1960~70年代にかけ、(城)下町Click!から山手線の外周域へと転居した人たちの中には、1964年(昭和39)の東京オリンピックをきっかけに、住環境の悪化と「町殺し」Click!による「人の住むとこじゃねえや!」の人たちもいれば、地元で小さな会社や店舗をかまえていたのに、「オリンピック景気」のとんでもない地価上昇によって相続税や固定資産税が捻出できず、やむをえず土地を売った(江戸東京方言で「出身地の町を離れた」「引っ越した」の意)人たちも大勢いる。
 地道に仕事や商売をつづけ、生活をしていくおカネぐらいはなんとか工面できていたのに、あずかり知らぬところで「億万長者」になってしまったというケースだ。せっかく先祖から受け継いだ、決して大きいとはいえない会社や店舗を維持・継続する土地があるのに、生活していくだけの現金しか稼げず、愛着のある地元で仕事や商売をつづけられないというジレンマが、多くの家庭でほぼ同時に発生していた。特に、東京35区Click!時代の地域でいえば神田区(千代田区)、麹町区(同)、日本橋区(中央区)、京橋区(同)、麻布区(港区)、芝区(同)、赤坂区(同)といった、(城)下町のコアを形成してきたエリアだ。
 まったく同じことの繰り返しが、20年後のバブル経済まっただ中に置かれた、落合地域のあちこちでも起きている。特に、目白通りに面した商店街のダメージは大きかった。坪あたり数百万円にすぎなかった地価が、アッという間に1千万円を超えたのだからたまらない。48坪(約160m2)前後の店舗敷地に、5億円の値がついた。目白通り沿いの商店や家々は動揺し、浮き足立った。毎日、地上げ屋が目白通りを徘徊し、戦前から地道に商売をつづけていた店舗が、相続税や固定資産税の重課にたえられず、商いに見切りをつけてクシの歯が抜けるように消えていった。
 そのあとにはビルや大型マンションが建ち、大手スーパーやコンビニが進出して小規模な個人商店を圧迫しつづけ、売り上げが減少して地代や税金が捻出できないという、20年前にどこか(城)下町の街角で見た、商店街の「衰退スパイラル」がそのまま進行することになる。当時の変転が激しい目白通りの情景は、わたしにとってもいまだ生々しい記憶として残っている。
 また、高騰する地価に目がくらみ、親族や昔馴染みの借地人が企業や商店をかまえているにもかかわらず、黙って不動産屋に土地を売りわたし挨拶もなしに、さっさと落合地域から離れていった地主もいたようだ。そのようなケースだと、なにも知らされていない会社や店舗では、ある日突然、不動産屋が訪ねてきて「立ち退き」を要求され、驚愕することになる。スズメの涙ほどの「借地権料」(立退き料)をわたされ、数ヶ月以内にすみやかに出ていけというわけだ。1964年(昭和39)の東京オリンピックのあと、まさに下町のあちこちで目にした、デジャビュそのものの情景だ。



 1980年代の後半、目白通り沿いの商店街は少なからずパニックと疑心暗鬼の渦中にあったらしい。その様子を朝日新聞が取材し、7回にわたる詳細なルポとして連載している。同紙のルポには、次のような出だしで取材意図が語られている。1987年(昭和62)2月4日発行の朝日新聞(東京版/西部)に連載された、「いま下落合四丁目で(1)―ルポ・新集中時代―」から引用してみよう。
  
 都庁が移転する新宿のはずれ、下落合四丁目。起伏のある閑静な街を歩いた。中曽根民活。東京改造。東京新集中時代、とも言われる。どこにでもある何げない街角にも、何かが起きているのではないか、と。統一地方選挙を前に、問う。
  
 このサイトで「下落合4丁目」と書くと、本来の地名Click!である下落合西部の中落合3~4丁目と中井2丁目界隈(旧・下落合4丁目エリア)をイメージされる方も多いと思うので、誤解がないよう念のために書いておくけれど、この記事に限っては現在の下落合4丁目(旧・下落合2丁目エリア)のことだ。
 1980年代になると、目白駅西側の目白通り沿いにはすでにオフィスビルやマンションが建ち並んでいたが、駅前から西へ6~7分ほど歩いた下落合4丁目の通り沿いには、いまだ個人商店の数が多く、1951年(昭和26)より「目白通りニコニコ商店街」が結成されていた。大型スーパーの進出にあたり、商店街が一致団結して商品搬入を阻止したエピソードさえ残されている。同年2月6日の朝日新聞に掲載された、「いま下落合四丁目で(3)―ルポ・新集中時代―」から引用してみよう。
  
 創立三十五周年に当たった去年(1986年)の歳末大売り出し。商店街から恒例のキラキラした飾り付けが、なくなった。役員会の議論は、延々二時間に及んだ。「景気づけには、ぜひものだ」「歯抜けの商店街には、似つかわしくない」「費用十六万円もきつい」。最後に会長が、「ま、やめましょう」とまとめた。/飾り付けを強く主張した洋品雑貨店は、大売出しから抜けた。/八年前(1979年)の話だが、会長は「あの時は……」と思い出す。当時、近くに大型スーパーができた。客を取られ、商店会がすたれるのは、目に見えている。ほかの商店会とともに、「商品の搬入を阻止しよう」ということになった。/一回は、強行突破された。その晩から、スーパーの入り口前に泊まり込んだ。「ニコニコ」は、いつも二十-三十人を動員し、トラックの前に立ちはだかった。「若かったから、できたんですよ」。(カッコ内引用者註)
  

 
 1970年代の末、進出してくる大型スーパーの前にピケを張るほど、団結力を誇っていた目白通り沿いの商店会は、わずか8年後には大売出しの飾りつけでさえ寄り合いの意見が割れ、歳末イベントから撤退する店舗まで現れている。文字どおり、クシの歯が抜けるように通りから商店が消えつづけたのは、それほど「1坪=1千万円」というカネの威力も大きかったのだろう。
 慰安旅行もかねた、「目白通りニコニコ商店会」新年会の参加人数にも、大きな変化が表れている。1980年代の初め、慰安旅行=新年会への参加者は50名を数えていたのに、同紙ルポが連載された1987年(昭和62)の時点ではわずか16名しか集まらなかった。同商店会の寄り合いがあると、いっそのこと「目白通りニコニコしてない商店会」にしたらどうか?……などという、なかば自虐的で、どこかあきらめが漂う冗談が囁かれていたと、同ルポの記者は書きとめている。
 バブルの崩壊をくぐり抜け、なんとか生き残った店舗も、現在はネットの普及でさらに厳しい状況に置かれているのではないだろうか。個人商店がつぶれ、すべてが大資本による均一化された品揃えやサービスになってしまったら、周辺に住む消費者としてもまったく面白くない。また、個性が消えアイデンティティが希薄になった、ならではの「地域性」や「地域文化」が不明な街に、人々は集まろうとはしないだろう。目抜き通りClick!に展開する商店街の衰退は、そこに住む住民たちの“脆弱化”に直結することを、過去に起きた(城)下町の多彩なケーススタディが教えてくれる。
 1980年代の狂乱地価は、家々の借地代ばかりでなくアパートやマンションなど集合住宅の賃料にもハネ返った。当時、下落合にあった古めな木造アパートの1DKの家賃は6万円。部屋を借りていたのは、近くにある大学の研究室に勤務する独身の女性で、下落合の街並みが気に入ってようやく探しあてたリーズナブルな物件だった。ところが、入居後わずか7ヶ月で大家から立ち退いてほしいと告げられた。大家が不動産屋を介して、アパートを丸ごと売り出したからだ。
 同一条件の物件は下落合に存在せず、彼女は都立家政や下井草、鷺宮まで探しまわったが、もはや6万円で1DKの部屋が借りられるアパートは、千葉県の浦安までいかなければなかった。彼女は、家賃条件を6万から7万に上げ、鷺宮にアパートを見つけて転居している。ちなみに、大家が売り出したアパートは山手線・目白駅Click!徒歩12分、一種住専、土地152.52m2(約46坪)の広さで1987年(昭和62)2月現在、3億9百万円だった。



 「女性雑誌に載っているようなマンション住まいなんて、夢ですよ。寝る広ささえあれば、あとは入れ物に合わせて、生活するだけ。でも、ホント、今回はラッキーだったわ」と、彼女は記者の取材に笑って答えている。「億ション」という言葉が生まれたのも、ちょうどそのころのことだ。

◆写真上:1987年(昭和62)2月に、ピーコックストアが入る目白ビルの上階から南を向いて撮影された家並み。右手前に見えているのが、建て替えられる前の早川邸、手前の屋敷林は今年(2018年)解体された柿原邸、上部に見えている横長のアパートが東京電力林泉園寮、そして向こう側の家々が旧・東邦電力林泉園住宅地跡。
◆写真中上は、目白通りのショーウィンドウに映る解体業者のスタッフ。(粒子の粗いモノクロ画面は同紙ルポより) は、1979年(昭和54)に撮影された下落合4丁目界隈の目白通り。は、現在(2018年)の同一場所。(Google Earthより)
◆写真中下は、解体後の店舗跡に置かれた引っ越しの遺物。下左は、丘上から望遠レンズで撮影した新宿駅方面。下右は、住民が消えた古いアパートのガスの元栓。
◆写真下は、タクシーから眺めた下落合4丁目の目白通り。まだ、通りの上に見える空が広い。は、1980年代に目白通りの目白アベニューマンションあたりから撮影された新宿方面。目白中学校Click!跡地に建てられた、画面下の西洋館は今年(2018年)になって解体された。は、藤田家Click!が昭和初期に建てた解体される前の西洋館。