトを迎撃した伝承や、卑弥呼(フィミカ)との深い関連も指摘される、邪馬壱国(邪馬壹国)の有力な候補地のひとつだ。

◆写真上:下落合1丁目504番地(現・下落合3丁目)の徳山璉邸跡(奥右手)の現状。
◆写真中上は、1935年(昭和10)発刊の「婦人画報」4月号に掲載された徳山璉『春のモンタアジユ』。下左は、昭和10年代の徳山璉。下右は、1939年(昭和14)発行の「主婦之友」に掲載されたビクターではなくキングレコードの広告。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に発売された徳山璉・四谷文子『天国に結ぶ恋』。は、同年に松竹系で公開された五所平之助・監督の『天国へ結ぶ恋』。は、1938年(昭和14)作成の「火保図」にみる林泉園近くの徳山璉邸。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる徳山璉邸。は、1940年(昭和15)に発売された徳山璉『隣組』。下左は、蓄音機が「嫁入道具」などといわれて高級品だった1912年(明治45)の日本蓄音機商会の媒体広告。下右は、「大衆的製品」となった1928年(昭和3)のナポレオン蓄音機こと大蓄商会の媒体広告。それにしても、後者の「だいちくしょうかい」という社名は、もう少しなんとかならなかったものだろうか。
おまけ
 御留山に飛来した、おそらく渡りをしない東京定住組と思われるアオサギ。

追記
徳山璉のご子孫にあたるEIWAさんより、貴重なコメントをいただきました。徳山璉・寿子夫妻の生活や人生について、まとめられたブログをご紹介いただきました。下記のサイトなので、ご参照ください。「萩谷清江」をキーワードに検索すると、徳山夫妻についての物語や年譜などを参照できます。
Beautiful World
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-category-14.html
また、徳山璉随筆集』(輝文館/1942年)が国立国会図書館でデジタル化され、一般に公開されていますので、興味がある方はこちらもご参照ください。