下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)に建っていた第二文化村Click!宮本恒平Click!邸は、1970年代末から散歩がてら何度か目にしている。だが、学生だったわたしの印象に残っているのは、門を入った玄関の左手に巨大なヒマラヤスギが繁る宮本邸の母家のほうであって、庭の南側に別棟として建っていたアトリエの姿ではない。
 周囲を屋敷林にでも覆われていたのだろうか、アトリエの面影はわたしの記憶からまったく浮かんでこない。宮本恒平アトリエは、庭先に建てられたかなり大きな建物だったはずだが、印象が薄いところをみると母家とは別に建てられた、戦後の新しい住宅と勘ちがいして、よく観察しなかったせいなのかもしれない。事実、宮本邸の母家は1926年(大正15)に竣工しているが、アトリエのほうはそれから13年後の1939年(昭和14)に、設計から14年もかかってようやく完成している。
 あるいは、大正期のモダンな母家の風情に見とれて、庭先の別棟に注意をはらっていなかったせいもあるのかもしれない。アトリエは戦後の住宅と見まごうほど、超モダンで現代的だったものだろうか。そこで、改めて同アトリエについて取り上げてみたい。宮本恒平邸の母家とアトリエについて概要を解説した、1987年(昭和62)出版の山口廣・編『郊外住宅地の系譜―東京の田園ユートピア―』(鹿島出版会)から引用してみよう。
  
 第二文化村に現存する宮本邸は、外壁スタッコ仕上げの当時としては典型的な文化住宅である。屋根にはフランス瓦を乗せ、腰掛けを備えた玄関ポーチ、南に居間・食堂と二階に応接室を配し当時最も多い中廊下による平面で建てられている。中村健二の設計により大正一五年に竣工した。アトリエは、一説には、施主と同じ東京美術学校の出身である建築家の作品とも言われている。計画から竣工までに一五年の期間を要し、昭和一四年に竣工した。内部は北欧民家を手本に設計されている。手斧仕上げによるくるみ材の梁・持ち送り、チューダー・ゴシックを基調とし、内部もスタッコ壁で仕上げられている。フランス帰りの画家宮本恒平の趣味が存分に生かされて設計されている(図番号略)。
  
 母家に比べてアトリエの施工が遅れに遅れたのは、「北欧民家」をコンセプトにした仕様のため、良質のクルミ材などを海外に求めた結果、満足のいく木材の輸入に10年以上もかかってしまったからのようだ。また、それらの木材に彫刻をする手間もかかったのだろう。同アトリエを施工したのは、宮大工の小林組と伝えられている。
 同書が出版された、1987年(昭和62)の時点で宮本邸はいまだ現存していたが、今世紀に入ってからは低層マンションに建て替えられている。わたし自身もハッキリと憶えてはいないが、1990年代の前半には宮本邸を目にした記憶があるけれど、1990年代後半に玄関前の大きなヒマラヤスギを残して解体されているのではないだろうか。当時のわたしは、このようなサイトを起ち上げるとは思ってもみなかったので、惜しいことに宮本邸および同アトリエを拝見しそこなっている。





 では、宮本アトリエの様子を詳細に記録した、1989年(平成元)発行の海野勉・編『「目白文化村」に関する総合研究(2)』(ワコー)から引用してみよう。
  
 屋根は、勾配の緩い切妻で、赤色のスペイン瓦で葺かれている。外壁は、スタッコ塗で、幅木は煉瓦積になっている。妻壁には、一面の欄間付き三連窓があり明るく、アトリエとして北側の採光を配慮していることがうかがえる。アトリエなので、玄関らしい構えはみられないが、アーチ型の木製ドアを開けると、2畳ほどの土間がある。狭いながらも凝った意匠で、床には鉄平石が置かれ、腰壁には模様タイルが張られ、ガラス扉には、鋳鉄製の透かし細工が嵌められている。この扉の透かし模様は、紋章などによく用いられる剣がモチーフとなっている。/さらに奥へ入ると、広さが約40畳、高さが4mを超える吹抜けの、小屋組が露出しているホール(アトリエ)になる。ホールの側壁には2階高さ(ママ)にギャラリーが設けられ、吹抜けホールを見渡すことができる。ここは壁にかけてある絵画を眺めるのに最適な場所である。ギャラリー直下は絵画を保存するスペースになっている。
  
 広さが「約40畳」ということは、すべてが実際にアトリエとして使用されていたとすれば、吉武東里Click!が設計した下落合のアビラ村Click!にある島津一郎アトリエClick!と同じレベルか、それに次ぐ面積ということになりそうだ。残されている写真を見ると、アトリエの広さに比べ採光窓が意外に小規模だったのは、島津アトリエとは逆に奥ゆきのあるタテ長の構造だったからだとみられる。
 文中で「ギャラリー」と表現されている、アトリエ内からの階段で上がれる中2階のような吹き抜けのスペースは、帝展画家のアトリエによく見られる設備だが、もともとの設計時には壁に架けられた作品を眺めるギャラリーとしてではなく、画家が200号を超える大きな作品を制作する際に、その構図のバランスやデッサンの狂いなどのチェックを、画面から離れて確認するためのものだったのだろう。上記の島津一郎アトリエや、南薫造アトリエClick!などでも同様の仕様を画室内に確認できるが、大画面の出品作が多い当時の帝展画家が建てたアトリエでは、かなり特徴的な仕様だ。

 

 
 『「目白文化村」に関する総合研究(2)』から、つづけて引用してみよう。
  
 (前略)小屋組をみると、キングポスト式トラス構造となっている。構造材はくるみ材を用い、全て山形紋様の装飾が施されている。また、トラス端部は植物紋様が彫刻されたブラケットで支えられ、垂木間はモルタルで充填されている。/次にギャラリーをみる。ギャラリーを支える柱は石張りで、その柱頭を結ぶ梁には、チューダー様式に用いられる紋章型のメダリオン(円形模様)が彫刻されている。上階のギャラリーに登る折れ階段は、親柱には植物模様が彫りこまれ、ねぎ玉風の頭が付いている。手摺子は、チューダー様式のねじれ棒型である。階段の途中には、丸窓のステンドグラスがあり、その模様はゴシック様式に用いられる三葉・四葉模様の変形とみられる。/さらに暖炉をみる。側壁中央にある暖炉は幅広で、野面石積みで、焚口はタイル張りである。煙突のマスが室内側に突き出し、その形状はアシンメトリカルであり、その出隅には隅石が所々に配されている。これと同じ意匠が外部の煙道にも繰り返されている。暖炉わきには、ゴシック・アーチ型のくぼみのあるニッチがみられ、イコンを収納している。
  
 ふんだんにおカネをかけた、凝りに凝ったアトリエだったことがわかる。できれば、残っている写真や図面を整理して、下落合に建っていた他のアトリエと同様に、小冊子の資料がほしくなるところだ。宮本アトリエが現存していれば美術面から、そして建築面から貴重な建築として、国の登録有形文化財に指定されていたのはまちがいない。





 ひょんなことから、わたしの部屋には宮本恒平の作品Click!が架かっているけれど、拙サイトでご紹介している画面はわずか3点にすぎない。おそらく、他の画家たちと同様に「下落合風景」を多く描いたとみられるのだが、目にする機会は残念ながら少ない。

◆写真上:第二文化村の宮本恒平邸跡で、ヒマラヤスギの右手に門と玄関があった。三間道路をはさんだ左手は、ハーフティンバー様式が美しい石橋湛山邸Click!
◆写真中上は、2階建てだった宮本邸母家の平面図。は、上から順番に宮本邸母家の玄関ポーチ、1階の南向き居間、居間つづきの食堂、そして2階のホール。掲載しているモノクロ写真は、『郊外住宅地の系譜―東京の田園ユートピア―』(鹿島出版会)または『「目白文化村」に関する総合研究(2)』(ワコー)より。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる宮本邸。は、上から順番に宮本恒平アトリエの採光窓、アトリエ出入口、画室、内部のドア、そして暖炉まわり。
◆写真下は、1941年(昭和16)に撮影された斜めフカンの空中写真にみる宮本邸。は、1979年(昭和54)の空中写真にみる同邸。は、上から順番にアトリエ天井の小屋組み、アトリエ内の「ギャラリー」、階段途中の丸いステンドグラス。