「新宿の住宅地に、お百姓さんがいる、と聞いた」ではじまる、『いま下落合四丁目で(4)』は、1987年(昭和62)2月7日発行の朝日新聞(東京版/西部)に掲載された。2階建ての「ひなびた」民家を訪ねた記者は、薪で風呂をわかす情景に「まさか----」と驚いている。21世紀となった32年後の現在(2018年)、この「農家」はまったく変わらずに耕作をつづけている。おそらく、新宿区で残った最後の畑地だろう。
 畑は自邸の広い庭園内のほか、三間道路をはさんだ邸の向かいにケヤキの大樹やモクレン、カキ、ビワ、夏ミカン、ツバキ、ウメなどの木々に囲まれて、江戸東京の郊外で栽培されていた、ありとあらゆる「近郊野菜」が四季を通じて植えられ、また四季折々の園芸植物が花を咲かせている。もともと、落合地域の土壌は肥沃で、旧・神田上水や妙正寺川沿いの水田では米が、畑では麦や多彩な近郊野菜が豊富に収穫されていた。
 畑地の「農家」=S家は、薬王院の過去帳をたどると江戸時代は元禄期の下落合村からつづく地元の旧家で、大正時代までは落合地域の有名な特産物である落合大根Click!や、落合柿Click!を大量に栽培して出荷していたのだろう。いまでも畑では、相変わらず落合大根Click!や落合柿が100年前と変わらずに収穫されている。しかも記者と同様に、わたしも「まさか----」と驚いたことは、畑には現在の市販されている肥料はまかず、昔ながらの腐葉土と有機肥料、すなわち下肥えが用いられていることだ。だから、下肥えがまかれた直後、畑の前を散歩するとかなり匂う。
 32年前に掲載された朝日新聞の一連の下落合ルポから、少し引用してみよう。
  
 丸太が六、七本ころがる。まぎれもなく、マキでふろをわかしていた。(中略) 「湯あたりが、軟らかいんですよ」。モンペ姿の五十年配の婦人は、そう言う。たき口に残った消し炭は、七輪で魚を焼くのに使う。「味がまた格別なの」/広い庭の畑にはダイコンが植わり、ピンク色の寒ツバキが目にやさしい。(中略) 「落合草創の旧家」と、昭和初期の文献にはある。先代は、豊多摩郡落合町当時の収入役で、町会議員もつとめた。終戦直後までは田んぼもあった。いまや町内随一の大地主。貸地のほか、三カ所、約一千平方メートルの土地で、野菜を作る。/売るほどには、作っていない。「家庭菜園なんですよ」。土いじりが大好き。育つ姿がたのもしい。料理してもおいしい。「でも、こんな税金の高いところで百姓なんて、人さまからみると、ぜいたくなことなんでしょうね」
  
 確かに、有機肥料で育てられた落合大根の味は、おそらく昔ながらの美味しさだろう。毎年、「農家」では屋敷林から落ちた枯葉を燃やす落ち葉焚きClick!が行われ、風にのって香ばしい秋の香りを運んでくる。
 厳密にいえば、ダイオキシンやNOx、COxが発生しかねない低温燃焼の焚き火は、自治体の条例でとうに禁止されているのだけれど、みんな下落合らしい秋の風情を楽しみにしているので、誰も文句などいわない。タヌキが盛んに、「農家」の塀をくぐりぬけていくのもこの季節で、熟して落ちたカキを楽しみに通っているのだろう。






 実は、わたしの家も明治期まではS家の畑地だった。大正期に入ると、すぐに大小の家々が入れ替わり建てられたようだが、1923年(大正12)ごろになると、この一画には丸太を組んだ高原ロッジのような川澄邸Click!をはじめ、まるで佐伯アトリエClick!のような緑の三角屋根に白ペンキで塗られた下見板張りの住宅、彝アトリエClick!のような赤い屋根にクレオソートClick!を塗布した焦げ茶色の下見板張りの住宅など、瀟洒な西洋館が次々と建ち並んでいたようだ。わたしの知る限り、わが家の敷地に建てられていた家は、大正期から数えて4~5軒目になるだろうか。戦前まではS家からの借地だったが、戦後になると住民=土地所有者に変わっている。
 記事に登場する「モンペ姿の五十年配の婦人」は、いまも変わらずご健在で、腰がまがって80年配の「おばあさん」にはなったが、毎朝、畑の入念な手入れは欠かさない。近所の畑作を見て育ったせいか、うちの上の子が今年から裏庭に、ネコの額ほどの畑を耕して茄子や大根を作りはじめた。もともと土が肥えているせいか、それほど手をかけなくてもそこそこの収穫はあるようだ。ちなみに、うちは水洗トイレなので肥料に下肥えは用いていない。w
 つづけて、1987年(昭和62)2月7日の朝日新聞から引用してみよう。
  
 昨年春、畑仕事をしていた時のこと。サラリーマン風の人が通りかかり、「子供に見せてやりたいんですが、いいですか」と声を掛けた。何事かと思ったら、ソラマメのことだった。咲き乱れる、チョウの形をした淡い紫色の花を見に、子供たちがやって来た。婦人は、「いいことをしているんだなあ」とも思う。(中略) すぐ近くに、「おばけ坂」と呼ばれる坂がある。木々がうっそうと生い茂るからだ。先代が土地を提供したので、「うちの坂」とも呼ぶ。かつての豊多摩が、ここには残っている。/緑の中にも、マンションは立ち並んでいる。「コンクリートの建物は、好きになれません。どうも、心まで檻の中って感じですよね」
  
 とても新宿区とは思えない風情だが、当時の情景は現在も変わらずつづいている。わたしが下落合に惹かれた理由のひとつも、畑が残り、まるで山道へ迷いこんでしまったかのような、昼なお暗い急峻なオバケ坂Click!があったからだ。




 もっとも、この坂道は江戸期から通称「バッケ坂」と呼ばれていた急坂が、「バッケ」(崖地)Click!という江戸北部の方言が時代とともに通じにくくなり、いつの間にか周囲の鬱蒼とした風景に見合うよう、「オバケ坂」と呼ばれるようになった……と想定している。目白崖線には、あちこちに「オバケ坂」や「幽霊坂」と呼ばれる急坂が通うが、おそらくいずれも通称のバッケ坂がどこかで転化したのではないかと思われる。また、「オバケ」にも「幽霊」にも転化せず、本来の「バッケ坂」Click!と呼ばれる急坂が、現在でも落合地域の西端、目白学園西側の急斜面にそのまま残っている。おそらく、都内にみられる「八景坂」も「ハケ坂」または「バッケ坂」が転化したものだろう。
 オバケ坂は、いまでこそ整備されてしまい山道のようには感じられなくなったが、わたしの学生時代までは、森の下生えであるクマザサが両側から足元にせり出し、幅50cmほどにしか見えない細い土面の坂道だった。そして左手の鬱蒼とした森には、戦前からつづくS家一族のボロボロになった平家の廃屋が1軒、ポツンと放置され荒れたままになっており、大学からの暗くなった帰り道など、ほとんど街灯もない暗がりの山道を、ウキウキ・ゾクゾクしながら上っていったものだ。いまだ学生にもかかわらず、この街で暮らしたい!……と思った要因は、こんなところにもある。
 ここで、記事中に「うちの坂」という呼称が登場している。地主から見て、自分の土地に通う坂道だったから当然「うちの坂」と呼んでいたのだが、同じことが下落合に残る地名にもいくつか散見できる。江戸期に上落合の有力者たちが住んでいた集落(村)から見て、北に流れる川だから「北川」Click!(=妙正寺川)であり、川の北側にある土地だから字名「北川向」Click!と呼ばれていた。
 同様に、おそらく大地主(宇田川家)のすぐ前に口を開けていた谷戸だから、その谷間のことを「前谷戸」Click!と呼んだのだろう。「前谷戸」を周辺の土地一帯の字名として導入する際、江戸東京の各地にみられるように「谷戸前」としなかったのは、地主の力が強かったからだろうか、それとも字名とする以前から谷戸そのものに限らず、すでに広く一帯の土地をそう呼ぶことが慣例化していたからだろうか。



 2011年(平成23)に従来のアナログテレビ放送が廃止され、地上波デジタル放送がスタートすると、おそらく大正建築のS家では突然、ブラウン管のテレビが映らなくなったのではないだろうか。屋根上のアンテナは交換されず、その後も数年間、そのままの状態がつづいていた。ところが一昨年、最先端のUHFアンテナにパラボラアンテナが邸の横へ新たに設置された。豊多摩郡時代の「農家」の風情と、最先端の通信機器が共存する風景に、当時の取材記者は、今度はどんな感想を抱くだろうか?

◆写真上:12月撮影の冬枯れが進む下落合で、背後に見える雑木林が目白崖線の斜面。
◆写真中上は、さまざまな樹木が植えられた下落合に残る「農家」の庭園。は、上から順に1月・2月・3月・4月(2葉)の畑と周囲の木立ち。
◆写真中下からへ、順に5月・6月・7月・8月・9月の畑の様子。
◆写真下は、拡幅され昔の面影がすっかり消えたオバケ坂。は、下落合(現・中井2丁目)の西端に残るバッケ坂。は、御留山Click!にみる典型的なバッケ状の急斜面。